第36話 きっと手に入らないもの

「副作用? んー、……それって、聞いてもいいの?」


「いいぞ、って言うと思うのか?」


 リッカは苦笑していた。


 ……聞く前から、答えを分かっていたようだった。


「あの、姉ちゃん……そろそろ下りてくれる……?」


「あ、ごめんね、サタヒコくん」


 お尻で踏んづけたままだったサタヒコの上から立ち上がるリッカ……。


 背中の重さが消えたサタヒコは、しかし不満そうに、まだ這いつくばったままだった。


 起き上がった気配がないことに訝しんだリッカが、「どしたの?」と。


 ……リッカは迷宮内の闇を見ることができていない……、だから音沙汰がないことを、異変だと感じ取ったらしい……が。

 銀髪の少女――もとい、(本人は納得していないものの、頑なに否定するつもりもないようだ――)『サクラ』が起きた異変に対処していないので、突然、湧いて出てきた敵ではなさそうである。


 サタヒコの、内側の事情だった。


「……よそよそしい……、おれたちは姉弟きょうだいなのに……」


「だって、あたしからしたらサタヒコくんとは初めて会ったわけだし」


「それ! サタヒコくん! って、違うよ! 姉ちゃんはおれをくん付けなんかしない!」


「じゃあ……サタヒコ?」


 うん! とサタヒコは満足気に頷いたが、今度はリッカが不満そうだ。


「……なんだかあたしが呼びにくいよ……。

 サタヒコくんのままでも……――でもちょっと長いかもね……。迷宮内で呼ぶなら、すぐに最後まで言い切れる長さの方がいっか――じゃあ、『サタくん』!」


 ついでに、と言わんばかりに、リッカがサクラ(の気配がする方)を向いて、


「サッちゃん、って呼んでもいい?」


「……サッちゃん……?」


「うん。サクラだから、サッちゃん」


「……そもそも、オレはサクラって名前を許可した覚えは……――あー、はいはい分かったよ、勝手に呼べばいいだろ。

 ……こんなことなら、今だけは目が見えない方が良かったぜ……」


「え、なんで?」


「なんでもねえよ!」


 リッカの落ち込む表情を見たら、強く突っぱねることはできなかった、とは……、言いたくなかった。そのため、彼女は話題を打ち切って、先へ進むことを提案する。


「呼び名なんかどうでもいいだろ。咄嗟に仲間の名前を呼ぶ暇があるなら、危険から逃げるべきだ。口より手を動かせ――だろ。

 名前なんて省略したっていい……右へ逃げろ、上からくる、そういった用件だけを直で伝えた方が早いってことだ」


 サクラ自身、仲間と行動を共にしたことはない。だから他人の名前を呼ぶ、他人から名前を呼ばれること自体がない……――経験したことがないものだ。


 そのため、名前の重要性を知らず、自身に名前がなくとも気にしていなかった。


 名前なんてどうでもいいし、なんだっていい――必要ない。


「生き残るだけならそうだけど……」


「生き残る以上に大事なことがあるか?」


「なんのために生き残るか、じゃないの? 生き残ったその後のことを考えたら……ただ用件を言うだけの関係性でいるのはなんだか……寂しいと思う」


 生き残ったその先……? そんなものは、生き残った後に考えればいいだろう――そう言い返してしまいそうなった寸前で、サクラは口を閉じた。


「この迷宮から脱出して――、一緒に美味しいものでも食べにいこうよ」


「…………」


 サクラは断らなかった……受け入れもしなかったが。


 少なからず、興味はあるようだ。


 だけど、


「無理だ」


「えー。でも、そういうご褒美がある方ががんばれると思うけど……」


「オマエと一緒にすんな、能天気バカが」


「おい!」


 すると、サタヒコがサクラに掴みかかる……、彼からすれば、がまんの限界だったのだ。

 姉への暴言を、これ以上、許すつもりはない。


「姉ちゃんがせっかく、歩み寄ってるのに……どうしてそう邪険に――」



「頼んでねえよ」



 一言だった。


 ばっさりと切り捨て、姉の親切心を踏みつけたサクラに、怒りが一気に頂点まで到達したサタヒコが拳を握り――、


「もうっ、見えてる同士で喧嘩しないでよ! あたし、分かんないんだから!!」


 手探りで二人の間に割って入ったリッカの一言で、サタヒコの怒りがすっと収まった……一時的にだ。一瞬、冷めた後、やはり完全に鎮まることはなく、ゴーグルの奥では鋭い視線がサクラに突き刺さっている……。


 サクラの方は、そんなサタヒコのことを見てもいない……眼中にはない、ということか……。


 その視線はサタヒコでなければリッカでもなく……――壁。


 いや、壁の向こう側か?


「……場所を突き止められたか?」


 水流に乗って遠くまでやってきたとは言え、迷宮内は続いている……、道が繋がっている以上、怪物の探索能力で見つかってもおかしくはない。


 匂い、音、気配――手がかりはたくさんある。


 生きて動いている以上、観測されないわけがない。


「……だらだら喋ってる場合じゃねえな。――逃げるぞ」


「――サタくん! そのゴーグル借りるよ! これで迷宮内が見えるんでしょ!?」


 サタヒコの顔からゴーグルを剥ぎ取り、自身の顔にはめるリッカ……――初めて見る迷宮内部は……思っていたよりも普通だった。


 誰もが想像するような洞窟の中みたいで……。


 もっとおどろおどろしい雰囲気だと思っていたが、これなら怖くない。


「……見えてもこれ、どこにどういう罠があるのか分からなくない……?

