第41話 狡い女
ふたりの手は店の手前でどちらかということもなくそっと離れた。これから何がどうなるのかわからなかったけど、不思議と心には力が満ちていた。それは、瑛太がわたしの方を向いてくれているという狡い確信があったからだろう。
瑛太はわたしのものじゃない。
真花さんのものだ。
忘れちゃいけない。
ドアベルを鳴らして店へ入ると真花さんが店番をしていた。よく見ると奥で菜穂子さんも作業を続けていた。
バリから届いたというその品々は不思議なスパイスのような香りを振り撒いていた。
「久しぶりのふたりきりの時間は甘かった? それとも苦かった?」
「そうだな。甘かったよ」
瑛太が間髪入れずにそう言うと、真花さんは声に出して笑った。この上ないと言うほどおかしそうに。
わたしは酷い罪悪感を感じていた。
「三年ぶりに別れた彼女に会って、甘かったの? それじゃわたしの立場はないじゃない」
「真花はいつもはぐらかすけど、本当に好きになった男っている? 一番すきな男っているの?」
その時真花さんはレジにこじんまりと座ったバリの釣りする猫の置き物をひとつつかんだ。慌てて菜穂子さんが後ろから止めに入る。
猫を持つ真花さんの手は小刻みに震えていた。猫も一緒に震えていた。
菜穂子さんの手はしっかり真花さんの腕を握りしめてその手から猫を取った。
「その男が瑛太だったらどうする? チャラチャラしたわたしの人生を変えてくれるひとは瑛太しかいない。わたしの運命の男は瑛太だったらどうする?」
瑛太はじっと彼女を見て沈黙した。
「なんで答えないのよ! 若い女の方がいいんでしょ!」
「真花ちゃん、それは言い過ぎ」
「なっちゃんは黙っててよ! これはわたしと瑛太だけの問題なんだから! 田舎からふらっと現れた女なんかに瑛太を盗られるわけにいかないんだから!」
うわーっ、とすごいエネルギーと共に真花さんは泣いた。その気持ちはわたしの心に小さな針を何千本も刺した。チクチクが止まらなくて、息が苦しかった。
どうしてわたしが彼女を追い詰めたのか?
それは全部瑛太のため。失くしてしまったわたしのすべてを取り戻すため。
瑛太が彼女の背中を撫でる。抱きかかえるようにして。
見ていることしかできない。あの日のプラネタリウムのように。全部受け止めて。
「なんとか言いなさいよ、美波! 泥棒猫!」
「······どんなに罵られても構いません。わたしにとってはこの三年間が間違いだった。消しゴムで消せないからないことにはできません。わたしがつまらない意地を張って瑛太と別れたのがいけないんです。でも、それでも」
「美波を置いてきた俺がバカだったんだよ。美波にどうしようもできないことがあるのがわかってて、自分を優先した。その結果は知ってるだろう? 勉強にだって身が入らないでフラフラしてる。真花には本当に謝っても謝りきれない。蹴られても殴られてもいい。だからごめん。······別れてくれ」
「そんなこと言われて別れる女がどこにいるのよ! 愛情がどんなに重いものか、タバコの煙みたいに軽いアンタに教えてあげる」
真花さんは瑛太を振り切ってカウンターを越えてわたしの方へ走ってきた。
狭い店内でとっさに動くこともできず、彼女を丸ごと受け止めてしまった。
その手の
鈍い痛みが走る。大丈夫、刺されたわけじゃない。そんなに強い力じゃない。
「美波!」
わたしは足の力が抜けて、ドアにもたれかかるように座り込んでしまった。心臓が早鐘を打つ。あまりの出来事に呼吸も速くなる。
瑛太が、菜穂子さんがあわてて駆け寄る。
「瑛太くん、救急車!」
「······大丈夫、切り傷だと思うから話を大きくしないで」
恐る恐る見ると切りつけられた白いブラウスに真っ赤な血が滲んで見えた。それが自分の血なんだと頭で確認すると、今度は目の前が真っ暗になった。遠のいていく、目の前の瑛太が······。
「瑛太······」
わたしたちは古びた小さいベンチに座っていた。瑛太のわたし側の大きなポケットにホットコーヒーが入っている。
ポプラの木は好き放題に黄色い落ち葉を落として、銀杏は立ち竦むように足元にだけ黄色い三角形の葉を落としていた。
ふたりでコーヒーが入った同じポケットに手を入れる。触れた手と手がやさしい。
瑛太は「大丈夫?」と訊いてわたしは「大丈夫だよ」と答えた。
すると真っ白いコートの胸の部分から少しずつどうしてか真っ赤な血が滲み出してきて、どんどん、どんどん。
瑛太が「大丈夫?」と訊く。大丈夫って言えない。怖い。
胸の奥にしまってあった瑛太との思い出のすべてが真っ赤な血となってどくどくと流れ出していく。
「大丈夫?」と訊く声が次第に遠のいていく。怖い。こんなに怖い。助けてほしい。怖い。許して――!
「美波、ごめんなさい!」
涙がぽたぽたブラウスの上に落ちた。
わたしはどこかに寝かせられていて、とにかくまだ生きていた。意識がしっかりしてくると、鈍い痛みがわたしを襲った。どくん、どくんと傷口が脈打っている。
「······真花さんは大丈夫?」
うっ、と真花さんは嗚咽を漏らした。
「本当にごめんなさい。たかがひとりの男のために他人を傷つけるなんて」
「いいんです······わたしはそれだけのことをしたんだから」
と口に出しては見たものの、事の成り行きがどうなったのか、さっぱりわからなかった。瑛太、瑛太はどこに······。
「美波ちゃん、瑛太くんは薬局に行ってる。そんなに遠くないからすぐに戻ると思う。とりあえず消毒しないとね。金属は危ないから」
ああ、全身の力が脱力する。まだ瑛太を失ってないみたい。よかった――。
その時、また乱暴にドアが開いて瑛太が帰ってきた。息を切らせて、汗を流して。ずいぶん走ったのかもしれない。辛そうだった。
「菜穂子さん、これ。言われたもの」
「一応、応急処置しようと思ったけど病院に行っておこうか。まだ開いてるんじゃないかな? 傷痕が残るタイプだとかわいそうだし」
「残るの?」
「素人だもん、わかんないわよ。だから行くの」
菜穂子さんはやさしく「立てる?」と訊いた。はい、と答えたけど腰に力が入らない。瑛太がそんなわたしを見て引っ張り上げると背中に背負った。
「保険証は?」
「カバンです」
「瑛太くん、ひとりで行ける? 真花、ひとりにできないから」
「真花のこと、よろしくお願いします」
真花さんは泣きながらしゃくり上げていた。ごめんなさい、と繰り返す言葉が店の中を空回る。わたしは自分が受けた傷の何倍もの深い傷を彼女に負わせたことを知った。
「いいんです。それだけのことをしたんです」
わたしは狡い女だ。ひとにつけ込むなんて、いつからそんなに狡猾になったんだろう。
行くぞ、と小さい声で瑛太が合図した。わたしの言葉は瑛太には聞こえなかったらしい。
焦る背中の揺れは心地よくなかった。夕暮れの街を本物の痛みを抱えて走った。
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