第30話 このしあわせ
瑛太の部活動が終わりを迎えた。
その小さなシャトルが瑛太の目の前にぽとりと落ちた時、彼は何を思ったんだろう?
たった十センチ届かなかったことで、彼の青春のかけがいのないものが音も立てずに終わった。
わたしは微動だにせずその姿を目にしっかり刻み込んだ。
彼はベンチに戻る時、わたしに右手を上げて見せた。わたしには手を叩くことしかできなかった。それでも彼は笑っていた。
瑛太の泣くところを見たことがない。
男の子はやっぱり泣かないものなのかもしれない。でももしもそれでも泣きたいならいつでも抱きしめるのに。抱きしめるのは瑛太の専売特許じゃないのに。
これから彼の情熱は、バドから進学へと向かう。わたしたちを隔てる進学だ。
そう思うと尚更、叩く手に力が入らなかった。空気を挟んでるだけだった。
夕焼けが真っ赤な印象的な日のことだ。公園は今にも燃えそうな色だった。
外気温はまだまだ冷えそうになく、夜さえそこに控えているのか怪しかった。
けれども時間はじわりじわり、わたしたちを削っていく。その日も同じことだった。
瑛太が空を向いて――つまりわたしの目は見ずに高らかに宣言した。
「俺、東京に行くよ」
胸がどきんと強く打った。苦しくて呻き声が出そうになる。思っていたことが本当になる瞬間はこんなに怖い。
「東京に、俺でも入れそうな大学があるんだ。散々探したんだけど、そこまで行かないとなかなかなくてさ······。わかってる、ごめん。これじゃ置いていくみたいだ」
わたしはだらしなく口を開けたまま、呼吸をしていた。そうじゃないと脳に酸素が届かなくなるんじゃないかと、そう思ったから。
感情は後からやって来る。
言葉は真実味を増して、空気に散った後もわたしを苦しめていく。怖い。握った指先が震える。
「どうしてもそこじゃないとダメなの?」
聞いても意味が無いとわかっていることを聞かずにいられない。
「ダメなんだよ。俺は自分の人生が終わっていく理由を知りたい。理由も知らずに終わりたくない」
「······瑛太の言いたいことはわかる。でも、わたしたち、このままサヨナラをするの?」
否定の言葉が反射的に出るなんて、そんなドラマティックなことはなかった。瑛太は向き直ってわたしを正面に見据えると、近くにあったベンチに座らせた。公園の木々は黒く姿を変えようとしていた。
「一緒に行こう。きっと誰も止めない」
ああ、そうか。瑛太なりに考えてくれたんだ。きっとずいぶん悩んで、今の告白だって緊張しただろう。なのにわたしは······。
「行けないよ。附属に決めちゃってるし、今更変えられないよ」
「反対してほしいって言ったじゃないか」
「あの時は······あの時はもう過ぎちゃったの。今はもう決まった道しか歩けないよ」
「どうしてだよ? どうしてここにそんなにこだわるんだよ!?」
彼はきつくわたしの肩を掴むと、大きく揺すった。頭がぐらぐら揺れる。
どうしてなの、わたしだって知りたい。どうしてこんな人生を歩かなくちゃいけなくなったのか?
「瑛太は知ってるでしょう? わたしは両親と九年間離れて暮らしてたの。九年だよ? その後から今まで、間のことを埋めるようにわたしたち三人は一生懸命、家族を続けてきたの。わたしにはまだ『娘』でいる義務があると思うの。だからあの高校にきっと進学するよう勧められた。両親の希望は、うちからわたしが出て行くのはもう少し先にしてほしいってことだと思うの」
「そんなんで納得してるのかよ!?」
ほら、堪えてたって涙が右の頬を一筋。止まることなく重みを持って流れていく。
「納得のいく人生ならとっくの昔に失ったもの。みんながお父さん、お母さんと手を繋いでいた時、わたしにはおばあちゃんしかいなかった。おばあちゃんの小さくてしわしわだけど温かい手。それに縋って生きていくしかなかった。十二になって家に帰ることになった時、どれくらい恐ろしかったか。わたしを遠くにやったお父さんとお母さんの元に今更帰るって? そんなこと許されるの? ――だけど三人でがんばってきたんだよ。エネルギーを内に向けて。一抜けなんて、できないよ」
瑛太の腕の中は相変わらず力強くて安心できるものだった。彼はわたしの耳のそばで特大のため息をついた。わたしは終わりを思った。
「今更、今更って、今更家族を選ぶの? 俺を捨てて? 小さな美波を捨てた家族じゃないか? ――あと六年だよ。六年ないかもしれないのに、離れるの? 遠距離恋愛するの? 離れられる? 俺は無理だ。美波の顔を見て暮らさないととても力が出そうにない。明日を生きていく力が湧かない」
