ユキ
ウサギは株式のトレーディングルームに出かけて行った。この白い部屋での生活にもすっかり慣れて、余裕すら感じるようになった。壁のリトグラフの青い馬に、じっと見られているのが気になるが。
ワイドショーで節分の
「私も、あんな顔で笑っていたのかな」
この生活に慣れ、染まっていくことは、元の世界からはどんどん離れていくということだ。もはや、この部屋こそが世界であり、現実であり、日常だった。
私は立ち上がり、掃除に取り掛かった。部屋の中、特に一夜を過ごした後のウサギの寝室は、生々しい匂いが籠っている。これだけはハウスキーパーの木村には見られたくない。それで、掃除は自分でやることを願い出た。
まず、リビング。念入りに掃除機をかける。以前、カーペットの上に長い髪の毛が落ちていた。自分のものではない。私が来る前にいた誰かのものに違いない。自分がここを出る時は、少しでも痕跡を残していくのは嫌だった。だからどうしても神経質になる。
その後ウサギの寝室に移る。シーツの乱れや湿った匂いに昨夜の記憶が鮮烈に蘇る。冷静を保つよう努めながらシーツを替え、ゴミ箱の中のティッシュを捨てる。小さくため息をついて、自分の部屋に移った。
ベッドの下に掃除機の先を入れた時、何かが詰まった。
「なに?」
それ小さな白い靴下だった。片方だけの子供用の靴下。およそこの空間にはふさわしくないものだった。まさかあのウサギが幼児を弄ぶことはないと思うが、それならなぜここに?
午後三時の東証の大引けから程なく、ウサギが戻って来た。靴下を見せると、一瞬驚いた表情をした。そして小さく息を吐き、尋ねた。
「どこにあった?」
「私の部屋のベッドの下に……」
「そうか……」
「あの、それは誰の、ですか?」
ウサギが天井を見上げる。
「ユキだ」
「ユキ……ちゃん?ウサギさんの?」
「違う。私の子ではない」
「そうですか。それで、今はどこに?」
「見れば分かるが、もうここにはいない」
一瞬、ひやりとしたものを感じる。
「何を考えてる?」
「い、いえ」
「教えてやろうか?」
「け、けっこうです」
きっと聞いてはいけないことだ。そう直感した。
「クローゼットの隅に、大き目の緑色の収納ケースがあるだろう?」
ウサギの声が低かった。
「は、はい」
「あのふたを開けてみろ」
「い、いやあぁぁぁ」
私は絶叫し、部屋から走り出ようとした。
「こら、待て待て」
ウサギが、私の手首を掴む。
「やだ、離して……、助けてぇぇぇ」
少しずつ、信じ始めていたのに。やっぱりこの男は鬼だった……。
「想像するのは勝手だが、ユキはちゃんと生きてるぞ」
「え……」
一気に緊張が解け、目の前が真っ白になった時。怒りを込めて叫ぶ。
「脅かさないでください……。私を恐怖に追い込んで楽しいですか?あの女と同じじゃないですかっ!」
「いや、あのケースの中にはユキが描いた絵が入っているんだが……」
「……そうなんですか」
もう、腰が抜けて立ち上がれない。
「アリスが来る前に、ここにはサキという女がいた。その娘がユキだ」
「母娘で、ここに?」
「ああ。サキは娘のことを心から愛していた。娘のために命を売ってここに来たようなものだ。鬼畜のような私でも、あの母娘のことを思うと胸が痛む……」
(ウサギの回想—――)
契約が終わった女を部屋から送り出してから三日。早くも玲が連絡してきた。
「ちょっと相談があるの。
「どうした?」
「困ったことがあって……」
また面倒なことを押し付けられるのか。気が重い。
「あ、いらっしゃい。待ってたわ」
「どうした」
「見て欲しい案件があるのよ」
いつものマジックミラー張りの部屋に行くと、向こう側には全裸の女が椅子に座っていた。その膝には三歳くらいの女児が乗っている。
「おい、なに考えてるんだ。あんな幼児を連れて来たら、さすがにヤバいだろ」
「そうなんだけど、あの女、娘を放そうとしないのよ」
データファイルによれば、母親の名はサキとなっていた。年齢は二十七歳、職業は風俗店勤務とある。元々はごく普通の派遣社員だったが、妻子ある男と不倫関係になった。やがて妊娠したサキに、男は中絶を迫った。それを拒んだサキは、生まれて来る子を一人で育てる決心をした。
しかし、運命はあまりに過酷だった。勤務していた会社の業績不振で、派遣切りに遭ってしまった。パートやアルバイトをいくつも掛け持ちしたが、ユキを育てるには、絶対的に収入が足りなかった。
追い詰められたサキは、風俗店に入った。なりふり構ってはいられない。ユキが腹を空かせている。そう思い、朝から深夜まで、目一杯シフトをこなした。
しかし、数年前のパンデミックで、その仕事も激減した。少しばかりの貯金を切り崩しなんとか生きようとしたが、それにも限界がある。やがて闇金から金を借りて、玲に捕獲されたというわけだ。
改めて鏡の向こう側を見ると、サキは、やはり苦労してきたのだろう。肌にも表情にも疲れが滲み出ていた。一見して、この
それに比べて娘のユキは、何の
「捕えた時は、まさか娘がいるなんて思わなかったのよ。でも見て、あの子、可愛いでしょ?アジアの富裕層って、日本人の可愛い子供を欲しがるのよね。金持ちの所に買われて行けば、それなりに幸せになれるんじゃない?」
相変わらずの畜生ぶりに、気分が悪くなりかけた。
