第3話 なし崩し的なプロローグ
加瀨は幼い頃から、幽霊を視る事が出来た。
それは物心ついた時から感じるようになったものだった。
道をあるけば大抵遭遇するもので、最初こそちょっかいかけようという好奇心が湧いていたが、すっかり慣れてしまった今は互いに干渉する訳ではなく道行く人とすれ違うのと同じ感覚でこれまで素通りするようになっていた。
子供の頃は周囲に話し回っていたが、やがて気味悪がられている事を知ると次第に口数は減り、今ではすっかり誰にも言わなくなっていた。
そんな加瀨はこの瞬間、不覚にも初めて他人から看過されたのである。
◇
そして現在、加瀨は看過した張本人たる東堂と二人で真夏のアスファルトの上を歩いていた。
「痛!痛い痛い、腕そんな引っ張らないでくれよ…!」
そう、彼女に腕をグイグイ引っ張られながら。端から極めて見れば異端な光景であった。
力はそれほどでも良い具合にシャツの袖と腕の肉を一緒につまむものだから、やはりその痛さは相当なものだった。
「あら、それはごめんなさい。気持ちがはやってしまって」
左手に見える片瀬江ノ島海岸から横殴りする海風に黒髪を靡かせながら浮かべた東堂の微笑な微笑に、加瀨は戸惑いつつも目を逸らしながら訊ねる。
「だ、大体、急についてきてと言われても困るっていうか…そもそもどこ向かってんだよ?」
「まだ内緒よ」
「そ、そっか」
加瀨が若干の挙動不審を覚える理由。
それはこの道沿いにラブホテルが位置しているからだった。
大抵の男子高校生たるものその存在を察知すら能力に長けているものだ。
もちろん、彼女がホテルに誘うことと加瀨が幽霊を視る事が出来ることと、全く関係や関連性は皆無である。
しかしミジンコ程の可能性でもあれば、あらぬ期待をしてしまうのも大抵の男子高校生が長けている能力の一つである。
そして大体その期待は悉く打ち砕かれるのがセオリーだ。
東堂はあっさりと『休憩~』と書かれた看板を素通りし、そのままスピードを緩めること無く歩き続けた。
「ですよね…」
「あらどうしたの?」
「いや、何でも無いです…」
会ったばかりの異性に期待する方が愚者であると言わざるを得ないなと、自分を戒める加瀨であった。
そのまま歩き続けて約10分弱。二人は江ノ電が走る江ノ島駅近くの一軒の古い家の前に到着した。
「ここは…東堂さんの家?」
「ええまあそうね。…ちょっとそこで待ってて」
そう言って東堂は決して大きくはないがどこか情緒がある家にすたすたと入っていった。
「女子の家に俺は来てしまった…」
端に自転車を停めながら感慨深く呟く。
とはいえ東堂は何が目的なのか。今になって加瀨は考え始めた。
黒い猫、と彼女が言っていたからには東堂自身も視る事が出来る側の人間であることに間違いはない。
その情報をダシに金品を要求するよう脅迫?比較的珍しい共通項を持った者同士友達になりたい?はたまた恋人になってほしい?
「ないな…」
どれもまずあり得ないことは加瀨が一番よく理解していた。
「お待たせしました。さあどうぞ」
扉の向かうから声をかけられ、加瀨はフッと思考の海から浮き上がり、言われるまま家の扉を開けた。
「これは」
「いらっしゃいませ」
目の前に飛び込んだのは昔ながらの喫茶店のような造りだった。シックな木造の棚には古い本が、奥には蓄音機と立て掛けられた数枚のレコードが。
「ここが…東堂さんの家?」
その不思議なインテリアに加瀨は驚き、カウンターの向こうで何やらごそごそと作業をしている東堂に問いかけた。
「ええ。と言ってもここは昔、父が開いていた喫茶店ですけど。」
私の家は2階です、と東堂は小さく頭上を指差しクスリと笑う。
加瀨はしばらくキョロキョロと見回したあと、カウンターの一席に座った。
目の前に差し出されたアイスコーヒーを飲み、そして意を決して東堂に訊ねた。
「それで、東堂さんの頼み事って何?」
その言葉に東堂は作業を止め、スタスタとこっちに回って来て隣の席に腰かけた。
そしてその場で深呼吸を二回三回したかと思えば、先と同じように再び真っ直ぐな瞳で加瀨を見つめる。
「加瀨君。視える貴方に私の…私の仕事を手伝って欲しいの」
「え、仕事?」
期待とは違う回答にすっとんきょうな声を上げてしまった加瀨ら咳払いをしてから、アイスコーヒーをぐいっと飲んだ。
「すまん。えっと、それで仕事って何の?」
「私ね、この辺りで探偵をやってるの」
「探偵?」
「そう。探偵と言っても悩みを聞いてその悩みを解決するみたいなものだから、少し本来の探偵とはズレているのかも知れないけど。」
東堂は温度差で水滴滴るアイスコーヒーが入ったグラスの縁を指でスーっとなぞり、どこを見るわけでも無く話しながらぼんやりしていた。
「…亡くなった人達の相談を聞いてあげてるの。」
彼女の静かな呟きは、この場で無ければ聞き逃してしまう程にか細く儚げなものだった。
「亡くなった人って幽霊ってことだよな?」
「勿論。貴方も視えるのなら…分かるでしょ?」
「未練?」
「そう」
彼女の言いたいこと。それは彼らの未練を指していた。
加瀨も同じ立場として、何故彼らがそこにいるのかを何度も考えた事があった。
