第42話 約束の場所
瑛太に背負われて病院に行く。病院は閉まる寸前だった。運が良かった。
とりあえずベッドに寝かせられて、瑛太はわたしがブラウスを脱ぐ前に白い小部屋から追い出された。
医師はわたしの傷を細かく検分して、ガーゼを貼って処置をした。「大丈夫、傷は残らないよ」と言われて安心する。この傷が残ったら、わたしより傷つくひとがいるから。
「まったくなにをしたらこんなことに。その男の子が刺したんじゃないんだよね?」
「違います! あの······警察とか来ちゃいますか?」
「通報でもしない限り来ないでしょう」
しばらく寝てていいと言われ、頭の中のこんがらがったものを整理する。記憶が刺された瞬間にズームアップして、それ以外が見えない。
カッターはわたしの胸を切りつけた。刺さらなかったからだ。もう少し鋭ければ、或いは真花さんの力が真っ直ぐに強ければわたしはもういないひとになっていたかもしれない。
真花さんだって、本気じゃなかったんだ――。
だからと言って良いことだということではなくて、真花さんの中のやさしさが傷をここまでに留めた。或いは迷い。
瑛太を愛する気持ちが逆に迷いを生んだのかもしれない。
廊下で女のひとと瑛太が話す声がする。瑛太はしきりにはい、はいと相槌を打っていた。
ああ、やっちゃったよ、おばあちゃん。
わたしはなんにもいらないって顔をして、自分から手放したものを他人の手から掠め取ろうとしたんだ。
これが『純粋に、正直に』の答え。
本当に逢いに来た方がよかったの? ねぇ、おばあちゃん。
瑛太がわたしのベッドまで歩いてきて、わたしの目を見た。このひとは何も怖いものなど無いような顔をして意外と泣き虫だ。わたしは手を伸ばしてその濡れた頬に指先で触れた。彼はわたしの手を握った。
「泣かないで」
「美波がいなくなるかと思ったんだ」
「いるよ、ここにいる。例え邪魔者だとしても、ここにいるよ」
「俺のこと、許してくれる? 今までいい加減に生きてきた罰だ」
それはあるかもしれない。
わたしも同じだ。瑛太から逃げ続けた。面と向かって会うことを躊躇い続けてここまで来てしまった。
「愚かなわたしも許してくれる? あの時の選択、絶対間違ってたって今ならわかるの」
「お互いちょっと違う方向を見てた」
「そう。ほんのちょっとだけ。それがこの三年間だったんだよ」
六年のうちの三年間。なんてバカだったんだろう? ずっとずっと変わらず想っていたのに、どうして。
「顔色が良くなってきた。よかった。これからはずっと一緒だ。もうこんな目に遭わせない」
「早く帰ろう。きっと心配してるから」
わたしは看護師さんが貸してくれた紺のカーディガンを羽織って病院を出た。
街のネオンと車の明かりで空には星が見えなかった。真っ暗だ。まるで何もかも吸い取ってしまうように。
不意に怖くなる。自分が宇宙の一部になる日を想像してしまったからだ。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
「これからは何でも正直に言えよ」
「······三年後が怖くて」
ふたりとも足が止まる。
信号のところにある大型ディスプレイでやっているお笑い番組の右下に、隕石と地球の軌道が描かれている。あのディスプレイを見て笑うひとはいるんだろうか? それともみんな麻痺してしまったんだろうか?
「三年後も変わらずそばにいるよ。もうどこにも行かない」
「わたしもそばを離れない」
抱きしめてくれるのかと思ったけれど、覆いかぶさったその右手はわたしの背中をポンポンと叩いた。そうだ、わたしの胸には傷があったんだ。軽く叩かれた振動が胸まで響く。
「もう大丈夫だよ。全力で守る」
わたしは思った。もしもあの時······。
「刺されたのが瑛太じゃなくてよかった」
ぽろり、言葉になる。嘘はない。体の痛みは治す薬があるけれど、心の痛みに効く薬はない。わたしの傷は治るけど、瑛太に何かあったら、と思うと怖い。
「あのね、重いかもしれないけどわたしにはもう瑛太しかいないの。わかってくれる?」
「美波を孤独にしたりしないよ」
「本当に?」
「本当に」
空が何もかもを飲み込もうと待ち構えていても、その夜はそれ以上怖くなることはなかった。わたしは独りじゃなかった。お寺からずいぶん遠いところに来てしまった。頼るべきひとはこのひとひとりだ。
お店の中では真花さんがまだ菜穂子さんの腕の中で泣いていた。すすり泣く声。店の中は空気が澱んでいた。
「何だって?」
「傷は残らないそうです。ご心配かけてすみませんでした」
「バカね、原因はほかのひとでしょう? あなたが謝る必要ないでしょう?」
「でも······」
「あなたが先に謝ったら、謝れないひとがいるってことよ」
世の中は難しい。
ひとの気持ちはもっと難しい。
元はと言えばわたしが悪いのに、謝られる立場になんかなれない。
真花さんは項垂れたまま、もう二度と顔を上げないんじゃないかと思った。
「真花」
その頭はのっそり、瑛太の方を向いた。
「悪いのは全部俺だよ。恨むなら俺にしてくれ」
「何言ってんの? 昔から『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』って言うじゃない。アンタも、美波も、みんな憎いわよ」
「······正直、そんなに想われてると思わなかった」
「わたしだって遊びの一環だと思ってたわよ。かわいい男の子を連れて歩く優越感、そういうものなんだって。でも――サヨナラね」
「真花」
「アンタたちってバカみたい。悪夢から身を守るドリームキャッチャーをお互いに持って、お互いの夢に渡らないようにしてみたり。バカ同士、お似合いよ。早くどこかに消えちゃいなさいよ。ここにいつまでもいると、また酷い雨が降ってくるかもよ」
「真花」
やめなよ、と菜穂子さんが仲裁に入った。真花さんはまた下を向いて黙ってしまった。
瑛太も黙った。
菜穂子さんがお湯を沸かす音だけが聞こえてくる。コポコポと水の弾ける音だけが。
「······どうしてわたしじゃダメなの? 愛してるの。こんな気持ち、初めてなの。誰よりも大切に思うの」
「もしかしたら『順番』なのかもしれない。でも俺も美波も信じてる。これは運命なんだってことを。強く意識してる。ずっと一緒に生きていく相手だってことを」
「一緒に死ぬ相手じゃなくて?」
「真花、俺たち、もしもこの嫌な予言が嘘だとしたら八十年後も一緒に生きていくんだ。普通におじいさんになって、おばあさんになって。未来は完全に閉ざされたわけじゃない。美波と一緒だとそう思える。だからずっと一緒に生きていくよ」
この言葉はわたしを泣かせた。
人生が数十年と言われて生まれてあと三年、それがもし八十年になっても······って先に言ったのはわたしだった。
八十年後も手を繋いで生きていこうと、そういう約束。約束の場所はきっとある。
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