 でも、先輩は映像越しでも分かっていたみたいだし……」


「そりゃ経験則だろうな。罠を見ているんじゃないんだろ、そいつは周囲の状況から罠を推測しているだけだ……、そいつの指示はかなり正確そうだな」


「先輩の指示は一級品だからね――何度も助けてもらったよ」


 意中の先輩を褒められ、ふふんと胸を張るリッカである。


 それから、サクラと共に迷宮の先へ進もうとすれば、背後から声が。


「ね、姉ちゃん……? あれ、こっち、だよね……?」


「あっ。そっか、ゴーグル……あたしが使ってるから――ごめんサタくん!

 見えてないってこと忘れてた!」


 リッカが慌ててサタヒコの手を掴み、彼を引き寄せる――。


「え、ちょっと! なんで泣いてるの!?

 暗くて怖いから!? い、意外と子供っぽいところがあるんだね……」


 だけど、それが普通か。


 怪童として何度も何度も迷宮に潜ったことがあるからこそ、リッカは慣れている……が、サタヒコにとっては初めての迷宮である……怖くないわけがなかった。


 ゴーグルがあるからこそまだマシだが、それがなくなり、真っ暗闇の中、なにも見えず背後から追いかけてくる人喰いのドラゴンの圧を考えれば……、涙が出るのも当たり前である。


 そもそもの話、サタヒコはリッカの弟であり、彼女よりも年下だ……、子供っぽいところがあるのは当たり前だ――だって彼はまだ、子供である。


「……姉ちゃん、が……おれのことを、心配してくれるから……」


「ちょっと! 酷い人みたいに言わないで! 心配くらいするでしょ!」


「だって、おれのことを弟だって、認めてくれなかったじゃないか!」


「だから、それは覚えがないからで……っ! あたしだってサタくんが弟だ、って分かる記憶が戻れば、お姉ちゃんとして守るつもりだよ!」


「……うん、分かってる。今はそれで充分だから……」


 ゴーグルで見えるようになったサタヒコの表情……、それにより、自身が『覚えていない』ことで悲しませてしまっている弟(本当に?)へ抱く罪悪感が、どんどんと膨らんできている……できることならすぐにでも思い出したいが、自分の意思でどうこうできることじゃない。


 ――きっかけがないと、きっと、蓋をしてしまった記憶は取り出せない。


 蓋をしているだけならまだマシだが、完全に消えてしまっているとなると……。


「ずっと待つよ、姉ちゃんが記憶を取り戻してくれるまで」


「っっ!! もうっ、そんな悲しい顔しないでよ!!」


 思わず、弟の体をぎゅっと抱きしめていた。


 ……記憶が戻ったわけじゃない、だけど……少なくとも、サタヒコを無関係な男の子とは思えなくなっていた。


 こんなこと、先輩以外の男にするわけがないリッカからすれば、記憶がなくともサタヒコを弟として認めた、ということなのかもしれない……。


 抱きしめることに抵抗がないことが、彼が弟である証明であるとも言える……かもしれない。


「安心して。きっと記憶を取り戻す。何年、何十年かかっても――。

 だから、戻った時に隣にサタくんがいないと意味がないでしょ。

 ――守るから。必ず脱出しようね」


「……うん」



 抱き合う姉と弟――その光景を見ていたサクラは、この隙に別行動をすることもできたが、伝わってくる二人の愛情に魅入られてしまっていた……、足が動かない。


 彼女が知らない、温かい愛情それは、なんだ?




『命令だ――テメエにはこれを飲んで、迷宮へいってもらう……、おっと、間違っても地上へ出ようとするんじゃねえぞ? 後悔するのはテメエだ』


 隻眼の男に手渡されたのは――手の平の上を転がる、球体の、薬……?


『丸薬SAB――通称【スクラップ・アンド・ビルド】だ。使い捨てのテメエらがどこで死のうが構わねえが……、望むものを運んでくれりゃあ、オレらはテメエらが望むものを与えてやる……――なにが欲しいか、決めておけよ』




「……物じゃなかった」


 サクラが呟いた。


 なにを与えられても、満足しなかった……、食べ物も、おもちゃも、ペットも――。

 サクラを満足させてくれるものじゃなかった。


 いま思えば、『名前』でも良かったかもしれない……でも、一番欲しかったものは、言葉にできない、よく分からないものだった――。


 それを今、きちんと目で見て、これだと言えた……自覚できた。


 温かい愛情これが、欲しかった――。

 たとえ自分を、道具の一つしか思っていなかった隻眼のあの男からだったとしても……きっと満足したはずだ。


 サタヒコがいま、貰ったものを――サクラも求めていたのだ。


「……迷宮でしか生きられないオレには、無理な報酬だよな」


 ゴーグルもなく、肉眼で迷宮を見ることができる代償は、一つだけ――。


 彼女は、地上では生きることができない。


 地上の光は、彼女の瞳を、一瞬で焼くだろう。



「オレら『悪童』は、

 それが丸薬SABを飲んだことで得られた

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