ウサギ
「契約成立だ」
ウサギの口調が、明らかに変わった。
「これからは私に服従しろ」
言葉が出ず、黙っていた。
「返事は?」
「はい」
ウサギは満足げな笑みを浮かべた。
「では、服を脱げ」
「何の迷いも無かったな」
「仕事ですから」
「ほう、見上げたプロ根性だ。これからも期待できそうだな」
仕事だと割り切らなければ心が壊れてしまう。愛し合っていた頃、最後の一枚は必ず彼の手で脱がせてもらっていた。彼に求められている、そう思うことで心が満たされた。しかし今は、これは仕事なんだ。仕事なんだから、あの時とは違う。そう自分に言い聞かせていた。
「バスルームに行くぞ」
脱衣場でウサギの服を脱がせた。まず、上半身から。美しい腹筋が現れた。ウサギの前に正座し、左足を膝に乗せ、靴下を脱がせる。続いて右足。ベルトを
「なかなか手慣れているな。いつもやっていたのか?」
「いえ、どちらかと言えばやってもらう方が多くて」
「いいご身分だったわけだ」
ウサギの
浴室内の椅子に座ったウサギの体を洗う。まずシャンプー、続いて全身を洗った」。ウサギの体をバスタオルで拭い、浴室から送り出す。その後、自分の体を手早く、しかし念入りに洗う。
バスタオルを体に巻き付け、ウサギの寝室に入った。
「タオルを外してそこに座れ」
椅子に座るよう命じられた。
「左足を上げろ」
ウサギは私の左足首に、金色に輝く
裸体を拘束する細い鎖。これから三カ月、私はウサギに
「見ろ、これは契約の証だ。入浴の時以外は常に付けているように」
「はい」
ほとんど重さを感じないが、その心理的効果は大きかった。自分の立場を
私とウサギはベッドの縁に座った。
「どうすればいいですか」
「彼氏にやっていたのと同じようしてみろ」
その命令を受け、彼にした行為をウサギに対して行った。
「なかなか良かったぞ。指や舌の使い方も上手いものだ。男は何人知っている?」
「一人だけです」
「処女喪失は何歳の時だ?」
「十九歳です」
「ということは、彼氏は一年足らずで、何も知らない処女を、ここまで育て上げたということか?優秀な
別に無理やり
その夜はそれで終わりだと思っていた。しかしそれは大きな間違いだった。
「それでは、アリスにも楽しんでもらおうか」
「え、今夜はこれで終わりじゃ……」
「いやいや、言っただろ。たっぷりと快楽を与えるって」
「い、いえ。結構です」
「私に逆らうのか?」
ウサギの声が
「あ、すみません。決してそのような……」
あわてて言った。
彼は、静かに私を横たえ、繊細な刺激を加え始めた。若く健康な私の体は、無意識のうちに反応し始め、それは次第に大きなうねりとなった。
同じようなことは何度も経験していた。彼と寝た時、気持ちが高まるにつれてどこに触れられても心地よくなった。私は、愛があるから快感を覚えるのだと、ずっと信じていた。しかし、愛は無くとも体は反応するのだと初めて知った。
ウサギはゆっくりと愛撫を続けた。私が嫌がるような苦痛や、強い刺激は決して与えなかった。だから拒む口実もなく、私はそれを受け続けた。まるでマーマレードに漬け込まれ、トロ火で煮込まれるような、甘美な拷問だった。
疲れ果て、意識が遠のく。しかし、彼の指や、唇や、息を感じるたびに覚醒させられ、また声を上げた。それが意図的であるか否かに関わらず、彼が動くたびに私は
もし、強い苦痛や衝撃を加えられ失神でもしていれば、逆にここまで疲労は感じなかったのかもしれない。ウサギを恨んだり憎んだりすることで、逆に気が紛れたのかもしれない。
しかし、私が与えられるのはただ快楽だけだ。それが体中に沁み込んでいくことに、そしてウサギという男に、底知れぬ恐怖を感じていた。
ほぼ一晩中ウサギに弄ばれた後、私が目覚めると、ウサギの姿は既に無かった。時計を見ると、十時少し前だった。ハウスキーパーが来る時間だ。こんな姿を見られる訳にはいかない。私は這うようにして、自分の部屋に入り、鍵を掛けた。そし頭からシャワーを浴び、ベッドに倒れ込んだ。
再び目を覚ますと、十三時を過ぎたところだった。クローゼットの中から部屋着向きの服を選び、少しだけドアを開けて、様子を窺う。
しんとして、人の気配は無かった。ハウスキーパーは帰ったのだろう。部屋から出てリビングダイニングに行くと、テーブルの上には昼食が用意されていた。もう冷めていたが、魚の西京焼きと野菜の煮物が置いてあり、御飯と味噌汁も用意されていた。
「和食か」
ちょっと意外な気がした。魚をレンジで温め、味噌汁も熱くして、遅めの昼食を食べた。
「ん、美味しい」
確かにクタクタになるまで責められはしたが、苦痛は何一つ感じていない。急に食欲を覚え、用意されたものを完食した。料亭で生まれ育った娘だ。少なくとも和食については味が分かる。食材の魚や野菜、そして出汁も、かなり選ばれたものであると感じた。まだ若い私は睡眠と食事により回復し、部屋の中を見回す余裕が生まれた。
「そうだ、シーツを変えなくちゃ」
一晩過ごしたウサギの寝室は、シーツは乱れ。ゴミ箱には使用済のティッシュなどが大量に捨てられていた。
しかし、そこで私が目にしたものは、綺麗にメイクされたベッドと、完璧に清掃された室内だった。ハウスキーパーがやったに違いない。
ということは、あの乱れ切った状態を目撃されたことになる。客であるウサギに見られて恥ずかしくないことも、第三者に知られることは耐えられない恥辱に思われた。目の前が暗くなって、ソファに座り込んだ。
十六時頃、ウサギが戻って来た。
「お帰りなさい」
「ああ。どうだ、休めたか」
「はい。元気になりました」
「今朝、声を掛けても目を覚まさないから、そのまま寝かせておいた。ちょっと責めがキツ過ぎたか」
「はい、ちょっと」
「すまなかったな、次からは少し手加減しよう」
「お願いします」
その夜は、フリージングされていたビーフシチューを二人で食べた。やはり美味だった。
「毎日来る人は、料理人の経験があるんですか?和食も洋食もとても美味しい」
「ああ、木村か。彼女は以前ペンションを経営していたらしい。今は廃業して、ここに来ている。だから、料理もルームメイクもなんでもできるんだ」
「そうなんですか」
「だから、家の中のことは任せていい。洗濯もやってくれるぞ」
「そんな」
使用済の下着なんか見られるわけにいかない。
「今夜は休息日だ。自分の部屋で休め」
「あの」
「なんだ」
「お願いがあります。昼間、料理をしてはいけませんか。私、料亭の娘だったので料理は好きなんです」
「ダメだ」
ウサギは即座に言った。
「刃物は鍵の掛かる棚に保管する。アリス自身が料理することは禁止する」
「私に刺されるのが怖いのですか?」
「そうではない」
「アリスに自殺されたりするのが怖いんだ。警察に追及されたりするのはごめんだし、この部屋を事故物件にするのも嫌だ」
「そんなことしません」
ウサギは遠くを見るような目をした。
「アリスが私を殺すのであれば、それもいいと思う。私は株のデイトレードで、ただ金を転がすだけで莫大なあぶく銭を手にしている。それだけ負ける人間もいる。その生き血を啜っているようなものさ。その金で今度は、貧困に
「それなら、もうやめたら……」
「でも、世の中は綺麗ごとだけじゃない。こんな昼も夜も無いような世界でも、そこでしか生きられない人間がいるんだ。これから三カ月、アリスも嫌というほど知ることになるさ」
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