「じゃあ瑛太が志望校を変えてくれればいいじゃない!」
「悩んだよ、もちろん。でも残り僅かな人生ですきなことを選んでやれるだけやりたいじゃないか! 美波は附属にこだわってるだけで、探してみれば他の大学にもっと行きたいところがあるかもしれないじゃないか。ここが踏ん張り時なんだよ、俺たち。――お願いだから、ついてきてください。きっと後悔させないから」
わたしの心は凍ってしまった。
もう何も考えられそうになかった。
わたしの都合や事情をいちばん知ってるはずの彼にこんなことを言われるなんて思ってもみなかった。涙が氷を溶かそうとぽたぽた途切れることなく落ちていったけど、わたしの心は固まってしまった。
「······ついていくって話は初めて聞いたことだから今すぐ返答できない。でも、わたしはわたしの事情をいちばんに瑛太にわかってほしかった。『わたしを捨てた家族』なんてあんまりだわ」
「ごめんよ、言い過ぎた。でもどうしても思っちゃうんだよ。たまに美波の家族と会うと思っちゃうんだよ。無理してるって。だからそこから美波の腕を引いて連れ去りたい!」
息が止まりそうな勢いで抱きしめられる。苦しいのはどこなんだろう? わかんない、わかんない、わかんない。たくさん考えたじゃない。
例え少し遠くなっちゃっても我慢しようって。たった二年だって。でも――。
「東京は遠すぎるよ······」
「会える時間は必ず作る。寂しさが積もらないように努力する。帰れる時は例え短期間でも帰ってくる。――そういうのはどう? 美波の学校は二年制だから、二年間、遠距離恋愛、がんばってみない? 俺、美波なしじゃ人生の目標を見失っちゃうよ」
「すきな大学に行けても?」
「それは目標の半分だ。同じくらい美波が大切なんだ」
心の中の天秤がガタンと勢いよく傾いた。
ああ、そうか。このひとにはやりたいことがある。夢や希望がある。わたしはいつだって――今までだってきっと二の次だったんだ。
「何も言わないで。何も変わらないから。これ以上悲しくなりたくないの。瑛太のことは今でもいちばん愛してる。それでも変えられない事情があるの。離れたらわたしたちの心は悲しいけど繋がっていられなくなる。だから、これ以上悲しくならないうちに終わりにしよう」
信じられない言葉を自分の口はするする吐き出していった。どうして一言「ついていく」と言えないのか、それが不思議だった。
お父さんやお母さんがなんだっていうんだろう?
遠距離恋愛だっていいじゃない、彼をすきでいられる権利があるなら――。
ううん、東京にはたくさんのひとがいるんだよ。込み入った事情なんて抱えてないめんどくさくないひともたくさん。
少しずつすり減るように現実の中からわたしが忘れられていくのは嫌だ。
終わりにしよう。元からなかったと思えばいい。
もしくは神様がちっぽけなわたしにくれたプレゼントだったと思えばいい。
思い出はまだ胸に痛いけど、きっといつか心を温めてくれるはず。
「別れてもすきなのはいつだって美波だけだ。ずっと勝手に想ってる。美波のことだけずっと。だから忘れないで」
本当に終わりなんだなぁと思うと、思い出は走馬灯のようで。うれしかったことのひとつひとつが頭の中を駆け巡った。
「瑛太、その時まで元気でいてね」
彼は下を向いていた。ひょっとしたら泣いていたのかもしれない。
「美波もその時まで元気で」
下を向いたままの瑛太の腕が伸びて、わたしを抱きしめた。
「その時までに必ず迎えに行く! だからもう会わないなんて言わないで。あと六年、まだ六年ある。必ず――」
そこまで言うと彼は走り去った。あんなに感情的な彼をこれまで見たことがなかった。
六年後のその時が来るまでにわたしたちに何が起こるのか、それはまるで予測できなかった。
深い悲しみの中でふらり、と歩き出す。帰り道はひとり。これからは毎日ひとり。
喉の奥に燻っている「ついていく」という言葉が苦しくて、胃の中のものすべてと一緒に吐き出してしまえたらと思う。
「ついていく」――たったそれだけが言えたなら。
家に帰るとお母さんがコロッケを揚げていた。じゃがいもと挽き肉から作った手作りコロッケ。
「手伝うよ」と言うと「じゃあキャベツお願いね」と頼まれた。
わたしは大切なひとと引き換えに、このしあわせを守るんだ。
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