第6章 (美波)

第37話 思い出の中に閉じ込めて

 雨ばかり。

 雨の日は嫌い。まず足元を気にしなくちゃいけないし、隣を見ても瑛太の顔は傘の中だから。

 学生時代も足元ばかり見て、それでも水たまりにはまってよく笑われたっけ。ハンカチを持たなかった瑛太が、タオルハンカチを持つようになった時、おかしいけどうれしかった。

 こんな状況なのに、そんな考えばかりがポンポン浮かんでくる――。うれしくて。


 不意に視線を感じて横を見ると、傘の中で俯いているはずの瑛太の顔がこっちを見ていた。

「もう少し歩くけど静かな店があるから」

「うん、大丈夫だよ」

「足は?」

「······青あざになってる。でも買ってくれた薬を貼ってるから心配しないで」

 コポコポと泡立つような不思議な音で雨は降っていた。サイフォン式のコーヒーを淹れる時のような。

 舗道には水たまり。雨粒が波紋を開く。次々と咲く花のように。

「ここ」

 外からはわからなかったけど、入ったお店は入り組んだ作りになっていてまるで兎穴のようだった。その穴のひとつひとつが個室のような役割をしていた。


 席に着く。濡れたカバンを拭く。瑛太の腕が伸びてきて、肩を拭かれる。

「まったくどうやって歩いたらそんなに濡れるんだよ」

 言ってる内容はキツいけど、中身はふんわりだ。怒ってるわけじゃない。呆れてるんだ、いつも通り。

「美波はお嬢様なんだから傘持ってくれるひと、連れて歩けば?」

 テーブルに座っていちばん最初の一言がそれだった。

「······はい。そういうひとを見つけなくちゃいけないよね」

 悲しくなる。もう目の焦点が合わなくなりそうだ。でもなんのためにここに来たのか思い出さなくちゃ。どんな思いをしても、今度こそつかまえて離さないって決めたんでしょう?

「そういう意味じゃないけど、さ」

「ううん、わかってる。こんなのバカげてるって」

「こんなの?」

「······瑛太を今度こそつかまえて離さないって考え」

 メニューを見ていた瑛太は顔を上げた。驚いた目をしてわたしを見ている。バツが悪くなって視線を逸らした。


 瑛太は頬杖をして、ため息をついた。

「いまの状況、わかってるでしょう?」

「よくわかってる。わたしが中に入ってふたりの仲を引っ掻き回してるだけだって」

「······そこまで酷くないけど。だけど真花を大切にしたい。約束してるんだ」

「そっか、約束······」

 約束ならわたしともした。瑛太はあの時絶対にわたしを迎えに来ると言った。そんなことをいまだに覚えているのはわたしだけで、瑛太にとっては別れ話でなんとなく流されて口から出ちゃった言葉だったのかも。

 そんなこと、ずっと信じてるなんて、わたし、バカすぎ。


「わたし。わたしも瑛太を忘れなくちゃいけないと思って努力はしてみたの」

「努力?」

 瑛太は少し興味を覚えたようだった。わたしなんかに大したことはできないだろう、と顔に書いてあるようにも思えた。

「聞いてないと思うけど、奥寺くんと半年くらい付き合ったの」

「奥寺と? まさか俺が東京に来てからすぐ?」

 首を横に振る。

「結構、最近。お寺に行くまで。ずっと瑛太のことで悩んでて相談に乗ってくれてたの。すごく頼もしかった。瑛太に東京で彼女ができると一緒になにも言わずにケーキを食べてくれたり。すごくやさしくてこれならって思ったんだけど」

 奥寺くんはあの例の電車の中でいちばん先にわたしに気づいてくれたひとだった。

 細身の瑛太に比べて少しがっしりしていて、黒い縁の眼鏡をかけている。がっしりした体格とは反して繊細な心を持っていて、まるで女ともだちのように相談に細かく乗ってくれた。

 隣県に久美は行ってしまったので頻繁に話せなくなって困っていたわたしを助けてくれたひとだ。


「アイツ、最初から美波のこと、すきだったから。俺たちが出会う前、電車で見かけてた時から美波が好きだったんだよ」

 胸を突いた。

 まさかそんなに想ってくれていたなんて知らなかったから。友情からの流れなのかと思っていた。

「やさしかったんじゃない?」

「もちろんやさしくしてもらったの、たくさん。でも······決定的なことがダメで。わたしは自分に嘘がつけなくて、さよならをしてもらったの。だけど今回のこと、背中を押してくれたのは奥寺くんなんだよ。『彼女がいても諦めちゃダメだ』って。強い気持ちで逢いに行くんだよって」

「······じゃあ美波は俺のこと、みんな知ってたんだ?  それなのに?」

「そんなの関係ないよ。わたしは、わたしが欲しいのは······瑛太ひとりだって、余計強く思ったから」

 ふぅ。水滴のいっぱいついたグラスから冷たい水を飲む。シュウッとは心の炎は消えてくれない。


「ここシフォンケーキが美味しいよ」

 アールグレイとシフォンケーキを頼んでくれる。昔みたいに、わたしを引っ張るように。

「······俺は正直困ってる。あんな別れ方したらもう二度と美波に合わせる顔はないと思ってたから。

――そう、一生、思い出の中に閉じ込めておくつもりだった。だから生の美波を見て困ってる······。

 言い訳だけど、美波にまた会えるってわかってたならどの女の子とも付き合わなかった。遠距離だって本気でこなしてみるつもりだった。だからこんなのは俺の予定表になくて。まさか美波から俺に会いに来るなんて」

「お願いします。やり直させて! 今度こそ全部捨ててただの美波になって、瑛太のそばにだけいるから。ほかの女の子に目移りしないくらいそばにいるから――」

 瑛太は頭を抱えていた。

 紅茶はどんどん冷めていく。冷房が効いている。

「家はどうしたんだよ? 大切な家族は? お寺はどうしたんだよ?」

 わたしはカップを手に取って、唇を湿らせた。

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