「でもね、あの母親、娘のことを絶対に放さないのよ。引き離そうとすると≪私は臓器を売られてもいいから、この子だけは助けて≫とか、もう半狂乱」
「で、どうしろと?」
「情け深いあなたなら、母娘ともども引き取ってくれるかも、と思って」
玲が媚びを売るように笑った。
「負債は?」
「八百万円」
「仕方ないな。それくらいなら出してやるよ。期間は二カ月」
「さすが、仏様のようだわ」
「こんな汚れた仏様がいるかよ」
サキが一つだけ願い出たことがある。夜の「業務」が終わった後は、自室のユキのところに戻って眠りたいということだった。それを認めると、サキはほっとしたように笑った。
いままでユキを育ててきた環境は、決して良好なものではなかったはずだ。それに比べれば、清潔なベッドで眠り、栄養価の高い食事を与えられ、着る物も十分にあるこの部屋は、ユキにとっては楽園に違いない。いつもお絵描きをして、静かに、楽しそうにしている。
ユキにその環境を与えるために、見ず知らずの男に全裸で奉仕するサキ。普通に考えれば生き地獄だ。それでもサキは満足していた。ユキさえ幸せならば。だが契約期間が二カ月と比較的短いことに、少し落胆した様子だった。そして延長して欲しいと哀願するようになった。借金さえ返せれば、あとは何も要らない。だから、ここに置いて欲しいと。
その頃から、サキの振舞いは必死さばかりが目立つようになった。完済しても、ここを出れば生活の保障はない。新たな借金を背負えば、今度こそユキを奪われるかもしれない。最近のユキは栄養状態が良いためか、ますます愛らしくなっている。
今の境遇を失いたくない。そのためには、頑張って気に入られなくては。サキからサービスを受けていても、そんな気負いばかり感じて全く楽しめなくなった。
そしてさらに、サキの顔色が日に日に悪くなってきた。今まで無理を重ねてきたせいか、健康状態に
「サキ、こっちへ来い」
「はい」
「座れ」
何かを感じたのか、サキは手を握りしめている。
「契約を解消する」
「……」
「今の状態では、私も楽しめない」
「出て行けというんですか?死ねと言うんですか?借金もまだ残っているのに……」
サキはその場に泣き崩れた。
「サキの負債は、私が引き取る」
「え……」
「だから、もう闇金は手を出さないだろう。命令だ、入院して治療を受けろ。今のままでは本当に死んでしまう」
「だって、治療費なんて払えません」
「私が出す。雇い主が負担しても不思議ではない」
「ユキは、ユキは……。あんなに楽しそうにしているのに」
「サキが退院するまで児童相談所に預ける。公的な施設なら、万が一にも闇金が付け入ることはないだろう。それが一番安全だ」
サキはしばらく俯いた後、言った。
「わかりました。お願いします」
二日後、サキとユキを連れ、まず児童相談所へ向かった。ユキは久しぶりに外に出て不思議そうな顔をしていたが、車に乗るのが嬉しかったのか、笑いながらはしゃいでいる。
児相の前で車を止め、母娘を見送った。ユキの着替えなどを入れた小さなバッグをサキに渡す。母に抱かれたユキは、こちらを見て、バイバイと手を振った。
サキを病院に送るため、しばらく待っていると、所内から叫び声が聞こえた。やがて救急車が到着し、サキが運ばれていった。後で聞いたことだが、突然の心臓発作ということだった。ユキを安全なところに預けたという安堵、離れなければならない悲しみ、その両方が弱りきったサキに降りかかったのだろう。
サキの亡骸を引き取り、火葬して遺骨を知り合いの寺に預けた。児童相談所には寺の所在地を伝えた。後になってユキが母に会いたくなったら、再会できるように。
それを終えて、空を見上げていると、他人の心情を全く理解できない玲が話しかけて来た。
「母親もいなくなったし、ビジネスチャンスね。なんとか、あの子を手に入れたいわ。アジアの富豪に……」
「やめろ」
押し殺した声で、玲に圧力をかける。
「ユキに手を出すな。俺を怒らせるな、その気になればお前など……」
「わ、分かったわよ」
玲が急に
「冗談だってば。そんなにまともに受け取らないでよ」
そして続けた。
「あ、別件だけど、また新しい子を捕獲したわよ。二十歳の女子大生で、実家の料亭が破産して借金を背負っちゃったの。今度見に来てよ」
―――ウサギの長い話は終わった。
「アリス、どうした。疲れてしまったのか?」
「なにかもう、胸がいっぱいで……」
ウサギは収納ボックスの中から画用紙を出した。
「ユキが描いた絵だ。一枚だけ残っていた」
それは雪のように白い仔猫だった。汚れない笑みを浮かべる仔猫。サキが守ろうとしたものが、そこにあった。
「自分は全裸で欲情にまみれても、娘にはかわいい服を着せてやりたかった。自分は泥水を飲んでも、娘には温かい食事を与えたかった。自分が
あまりの衝撃で声も出ない。
「
サキは、辛く悲しい人生だったと思う。それでもユキを産んだことと、最後にウサギに拾われたことが、せめてもの救いだったのではないか。
その夜、ウサギと同じベッドでまどろんでいると、白夜の中で仔猫が「ミャア」と鳴いた。柑橘系の香りに溺れ、ウサギの背中に初めて腕を回した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます