アリス

 私のかたわらには玲が立ち、目を光らせている。そこへフロント係の女性がが近づいて来た。

「宿泊のお客様でいらっしゃいますか?よろしければ、お手伝いいたしましょうか?」

「ありがとうございます。大丈夫ですから」

 玲は優雅な物腰で断った。私とフロント係の間にさりげなく体を入れている。彼女が去ると玲は時計を見ながら小さく舌打ちした。明らかに苛立いらだっているようだ。

 その時、オーダーメードらしき仕立ての良いスーツを着た長身の男が現れた。磨き込まれた茶色の革靴が近づいて来る。微かに柑橘系かんきつけいの香りがした。玲が男の方に顔を向けた。顔見知りらしい。間違いない、私の客はこの男なのだ。男はバッグからゴールドの鎖を取り出し、ちらりと玲に見せた。

「確認しました。この子がアリスです。お渡しします」

「どうも」

「それでは、これで」

 私の髪を撫でながら

「可愛がっていただくのよ」

 満面に笑みを浮かべながら、ヒラヒラ手を振って玲は去って行った。冷血な女だったが、一人残されると心細さがつのった。

「さて、アリス」

「アリス?」

「これから三カ月、君はアリスだ」

 何も言えず黙っていた。

「さて、クリスマスの晩餐でもどうだ?せっかくキレイな服をプレゼントしたんだし。今夜くらいワインを楽しまないか?」

「い、いえ……。ちょっと食欲が」

「そうか、残念だな。しばらく外に出られないのに。ま、仕方ない、それじゃ君がこれから入る部屋に行こうか」

 ああ、いよいよだ。表の世界を見るのもこれが最後かも知れない。そんな思いで、もう一度ツリーを見上げる。その光は変わらずに私に降り注いでいた。

 見えない鎖でかれるように、うつむいて彼の後に続く。エレベーターで地下二階の駐車場に降りた。シルバーメタリックの外国車の傍らに運転手が待っていてドアを開けた。私たちが乗り込むと、後部座席の窓が電動カーテンで閉ざされる。

「アリス、これを」

 男がアイマスクを手渡した。視界は完全に閉ざされた。これから連れて行かれる道中を知ることは出来なくなった。二、三十分走った後、ある建物の駐車場に停まった。下り傾斜を感じたから地下なのだろう。地下室とか地下牢とか、おどろおどろしい連想に一層体が強ばる。

「ちょっと窮屈だが、ほんの数分だ」

 車から降ろされた後、膝を抱えるよう姿勢で大きな箱に入れられた。台車で運ばれているようだ。換気用の孔があるのだろう、息苦しさは感じなかった。湿った木と塗料の匂いがする。やがてエレベーターに乗り高速で上昇し、そして停止するのを感じた。私を乗せた台車が進んで行く。車輪の音が聞こえないのはカーペットが敷かれているからだろう。すぐにドアの開く音がした。そこからまたわずかに進み、ドアが閉まった。箱が台車から降ろされた後、人が出て行く気配がした。手助けをしていた運転手が去ったのだろうか。上部が開いて、私は抱きかかえられ、床に降ろされた。緊張でかなり汗ばんでいたので、箱から出されてヒヤリとした空気を感じる。

 とうとう来てしまった。やはり監獄のようなところなのだろうか。

「アイマスクを外して」

 心臓が悲鳴を上げるのを感じながら、おずおずとアイマスクを外し、ゆっくりと目を開けた。

 そこは想像していたような閉鎖的な空間ではなかった。恐らくはタワーマンションの高層階の一室で、床までの大きな窓からは、人工的な光があふれた夜景が見えた。あかりを消していても、外からの光で室内はほのかに明るい。たぶん朝までこんな感じなのだろう。まるで一日中暗くならない白夜の国のように思えた。部屋の隅に小さなツリーがまたたいている。


「メリークリスマス、アリス」

 その男は言った。


 連れて来られた場所が意外にも開放的な空間で、特に虐待されることも無さそうだと感じ、少し緊張がゆるんだ。そのせいか空腹を覚えて男の勧めに応じ、ローストチキンを食べた。

「そうだ。栄養を十分取らないと体がもたないぞ。ケーキはどうだ?コーヒーもあるぞ」

 不思議と度胸が据わり、ケーキにも手を伸ばした。開き直ったということか。それにしても、なんと奇妙なクリスマスだろう。


 白い壁に一枚のリトグラフが掛けられている。青い馬の、その顔だけが描かれていた。その顔の横には一組のカップルがいる。馬は二人を見ているようだ。

「その画が気になるか、アリス」

「え、ええ。すごくシュールなので」

 男は画を見ながら言った。

「マルク・シャガールは知っているな」

「はい」

「それはシャガールの≪青い馬と恋人たち≫という画だ」

「あの馬にいつも見られているようでなんだか怖いです」

「そうだな。あの二人はアリスと、愛し合っていた彼氏なのかも知れない。幸せだった頃から、ずっと目を付けられていたんじゃないのか。あの馬の怨念が二人を引き裂いたというわけだ」

「やめて、怖い……」

 せっかく緊張が少しゆるんだのに。

「そんなにおびえるな。冗談だよ」

 薄く笑い、そして真顔になった。

「見ろ」

 ダイニングテーブルの椅子に座った私の前に一枚の紙が置かれた。

「契約書だ」

 その紙に目を落とした。期間は三カ月。報酬は四千五百万円。聞いていた通りだ。それから、ここで行われるプレイはすべて合意の上である、と明記されている。

「私は警察に捕まったり、訴えられたりして今の生活を失うのはごめんだ。だから違法行為はしない。暴力は振るわない。監禁もしない。いつでも契約を破棄して、この部屋を出て行っていい。ただし、その場合報酬は払わない。つまり借金は減らないことになる。そうなれば、また闇金に追われることになるだろう」

「ここにいれば、安全だと?」

「少なくとも生命の保証はする。そして契約が満了すれば自由だ。賢明な君なら、どうするべきかわかるな?アリス」

「はい」

「契約期間中、月経の間以外は大体一日おきにプレイする。さっきも言ったが、私は非合法なことはしない。つまり新風営法しんふうえいほうに従って、最後の性交まではしない」

「え?」

 こんな大金を使って、最後までしないなんてあり得るのだろうか。何十回も体内に侵入されるのだろうと諦めていた。せめて避妊具だけは着けて欲しい、それだけを願っていたのに。

「なんだ、してほしいのか。どうしてもと言うなら考えるが?」

「い、いえ。とんでもありません」

「プレイする上で何か無理なことはあるか?」

「痛くされたりするのはちょっと。されたことが無いので」

「なるほど、甘やかされていたのが良くわかる。ならば快楽のみ与えることにしよう」

 皮肉な言い方だ。

「ありがとうございます」

 礼を言うのもおかしな話だけれど。

「その方が体力的にはきついかも知れんがな」

 この言葉の意味を、後で思い知ることになった。

「ちなみに君の契約金だが、高級派遣型風俗を参考に、一日五十万円、九十日つまり三カ月で四千五百万円にした」

「はあ」

 自分に付けられた値段が高いのか安いのかさっぱり分からない。


「アリス、君の部屋だ」

 ドアを開けると、三十平方メートル程の落ち着いた感じの部屋だった。セミダブルベッド、ライティングデスク、ドレッサーが置かれ、シャワーブースとトイレも備えられていた。ウオークインクローゼットの中には大量の服とランジェリーが収納されていた。

「アリスのファションも私の楽しみのひとつだ。その服を、どんな表情で脱ぎ捨てるのか。そういえば着付けができると聞いたが、和服も用意しようか?」 

「い、いえ」

 首を横に振る。

「それは残念だな」

 その隣の部屋には、体形維持のためのトレーニング器具が置いてあった。それから施術台や美容室にあるような椅子と鏡があった。一週間に一、二回エステシャンや美容師が訪問するということだった。


「大体、理解できたか?」

「はい」

「納得したか?」

「納得というか……選択肢はないですから」

「気の毒な話だな。それでは、ここにサインを」


「ひとつ聞いていいですか?」

「なんだ?」

「あなたのこと、何と呼べばいいんですか?」

「ウサギだ」

「は、ウサギ、さん?」 

 聞き間違いかと思った。

「アリスと言えばウサギだろ」

「そんな理由で?」

 なんだか、力が抜けた。



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