カワウソ
この部屋にも新しい年が来た。眼下に広がる光の海も、少し
正月三日は休息日と言われ、何をするでもなくリビングでテレビを見ている。ハウスキーパーの木村さんが豪華なおせち料理を用意したので 食べるものには困らない。もちろん不味くはないのだが、やはり思い出すのは故郷の正月だった。
実家の料亭では師走に入ると、おせちの準備に入り、
(お父さん、お母さん)
今は亡き、父母の顔を思い浮かべ窓の外を見ると、冬の澄み渡った空が茜色に染まっていた。イルミネーションが少ない分、その色は普段より生々しく見えた。赤く、温かい血が流れていたあの世界。それが今は遠く感じられていた。
三が日も過ぎ、ウサギのビジネスである株取引きも始まった。私とウサギの生活サイクルも、元に戻った。
朝、私の「
エステシャンの
食べるものも着るものも十分に与えられ、時間もたっぷりある。スマホは
ウサギは私を愛しているわけではなく、私もまたウサギを愛してはいなかった。
愛は無いが、憎しみも無い。希望は無いが、絶望も無い。
与えられるのは生存するには快適な環境と、
人と人とが愛し合えば、そこには様々な感情や思いが生まれる。それは甘いだけでなく、必ず
それでも、ここに来るまでに実感した「生存の危機」を思えば、今の
そんな時、あの女がやって来た。
「久しぶり。元気そうね」
その残忍さを、
「そんなに怖い顔しないでよ。いい客を付けてあげたじゃない」
そう、それはそのとおり。だが、この女だけはどうしても……
「何の用だ、
ウサギが自分の部屋から姿を現した。
「冷たい言い方ね」
「今のところ、お前に用は無い」
「そんなこと言わないで、話だけでも聞いてよ。またいい子が入って来たのよ」
その言葉にどきっとして、背筋に冷たいものが走った。
「今はアリスと契約中だ」
「あら、特別に返品に応じるわよ」
私は
「悪いが、その気はない」
「いい子なんだけどなあ。きっとあなた好みよ」
「よせ、アリスが
あの
「ねえ、アリスちゃん。あなたにとってもいい話かもよ。他の客のところに行けば、もっと早く自由になれる可能性もあるわ」
「客が付かなければ、
「相変わらず、
「断る。いいから、もう帰れ」
「分かったわよ」
「どうした、アリス。顔色が悪いぞ」
全身に嫌な汗をかいていた。
「ごめんなさい。またあそこに返されると思ったら、気分が悪くなって」
「私は、約束は守る。アリスにとっては悪魔のような存在かもしれないが」
「生きていられれば、今は我慢するしかありません」
ウサギの言葉に少し安心したが、玲の非情な言葉から受けた衝撃は大きかった。
「
「あれはカワウソのような女なんだ」
「カワウソ、ですか?」
「そう。でも、カワウソっていうのは、ある意味人間に一番近い動物なのかも知れない」
あれ、どこかで聞いたかもしれない。記憶の糸を辿るが、はっきり思い出せない。
「なぜですか?」
「カワウソは捕らえた魚をすぐに食べないで川岸に並べたりする。それがまるで、神に
「そうなんですか……」
「でも、人間とカワウソだけは、他の動物とは違う。
「……」
「
「ひどい……」
「さっきも、ビジネスじゃなく、アリスの
「……」
「アリスは釣りをしたことがあるか?」
「はい、北陸にいた頃に一度連れて行ってもらいました」
「魚が餌に食いつき、次の瞬間、それが
蒼ざめるアリスにウサギは語り続ける。
「つまり程度の差はあっても、人間の中にはサディズムが潜んでいるものなのさ。人間とはそういうものなんだ。
ここに来るまで、そんなこと考えたこともなかった。
「ただ人間とカワウソが違うのは、人間には超えてはいけない最終ラインがある。
「アリス。君を抱いても最後まではしない、その本当の理由だが」
「それが違法だから、じゃないんですか?」
ウサギはふっと笑った。
「イザナミの話は知っているか?」
「……いえ」
「日本という国ができた時、イザナミという女神がいた。彼女は出産のとき死んでしまったが、夫のイザナギという神が、死後の世界まで妻を連れ戻しに行った。だが妻はもう、死後の世界のものを食べていたので、生前の世界には戻れなくなってしまった」
「……」
「アリスも同じだ。それを味わってしまったら、たぶん元の生活には戻れない。君は契約が終わったら、アリスではなくなる。もといた世界に帰って行くんだ。それを思えば……」
「私は、帰れるんでしょうか?父も母も死んでしまい、彼にも捨てられ、住んでいた部屋も大学生活も失ってしまいました。ここを出てから、どうやって生きて行けばいいのか……」
「それは私にも答えられない。だが、アリスが出て行くことだけは確かだ」
「いっそ、ずっとここに居られたらいいのに」
「心にもないことを言うな」
「ちょっとだけ、本気です」
「その時が来たらまた考えればいい。今はとにかく生き抜き、借金を清算しろ」
テレビニュースでは、各地の成人式の様子を伝えていた。本当だったら私も故郷の成人式に出席するはずだった。この日のために両親が用意してくれた加賀友禅の振袖を着るのが楽しみだった。しかし、それは叶わなくなった。
リビングで物音がする。人の声も聞こえる。ウサギに呼ばれてリビングへ行くと、その光景に息を呑んだ。私が着るはずだった振袖が、そこにあるではないか。
「どうして」
声も無く立ち尽くす。
「アリスの実家の財産はすべて処分された。だが、この振袖だけは私が手を回して買い取った。君が着たところを見たくてな」
何も言えず、ただ涙が
「アリスの親が、娘のためにあつらえたものだ。たった一つ遺った財産だ。たとえこんな
そこには着付けと髪のセットをする美容師が待っていた。
「ただ、残念だが写真は残せない。アリスが外の世界に出た時に支障になるかもしれないからな」
ウサギさん、あなたはいったい何者なのですか?残忍なのですか?
その日、私が身に
お父さん、お母さん、成人式の晴着姿、見えましたか?
「アリスが出て行く時、持って行けばいい。外に出たら改めて写真を撮るんだな」
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