第39話 虹が見てる

 瑛太はしばらくなにも喋らなかった。いやたぶん、喋れなかった。頭を抱えて深く自問しているようだった。

 ――真花さんを反故にはできない。

 それが瑛太のやさしさだ。ふたりにだってふたりの思い出もあるだろう。

「······大学出たら適当に就職して、すぐ真花と結婚するつもりだったんだ······。その頃にはあと二年を切ってる。できるだけ早く結婚してあげようと······」

「いまも?」

「······迷ってる。そう、迷ってるんだよ、お前が思う通り。言わなくたって美波がいちばん知ってる。俺たちの関係がだったってこと。お互いの価値を。それから、いま別れたら本当に二度と会えないことを。その時自分がどれくらい後悔して落胆するかということも······。迷ってるんだ」


 なんて言ったら魔法がかかるのか、わたしは知らなかった。彼に魔法をかけてしまいたい一心だった。嘘でもいいからここでわたしを選ぶよと、一言欲しかった。

 三年待った。あの暑かった高校三年の夏から、今日まで。今日、わたしはいままででいちばん彼を欲している。

「欲しいの。瑛太のすべてをください」

 顔を上げた瑛太は泣いていた。男のひとでも泣く時があることを、これで知るのは二度目だ。瑛太の前髪にそっと触れる。髪を撫でる。

 彼は次第にされるままになって、テーブルに向かって頭を垂れた。


「もうどんなことがあっても俺と離れないって約束する?」

「するよ。もう捨てられるものはすべて捨ててきたの。瑛太に重い思いをさせないように身軽になってきたんだよ」

「じゃあ、信じてくれる?」

「なにを?」

「美波の信じたいことをだよ」

 そこまで言うと伝票をつかんで瑛太は立ち上がった。わたしたちは兎の巣穴を出て、真新しい世界に飛び出した。


「とにかく時間が欲しい。真花と有耶無耶に別れたくないんだ」

「わかってる。わかってるよ」

 いつの間にか雨が上がっていた。大きく立ち上った雲と青空の綺麗なコントラストが空を飾っていた。

 ――わたしたちは手を繋いでいた。そう、ごく自然に。

 意識すると指がつったりするんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。指は覚えていた。瑛太の手の温もりを。

 この場でアイスクリームのように溶けてしまってもいいと思った。あの日のアイスクリームのように。


「いままで何人かの女の子と付き合ってきたけど、美波は特別。ほかの女の子と同じにはできない。勝手な言い分だけど。ほかの子たちはみんな俺を振ってくれたよ。『自分のことしか考えてない』って何回罵られたかなァ。でもその通り、いつも自分の人生のことしか考えてない。だからこそ逆に『死ぬまで一緒にいて』って言われても簡単に『いいよ』って言えた。死は数年後に何人にも平等に訪れることが決まってるからね」

「真花さんは?」

「真花は、なんて言ったらいいんだろう? 年上だし、お互いなにかあっても誤魔化し誤魔化し付き合ってこられた。『そんなことなかったよな』って顔をしてさ。考えてみたことなかったけど、真花は辛抱強いのかもしれない」

「そうだね。地に足がついた人って感じがする」

「本人だけじゃないか? それに気づいてないのは」

 どこに行くのか見当もつかなかったけどそんなことは関係なかった。こうして繋いでいる手が重要で、それ以外は目に入らなかった。


 どこかで誰かが空を指さした。忌み嫌われる空を、真っ直ぐに。

「虹――」

 ところどころ不安定な色合いで虹は確かに見えていた。水彩絵の具の色をずらして重ねたようなはっきりとした色合い。最近ではめっきり見られることがなかったのに。

「祝福にしてはできすぎだな。なにも問題は解決していないんだ。でも、気分は悪くない。宇宙から歓迎されてる」

「宇宙から?」

「そうだよ、太陽の恵みだ」


 行き着いた先は瑛太のアパートだった。

 一昨日転んだところもそのまま。瑛太が鍵を開けている間、まるで夢のようだった。

「おいで」

 お邪魔します、と中に入ると、ドアが閉まるのも待たずに瑛太はわたしを抱きしめた。

 わたしは玄関に靴を脱ぎ捨てて、彼の胸の中に飛び込んだ。まるで翼が生えたかのように。落ちた靴がカタンと音を立てた。

「これから難しいことがあるからその前に、少しだけ美波をちょうだい」

「もっと離れられなくなるよ」

「言ったな」

 自分でもずいぶん大きく出たものだと思った。なぜって瑛太のキスで膝が立たなくなってしまったから。立っているのがやっと。逃がしてもらえない。


「苦しいよ」

 途切れ途切れの息の中で呟く。その唇にまた彼はキスの上乗せをする。

「こんな風に何度も重ねてキスをしてみたかった」

「すれば良かったのに」

「バーカ、止まらなくなるだろう?」

 キスは次第に広範囲に広がっていく。汗ばんだ肌が恥ずかしい。

「こうやって止まらなくなるから怖くてできなかったんだよ。大切にしたかったんだ」

 あ、と小さく声が漏れる。指先から髪の先まで、彼の触れるすべてが愛おしい。どこもかしこも受け入れ態勢で、まだかまだかと待っている。

 わたしにもキスをして、と。


 気がつくとエアコンをつけた覚えがなかった。ふたりとも汗だくだった。

「シャワー浴びる? その、変な意味じゃなくてだよ」

「でも······真花さん、勘違いするよ」

「そのうちエアコンも効いてくるか」

 シャワーを浴びようか迷っていたわたしを後ろから抱きすくめる。心臓はもう爆発寸前だ。呼吸が苦しい。······恋ってどうしてこんなに苦しいんだろう?

 瑛太の腕の中で身を固くすることしかできなかった。

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