第40話 回り道したけど全部残ってる

「どうしよう?」

「どうしようって?」

 耳元で後ろから囁く瑛太の声はいつもより深く響いた。息がかかる。逃げ場がない。

 ――いつそうなってもいい、というのは嘘じゃなかった。瑛太以上にそれに相応しいひとがいるとも思えなかった。瑛太がいて、わたしがいる。これがわたしにとって心の底から望んでいた本当の形だった。


 最高、夢みたい! ――そう思えないのは真花さんを知ってしまったからだ。真花さんの知らないところで彼を自分のものにしてしまうのは、なにか違う気がした。それは間違っていた。


「美波が欲しい」

 いい答えをしたかった。

 どうせどの道わたしたちはここに辿り着く。幾つかある曲がり角さえ間違えなければ。

 純粋に、正直に。

 わたしは急ぎたくなかった。余った時間を蜂蜜の中で溺れるようにゆっくりふたりで過ごしたかった。そのためにしっかりした土台作りを怠ってはいけない気がした。

「待って。それこそ真花さんのことが有耶無耶になっちゃう」

「でもさ、こんなに待ったんだ。夢にうなされるほどすきなんだ。愛してる。そばにいたい。会えない日々は間違ってた」

 矢継ぎ早に放たれる言葉はいとも簡単にわたしの心を撃ち抜く。

 という言葉がわたしを甘く蕩かして、わたし自身を蜂蜜に変えてしまう。『すきにして』という言葉が喉の奥につかえてる。

 でも、裏切りは自分に切り傷をつける。


「まだ。いまはまだその時じゃないよ。わたしも欲しい······けど、大事なことを守りたい」

 ギュッとわたしを抱きしめる両腕に力が入るからビクッとしてしまう。後ろの瑛太の顔を見たくても首が回らない。

「わかったよ。止めてくれてありがとう。バカなんだ、すぐに大事なことを忘れるんだ」

「誰から見ても文句がないふたりになりたいよ」

「そうだね、昔みたいに」

 くるりと体は反転して、少し背伸びをする。腰の辺りにわたしを引き上げるように彼の腕が回され、キスをする。自分の中の花が、ひとつずつ咲いていく。

「コロンとかつけてるの?」

「全然」

「そう」

「つけた方がいいってこと?」

「いや、いつもいい匂いだって言いたかった。頭から食べたくなるくらいいい匂いだよ」

 瑛太はおでこにひとつキスをした。それが終わりの合図だった。


「これからどうするの?」

 虹がすっかり消えた空の下、飽きずに手を繋いで歩く。途中のコンビニで冷たい飲み物を買って、飲み干す。瑛太がボトルをくしゃっと潰す。

「真花だってなにもわかってないわけじゃないんだ」

「······そうだね」

「本当のことを話すしかないだろう」

「そうだね」

 彼はわたしの頭を抱えるように抱いた。一気に熱が上がる。コンビニで冷えた体が火照る。

「やってみよう。それからだ」




 気まずさは言うまでもなかった。わたしは彼を攫いに来てしまった。だけどそのわたしを引き留めたのは真花さんだった。

 真花さんがなにも感じてないわけじゃない。彼女はたぶん勘がいい。時々わたしを見る目が怖いほど真っ直ぐだから。

 ドアベルを鳴らして店に帰る。

 菜穂子さんが先にこちらを向いて「あら」と言った。

 真花さんはなにかの作業をしながら背中で「お帰り」と言った。荷解きをしているようだ。こっちは見ない。

「バリからいろいろ届いてね。美波ちゃんに似合いそうなものもあるよ。バッグとかショールとか」

「菜穂子さん、俺たち」

「待ちなよ、仕事が終わるまで。それまで散歩でもしてきたら? そのためのお天気でしょう?」

 雨は確かにもう一滴も落とす気がないようだった。

「でももう充分······」

「はいはい、仕事の邪魔!」

 追い出された。




 行き場所のないわたしたちは、瑛太の学校を見学しに行った。

 瑛太はなぜか照れに照れて、まるで親子の授業参観のように学校を見て回る。

 学部学科の数も多いし、なにしろ共学でわたしのところよりひとがずいぶん多かった。学内なのに街中を歩いているような気持ちにさせられた。

 そうか、ここが。

 ここが瑛太にわたしを捨てさせた場所。別に憎いとは思わないけれど、どうしてか不思議に無機質な印象を受けた。


「こっち、研究室。でも俺、今日は退したから近づけないけど。ここの守口先生ってひとのところでお世話になってるから。······万が一、突然天変地異が起こるようなことになったらここにいるから」

「うん、わかった」

 わたしは繋いだ手に力を込めた。

 そうだ、わたしたちはもうなにがあってもふたりでいるんだ。三年後という話だけどイレギュラーはいつだってある。そういう時のことを考えておかなくちゃいけない。

 薄らと汗をかいた手のひらを恥ずかしく思っていると瑛太がこちらを向いた。やさしい目をしていた。


「真花が許してくれたとして、美波はどうする?」

「なにか仕事を探してこの街に住むよ。――最初からそうすれば良かったように、意地を張らずに瑛太のすぐ近くにいるよ」

「あのさ······一緒に住む? いや、もちろん今のアパートが美波が住むには古くて汚くて狭いことはわかってるんだけどさ」

 言われたことを反芻する。

 同棲? 考えたこともなかった。驚いてしまった。

「だってわたし、勉強の邪魔になるかもしれないし」

「それはノーってこと?」

「そうじゃなくて、それについて考えたことがなかったから。考えてたらとっくにお料理も習得してる」

「なるほどね。それは信ぴょう性のある言葉だ」

 もう、と膨れて見せる。

 料理の腕が上がらなかったのはひとつはお母さんの影響だと思う。お母さんは料理上手で、わたしにはいつも簡単な下処理くらいしか手伝わせずにきたから。

 お母さんは離れていた時間を埋めるように美味しい手料理を毎日作ってくれた。けれど失くした時間は埋まらないんだ。

「できるだけ、そばにいようね。勉強の邪魔はしないし、料理の練習はするから」

「そんなこと気にしてるの? 美波の料理の腕が上がらないのは練習不足の前に箱入りだからだよ。やり始めればすぐに上手くなるって。クリスマスにショールくれたでしょう? 手先が器用だし集中力もあるからあんなに上手く編めるんだよ」

「やだ、昔の話」

「いまも大切に使ってるよ」

「嘘!?」

「本当だよ。回り道したけど、あの頃の美波は全部俺の中に残ってる」

 恥ずかしかった。全部ってどんな全部だろう?


 空は薄いオレンジを溶かした色に染まってきて、学生たちが帰路につくための流れが学内にもできる。わたしたちもその流れに乗って学校を出る。

 荷解きはもう終わった頃だろうか?

 真花さんと菜穂子さんはなにか気づいただろうか? 不安になる。気づかないわけがない。だからこうして外に出されたんだ――。

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