第43話 愛おしい人

 結局わたしが真花さんの部屋に二日、泊まることはなかった。それにはやっぱり無理があった。甘い、甘すぎる幻想だった。

 代わりに手を引かれて連れて来られたのは瑛太の部屋だった。瑛太の部屋は昼間と変わりはなく、部屋に干されたわたしが借りた服だけが浮いた存在だった。

 ぼんやりそれを眺めているとガチャンと音がして部屋の鍵が閉まったことがわかった。あ、ふたりきりになったんだ、とわかりきったことを考える。


「上がって」

「うん」

 少し緊張して靴を脱ぐ。カタンと踵を揃えて立ち上がった瞬間、後ろから抱きすくめられる。

「ごめん、傷物にしちゃったな」

「瑛太がやったんじゃないよ」

「間接的には俺のせいだよ」

 唇に唇を重ねて、わたしたちはなんの罪悪感もなく久しぶりに抱き合った。胸の痛みなんて関係なかった。瑛太が欲しいという気持ちだけで胸の中はいっぱいだった。

 あの、キスしてもらった日と同じ。

 小鳥のようなキスをたくさんもらって、そのまま狭い部屋の奥に行く。「いい?」と聞かれて小さく頷く。

 ――本当はもっと早くこの日が来るはずだったんだ。


 いつもよりブラウスのボタンがたくさんついている気がするのは、瑛太が不器用にそれをひとつずつ外していくからだ。

わたしはもう肌を見られることが恥ずかしくて······あんなに脳内練習したのにそんなのなんの役にも立たなかった。

 左胸には大きなガーゼが貼られていて、彼はそれには注意深く触れないようにしていた。

 素肌がすっかりはだけると、瑛太は大きなため息をついた。

「大きな傷があるのにこんなことしたらいけないのはわかってるんだけど」

「でも物事にはタイミングがあるし」

「それはいまだって思っていい?」

 もうひとつ頷く。


 キスは唇だけじゃなくどんどん広がっていって、そんなところに、と思うところにも唇が追いかけてくる。わたしが彼のものだという印が次々と刻まれる。

なぜだか普通とは違うが、彼の唇を通して身体中の神経を伝わって広がっていく。熱いアルコールを一口飲み干したみたいに気持ちは高ぶって、触れられる度に少しずつ瑛太の色に染っていく。

「あ······」

 舌先は意地悪でそんなところを、といったところまで舐められてしまう。足の指先から手の指先まで。体中、全部。体が勝手に反応して魚のように跳ねる。目と目が合う。深く深く唇を合わせる。


「は······あ······」

「痛くない?」

「痛くない、瑛太が気をつかってくれてるから」

 太ももを指が這い上がる。

 唇を噛み締めるような快感が上ってくる。

「わたし、欲しい」

「本当だ、体もそう言ってる」

 彼の指先がわたしの体をそうさせる。感じる。指先から伝えられる熱い想いはめくるめく快感の波となり、ため息は声になってこぼれ、涙が目の端に滲む。


「でももっといまの顔を見せて」

「焦らさないで······頂戴」

「本当にいいの?」

「お願い」

 恥ずかしくて瑛太の顔を見られない。背中に回した指先が、もうどちらのものかわからない汗で滑る。朝顔の蔓のようにするすると欲望はのぼりつめて、蕾をつけて花開くのを待っている。「欲しい」なんて言葉、自分の口から出たのが不思議だった。

「あの、初めてなの。やさしくしてくれる?」

「え? 奥寺とは?」

「どうしてもこれ以上無理だったの······。こんな気持ちになれなくて」

 ぽんぽん、とやさしく頭を叩かれる。その顔には微笑みが浮かんでいた。

「すごくうれしい」

 耳元で小声で囁かれる。

 ぞわぞわっと全身の毛が逆立つような感覚がして「すきにして」と懇願した。


 触れ合う部分が熱をかき立て、その時を待つ。

 彼はゆっくり慎重に進んできた。次第に繋がりが強くなって、確実なものになっていく。なにかがわたしの足りないところを徐々に埋めていく。

 揺れる。呼吸は切れ切れになり、気づいた彼が頬を撫でた。

「別の日でもいいんだよ?」

「ううん、このまま」

「でも苦しそうだし、怪我もあるし」

「お願い、続けて」

 事はゆっくり続いた。永遠に時間が引き伸ばされているような、引き伸ばしたいような、不思議な感覚がわたしの身の内に起こった。

 言い知れぬほどのしあわせが、わたしを埋め尽くした。このしあわせにずっと埋まっていたい――。


 ぷつん、と緊張の波は高まると共に途切れてすべては終わりを告げた。

「愛してる」

 耳元でささやかに聞こえた小さな声を、わたしは抱きしめた。体と心が絡まりあってひとつになった――。やっと。


「これで名実ともに恋人になれた?」

「最初から恋人だっただろう?」

「ううん、ずっとこうなりたかったの。わたしは実はいやらしい女で」

「そんなこと言うと、一度じゃ終われなくなるから」

「二度目があるの?」

「お望みなら三度でも」

 瑛太は笑った。なにかおかしなことを聞いたかしらと思った。

 でもまぁいい。多少おかしくても彼はわたしをバカにしたりしない。わたしの愛おしい人――。





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