第38話 大きな決断
アールグレイは鼻腔をくすぐった。
香りと共にお茶を飲み込む。口の中いっぱいに強く香る。
「学校を卒業して、家は出ちゃったの。仕事が見つからなかったのもあるし、両親には充分恩返しできたって実感ができたから。······お父さんとお母さんに言われたの、ハタチになった時。『小さい時に一緒にいられなかったことごめんね』って。それから『美波には本当は行きたいところがあるんじゃないの?』って」
じわっと涙が滲む。あの時、どれくらい情けなかったか。瑛太を捨てて尽くしたのに今更どこへ行けと言うのか?
自由の翼を手に入れたとは到底思えなかった。でもわたしは家を出ることに決めた。もう、なんの未練もなかった。
「それでね、出たはいいけど行き先なんてあるわけないじゃない? だからお寺にいたんだよ、学校卒業してからこの数ヶ月の間。久保田さんと静かな毎日を送ってたんだけど、心だけざわついてちっとも平常心じゃいられなくて。おばあちゃんがね、言ってるんだよ。『純粋に、正直に』って。わたしそれを聞こえないふり、もうできなくなっちゃって、それで······」
瑛太はわたしをじっと見た。真面目な顔でじっと。なにを言おうとしてるのかわからなかった。表情がなかったからだ。
わたしは感情の昂りを少しでも抑えようと、お茶を飲んだ。大丈夫、泣かない。
「おばあちゃんは相変わらず?」
「さぁ、わたしの肩の上にでも乗ってるかもしれない。『あの時の男の子だね』って」
「美波、俺ちょっとそれ笑えない。怖いだろ?」
「そんなことないよ。おばあちゃんはみんなに平等だよ。瑛太にも、真花さんだって。誰かを悪者にしたりしないし、ただ、いまとなっては見守ってるだけ」
「緊張する」
「······おばあちゃん、苦手? こういう話、もうしなくてもいいんだよ」
「いや、おばあちゃんも美波の大切な一部だろう? 否定できないよ。むしろいままで美波を守ってくれたんだから『ありがとう』を言わないと」
そう、と相槌を打ちながら、心はもう踊ってる。真花さんのことはわかってる。簡単に別れられないひとだってことも。
でも、それでも瑛太の心の中に少しでもまだ
よくその顔を見ると髭の剃り残しがあった。顔の輪郭もずっとしっかりして大人の顔だ。会わなかった三年間が、今更長かったことを感じさせる。
――わたしは場違いなんだろうか?
自信がなくなってくる。
いま目の前にいる瑛太さえ、本物か怪しくなってくる······。
「言えない、同じことしか。真花がいるのに美波とは付き合えない。美波だってフラフラする俺を見たくないだろう?」
「ううん。フラフラして、限界まで。わたしを思い出して。あの初めて知り合った日のことを。あの時ふたりの間に感じたことを。瑛太は時間がもったいないって言った。いろんなことを早巻きにしてわたしたちは付き合い始めたでしょう? 理屈なんていらない。真花さんに恨まれてもいい。早くこの会わなかった三年間を埋めたいの。瑛太なしの人生なんてバカみたい。今度こそ瑛太ひとりしか見ないって約束するから、わたしを彼女にしてください」
一生分の目力をそこに込めた。
だってここで認めてもらえなかったら、どこにも行けない。人生の終着点がなくなってしまう。
瑛太は崩れた姿勢でソファに座り直した。すっぽりルーズにそこに収まって、ぽつりぽつりと話し始めた。
「三年前のことは俺が全面的に悪かった。謝るよ。なんであの時、美波を苦しめ続けているものに気付けなかったのか、いまでもわからない。ごめん。あんなにすきだったのに本当にバカだったと思う」
「やだ、そんな過ぎたこと謝らないで」
「いや、いまの問題もそこから派生してるんだ。無かったことにはできないよ。俺が美波を捨てた。そのくせ捨てられた気になってた。美波は俺より親を取ったんだって、子供みたいなことをずっと思ってたんだよ」
「それは――」
「わかってる。いまならわかる。美波がどれくらいご両親に気を配ってたのか。娘でいるのがどんなに大変なことだったのか。今更だけど······よくがんばったよな。なかなかできることじゃない」
やさしさに満ちた瞳で瑛太はわたしを見て、そっと頬を撫でた。瑛太の瞳の中にわたしが映る。
夢のようにうっとりする時間だった。瑛太がわたしのことを考えてくれている。ずっとそうしてほしかったのに、遠くてできなかった。
「美波にはもう二度と会わないつもりだったんだ。なのにあの向日葵の夢を見て、心の隅に閉じ込めてあった思い出が心を温めるんだ。思い出が心を揺さぶるんだ。あの日々が本当にあったことなんだって、心の中で思い出が膨らむんだよ。――どうやって責任を取ってくれる? 俺はお前の思惑通り、お前を思い出してしまった。でもこのままじゃどうにも動けないよ」
「わたし、真花さんに生い立ちの話を包み隠さずする。それで別れた経緯も話してわかってもらう」
「美波······ひとの心はそんなに簡単じゃないよ。真花だってこんな世の中にひとりで寂しく生きてるんだ。俺が支えを簡単にやめるわけにはいかない」
「でもわたしは瑛太がすきだし、これから先も、もしも先が八十年あったとしてもずっと一緒にいたい。もう無理だよ。瑛太の気持ちが見え隠れしてるもの。知らないフリ、できないよ。だってうれしくて、うれしくて、仕方がないんだもん」
瑛太は肩で大きく息をした。南極観察隊のひとのように、白いため息がまるで目に見えそうだった。
「すきなの。いまの大人になった瑛太にちょっと戸惑ってるけど、昔と変わらずすき。それはずっと心の底で繋がってた気持ちなの」
「言えないよ。お願いだから許してくれ。せめて時間をくれ。そんなに簡単に解ける問題じゃない」
「言って。美波が必要だって。そばにいてほしいって。ずっと一緒にいようって。昔みたいに。真花さんのことは置いておいて」
クソッ、と瑛太は汚い言葉を使った。なにかを罵らなければいけないほど、瑛太にとって大きな決断を迫ってるのが自分だというのは深く意識していた。追い詰めているのは自分なんだという意識があった。
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