第四章(美波)

第28話 自分で決めたこと

 桜の花びらはすっかり散って、わたしたちは三年生になった。

 時間の経過はひどく恐ろしい。背中からわたしを秒針が責め立てるように追いかけてくる――そんな風な夢を見ることもあった。夢は怖い。心の中にしまってあることを形にして見せてしまうから。

 そう言うと久美ちゃんがある日ボロボロになったクラフト紙に包まれた不思議なものを持ってきた。親戚のお姉ちゃんのお土産だというそれは『ドリームキャッチャー』という名前だった。

 アメリカンネイティブの古いお守りで、悪い夢を捕まえてくれるというそれをわたしは枕元の目立たないところにそっと飾った。


 春になって変わったことのひとつは久美だ。

 なんと、彼氏ができた!

 その彼氏は久美の家庭教師で、隣のターミナル駅からバスで十五分ほどのところにある大学に通っていた。しかも、住まいは一人暮らしで大学まで徒歩のところにあるらしい。

「すごい! 大学生みたい」

「大学生だってば」


 彼氏ができて久美は、なんていうか角が取れた。今まで「陽キャじゃない」なんて言って口もよくきかなかった子たちにオシャレを教わったり、一緒にカラオケに行くようになった。

 わたしは相変わらず遠慮しちゃったけど、久美が花咲くように青春を謳歌しているのを見ているのはそれほど悪い気持ちではなかった。


 わたしの方はというと瑛太とは相変わらず仲良くやっていると思う。

 夏の大会があるので練習が厳しくなって、会える時間が少し減った。それでも夏の大会が終われば引退で、今度は毎日一緒に帰れると言うんだからすごい! 待ち遠しい。

 でも夏の大会に勝ち進んで、瑛太たちは一日でも長く部活を続けたいんだろうなと思うと複雑な気持ちだ。


 わたしの希望と瑛太の望む未来が必ずしも重ならないのだと知った。


「すき」って気持ちだけで一年近く、走ってきちゃったけど、このままで大丈夫なのだろうか?

 立ち止まって一歩を躊躇する。

 そんなに難しく考えなくてもお互いを想っていれば問題なく未来は続くと思うし、わたしたちは互いを想い合っていることは確かだ。不安なんて要らないはず。

 ただ彼の気持ちを信じていれば――。

 あの人はきっとわたしを連れて行ってくれるはず。暖かい世界へ。


 教室の窓から校庭を眺める。

 練習に励む運動部の子たちの声が響く。

 ファイオッ、ファイオッ。

 ああいう風に、瑛太みたいに夢中になれるものがあるといいなぁ。わたしには何もない。


 だからこそ失いたくない持ち物がひとつしかないんだ。

 お願いだからなくならないで。

 瑛太と、背の高い女の人が同じ傘で親しげに話しているのを後ろから見ている。わたしは荷物が重すぎて前に進めない。瑛太のところに行きたいのに、せめて声をかけたいのに力が出ない。

 振り向いて、わたしに気づいて。そのひとは何でもないと言って。

 声が出ない。

 翌朝、ドリームキャッチャーは細かく折って捨ててしまった。悪い夢に捕まってる。


「坂口は附属で本当にいいの?」

「······はい、両親も応援してくれますし」

「応援も何もあなたならするりと入れるでしょう? もっと欲出してみたら? 人生は一回よ。本当にやりたいことが他にあるかもしれないじゃない? 思い当たることないの? 確かに学歴はあまり意味の無い世の中だけど、すきなことを四年間学ぶのは悪くないわよ」

「······自分のために何かを望むのが苦手なんです、たぶん」

 そっか、と担任はカチンとボールペンの芯をしまった。やけに耳につく音で、びくりとした。

「自分のために、って言うとワガママみたいに聞こえるけど、自分の選択に責任を持つってことよ。誰かのために、って言うとやさしそうだけどそれは偽善。坂口はもっと自分を見つめた方がいいと思うよ。坂口の周りの人間も『本当の声』を聞きたがってるように思うけどね」

 担任とそんなに長く個人的なことを話したことがなかった。だからこそ彼女の言葉はわたしに少なからず衝撃を与えた。

 ――自分のために。

 そんな考え方が今更できるだろうか?

 瑛太のことなら、或いは。


 瑛太はまだ部活に夢中で志望校は複数に絞った程度だと聞いている。『宇宙物理』のできるところは少ないのだと語っていた。

 瑛太がもし、「ここだ!」というところを見つけてそこにポーンと行ってしまったらわたしはどうしたらいいんだろう?

 わたしはいつまでもここにいて、瑛太の大学が終わる四年後、まで待つしかない。そう、待つしかない。

 自分が動かないと決めてしまったんだから相手を待つしかない。

 でも待って。

 みんなが死んでしまうまであと六年ほどしかないのに、その三分の二を別々に過ごすの? 新しい友だちができて、新しい毎日が始まる。


 わたしはどうしたいんだろう?

 心がふたつに裂かれてしまいそうだ。

 附属に行くことはずっと決めていたこと。わたしを生んでくれたお父さんとお母さんの近くに少しでも長くいようと自分で決めたこと。

 自分で決めたことには責任を持たないといけないんだと、あの担任は言った。


 わたしはもう言ってしまった。

 進路を決めたと言ってしまった。


 勉強机に着いても鉛筆が進まない。

 涙が後から後からあふれてきてノートを濡らしていく。

 悪いことはしていない。

 人生に後悔しないように自分で決めたことだから。

 なのに、どうして?


『美波、元気分けてくれ! 今日の練習、超ハードだった。元気送って!』


 いきなり現れた通知に驚く。「あ」と思うと白いタブがタップする前に吸い込まれて消えていく。早くアプリを開いて返事をしないと――。


『元気分けてくれ』


 分けてあげるだけの元気がどこにあるんだろう? わたしは懐疑心でぼろぼろだ。

 もし、もしも、瑛太がわたしの気持ちを汲んでくれて······。なんて。

 あと六年間の未来に夢を持っている瑛太に限ってそれはない。


 ついていく?

 行きたい。

 彼の歩く新しい世界をわたしも見てみたい。その中にいつでも含まれていたい。

『すきだ』という気持ちはどうしてこう時々、わたしをくびり殺すように苦しめるんだろう。


 瑛太しか見えない。瑛太のそばにいたい。

 でも、人生はそれだけじゃないんだ。

 払うものを払って、精算をして、それから旅立つものだ。

 瑛太がすき。

 考えていた人生が歪んでしまいそうなほど。

 どうしたらいいんだろうって、いっぱい、いっぱい考えてしまう。何もかも上手く行く方法があるなら、魔女に声のひとつくらいはあげてしまっても構わないのに――。


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