“この世に何かやり残した事がある”
だから彼らは居続けるのだと推測することは、加瀨にとってもそう難しいことでは無かった。
だがしかし、考えても考えても、頭では分かっていても、生半可な立場な自分にはどうすることも出来ない。
だからとうの昔に加瀨は諦めていたのだ。
ところが東堂は違った。
「私も何度も悲しそうな悔しそうな悲しそうな顔を見てきた。だからせめて…この夏休みを通して何かしたい、何かしようと思ってたの。」
そしたら、と東堂は加瀨の方を向き直る。
「道路でどこにも行くことが出来ない黒猫を貴方が抱えているのを私は見つけた。」
「あの猫も…そうか…そうだよな」
地縛。
未練を有して亡くなった生き物はその場に縛りつけられるという。あの猫はあそこで小さな命を落とし、そしてどこに行けるでも無くあの横断歩道の中心にずっと縛りつけられていたのだ。
「まるで、さも当たり前のように抱え上げた貴方を見て私は…その、心を打たれたわ。どうしてこんなに何の躊躇いも無く助ける事が出来るんだろうって。だからお願い、貴方も私と一緒に手伝ってーー」
「ちょ、ちょっと待った!」
そこまで聞いて加瀨を思わずストップをかける。
急に大声で遮られたからか、東堂は不思議そうにキョトンと首を傾げている。
「何か勘違いをしてるけど俺は違うんだ。俺は君が思ってるような人じゃない…」
見て見ぬふりをしてきた数年の記憶が、加瀨の頭の中を縦横無尽に駆け回る。
窓から射す日差しはグリーンカーテンに遮られ、散り散りに漏れたその淡い光が部屋のあちこちに散りばめられるように、加瀨の頭にもまた彼らの憂いを帯びた表情が点在していた。
「さっきの猫だってただの気まぐれで…だから…」
「だから?」
「俺は君の力にはなれない。そんな資格は俺には無い…」
言い切る加瀨の背中に重くのしかかるのはあの数年間だ。人に異物扱いされる恐怖に負け、幽霊の悲しげな顔から目を背けたあの数年間が、今嘲笑うかのように東堂との間に立ち塞がっている。
そして加瀨はその立ち塞がったものを越えられず、立ち尽くしているだけなのだ。
東堂は何も言わず、そんな加瀨をじっと見ていた。
「悪いけどごめn」
「…分からないわ」
「え?」
食い気味に放たれた東堂のどこかむきになった口調に、またしても加瀨はすっとんきょうな声を上げた。
「意味が分からない、そう言ったの。」
「は?え、いやだから俺はただの気まぐれで助けただけであって…」
「気まぐれだから、なに?」
東堂は真っ直ぐ加瀨を見る。
「何って…」
「気まぐれだろうとなかろうと、貴方があの場であの仔を救ったのは紛れもない事実よ。」
「それは…」
俯いた加瀨の視界にはニスで塗装されたシックな木目の床が広がってるのみである。
東堂は更に言葉を続ける。
「それに貴方が今までどうしてきたかも私にとって関係ないわ。私はこれからを貴方に手伝って欲しいの。」
「そんなの、東堂の勝手じゃないか」
「頼む側でこんなこと言うのも気が引けるけど、勝手を押し付けない頼み事なんてあるのかしら?」
「それは…」
またしても加瀨は言葉に詰まる。
はっきり言えば東堂のとんだ我が儘である。
加瀨の主観でも客観的に見てもそうであることに変わりない。
「…」
にもかかわらず加瀨が言い返せないのは、東堂の言葉に感化し、知らず知らずのうちに同感している自分が心の片隅にいると、今確かに感じ始めているからだった。
「…」
「我が儘を言ってるのは分かってる。本当にごめんなさい。けれどせめて…せめてこの夏休みだけは私に協力してほしい。」
お願い、と東堂は凛とした佇まいながら、どこか懇願するような目を加瀨に向ける。
加瀨は何も言わず木目を見て、それから陽が
射し込む窓の外を見た。
そのままお互いが喋らないまま、幾分か過ぎた。
グラスに入っていた角張った氷は既に融解し珈琲と混ざりあって、グラスは陽の光を浴びて淡いチョコレート色を光らせていた。
(これまでとこれから…か)
やがて何か納得したように1つ頷き、肩を強張らせながら、
「分かった。」
と今度は逆に加瀨の方から懇願でもするかのように、目は伏せたまま頭を垂れた。
「加瀨くん…」
「勘違いしないでくれ。俺は彼らと触れ合うのがずっと怖くて避けてた…。だから、何て言うか、東堂さんの手伝いで今までの在り方にケジメがつけられるんなら、俺は自分の為にそれをやりたいんだ」
何かを言いかけた東堂を制した右手とは裏腹に、恥ずかしさか後ろめたさか伏せていた視線は頼りなく宙をさまよう。
が、それは手に唐突な温もりを感じたせいですぐに自らの手に移り、そこで初めてその温もりが東堂の手の体温によるものだと実感した。
「あ、あの東堂さん?」
「ありがとう…本当にありがとう…」
どこか震える声を漏らして東堂は加瀨にそう告げた。
高校二年の夏休み。
こうして加瀨は東堂と共に、未来永劫決して忘れられない2週間を過ごすことになる。
これはほんのプロローグであった。
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