32話 あぁ証明してしまった!


 登校して、自分の席についたとたん、紗季が廊下から手招きしてきた。


 紗季がLINEを使いたがらないのは、相手の表情を見たいからなのだろうか。

 確かに実際に会うことで得られるものは多い。目の動きひとつとっても、多くを語っているものだ。あいにく、おれにはそれを読み取る技量はないがね。


 くだんの悪意ある噂の影響はまだ残っており、二人で廊下を歩いているだけで、周囲からじろじろと見られた。

 不快といえば不快だが、だからどうした、という気もする。流れついたのは図書室。ただし地理学コーナーに入るような真似はしなかったが。


 今回も挨拶抜きで、紗季が本題を切り出してきた。


「首尾は?」


 最近やたらと首尾を聞かれている気がするな。だが、こう問いかけられることは分かっていた。


「『耳をすませば』を見た」


 紗季は小首をかしげる。


「私は4回くらい見たことあるけど」


 驚愕したね。これが漫画なら、目玉が飛び出るほどの驚きだ。

『耳をすませば』を4回も見た、だと? この女、それでよく絶望せずにいられたな。

 いや、そもそも青春の教科書を何度も見ておきながら、『青春とはなんぞや?』と問いかけつづけてきたのか? 暗号表があるのに暗号解読できていないようなものだ。


「お前、大丈夫か? 脳味噌が溶けてないか?」


「失礼ね」


「いいか紗季、あれこそが青春というものだぞ。おれたちには、はじめから到達できない領域だったんだ」


「あのね。君のまわりに、『耳すま』の二人みたいな人物が1人でもいる? いないでしょう? 現実の人間の心は、ヘドラみたいなものよ」


「……なんだヘドラって?」


 おれとしては当然な疑問だったが、なぜか紗季には衝撃を与えてしまった。


「えぇ、ゴジラと戦った公害怪獣よ。知らないの? 子供のころパパとゴジラシリーズ一気見しなかったの? どんな不幸な子供時代だったの?」


「失礼な。それなりに幸せな子供時代だったとも。親父とはスターウォーズを一気見した」


 ああ、幸せな子供時代を送った二人が、まともな青春を送れない人間に成長してしまった。なんて悲劇なんだろう。

 この世界の悲劇に違いない。おれたちは証明してしまったのだ。幸せな子供時代があっても、人はダメになるんだぜと。


「つまり、何が言いたいんだお前は?」


 紗季は数式の答えを言うように、明々白々として言うのだった。


「誰の心も汚れ切っている」


「あー、そういうことか!」


 視界が開けた。トンネルを抜けたら光に包まれた感じ。

 こういうことだ。誰の心も汚れている。『耳をすませば』のように澄み切ってはいない。

 だがしかし、心の汚れた奴らでも、青春を体験しているではないか。よっておれと紗季にも可能性がある。心が汚れていても、まだチャンスはあるのだ。


「ところで紘一。わたしは、ずっーーーと不思議に思っていたのだけど」


「なんだ?」


「わたしの『首尾は?』という問いかけの答えが、なぜ『耳をすませばを見た』だったの? 桐澤さんの好きな映画が、それなの?」


「桐澤……」


 捨てたゴミのことを、いちいち覚えていないだろう?


 確かにおれは昨夜、『耳をすませば』から受けた衝撃のあまり、桐澤とか堂上とか、そういう我が人生にとって、まったくどうでもいい連中を、脳のゴミ箱に捨てたのだ。

 だけど紗季が持ち出してくるのなら、仕方ない。ゴミ箱から拾ってこよう、桐澤とか堂上とかを。


「ああ『首尾は?』というのは、桐澤の情報収集の件だったのか」


「なんだと思ったの?」


 青春について。

 おれたちの人生について。

 おれは志穂をデートに誘うべきなのかについて。

 あと紗季は、紗季が救われたらいいのにな、という諸々。


 そういう勘違いだったと、いちいち話すこともあるまい。


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