第19話 くちびる
気になっている。あの日からずっと――。
あの日というのは久美から瑛太くんの話を聞いた日のことだ。気にならないという方が嘘だ。
約束の日、髪を梳かしながら鏡の中の自分なんて見ずに考えている。
『付き合った子はどんな子だろう?』
『どれくらい長く付き合ったんだろう?』
『どれくらい本気で付き合ったんだろう?』
『······キスはしたのかな?』
キス······。
わたしはもちろん未経験。
鏡の中の自分の唇を見て、特に何も魅力を感じない。
久美に勧めてもらったのは普通の口紅じゃなくて、ジェル状のリップグロスに近い口紅だった。
色はピンク。
ふたりで手の甲に何色も出して選んだ色。
これをつけると唇がツヤツヤになる。まるで何かをコーティングしたみたいに。ううん、唇をコーティングするんだ。
化粧は久美に教わっていた。
ベッタリにならないファンデーション。自然な眉の流れの描き方。忘れちゃいけない
勇気を出して、息を深く細く吸う。
口紅――。
この新しいジェル状のはまだ付けたことがない。
「色っぽくなるよ」なんて久美が言うからハードルが高くなる。けど。
じゃあどうして買ったんだろう?
子供っぽくない、いつもと違う『わたし』を見てほしかったから。
『お寺の子』でも『田舎の子』でもない『女の子』のわたしを見てほしかったから――。
動機は不純だ。久美なら却下される。
――キスされたい。
小さな帆布のトートバッグに必要なものを入れて、今年流行りの形の丈短めの白いTシャツに、薄い細プリーツのピンクのスカートを履いた。
足元にはねだって買ってもらった踵のある白いサンダル。ラインストーンが付いている。絶対これ、ってなぜかあの時思って。
玄関でそのサンダルを履きながら――口紅が気になっている。ジェル状なので唇を閉じたり開いたりする度にねっとりした感覚がする。本当にこれで?
疑問は疑問のままではいられず、わたしはその格好で「行ってきます」と家を出た。お母さんはパートで留守だった。
駅までの道のりはうだるように暑く、ほら化粧なんて流れちゃうに決まってる、と思う。顔汗が気になる。ハンカチの隅でトントンと叩いてやり過ごす。
そもそも瑛太くんに会わないなら化粧なんて必要ないんだから。つまり今は流れては困る。
少しでも大人びた美波を感じてほしい。じゃないとどうしてかいつも年齢より下に見られがちなんだもの。
日傘はしまって、ようやく着いた駅の日陰の中に入る。改札前まではすぐだ。隣がターミナル駅なのでうちの駅はそれほど大きくない。
「美波!」
耳に響いた声に振り向いて、走ってしまいたくなる気持ちにブレーキをかける。始めからそれじゃ、たぶんサンダルで靴擦れだ。今日は走れない。
「ごめんなさい、待たせちゃった?」
「いや、ちょうど美波に『着いたよ』ってLINEしようと思ってたとこ」
瑛太くんはスマホをするっとしまった。
「行くよ」とどっちから言ったわけでもないけれど、手が繋がれて流れに乗るように歩き始める。まるでプリンセスが王子にダンスに誘われた時のような心持ちだ。
駅の少し長いエスカレーターを下りる。
さすがにマナーを守って前後になる。
そんな時、いつも瑛太くんが下になってくれるので安心して乗っていられる。
下まで行くと隣の小さな駅ビルに繋がっていて、とりあえずふたりでなにも買わずにブラブラする。
「そう言えば美波、誕生日は?」
「······名前の通りなので過ぎたの。気持ちだけでうれしいから気にしないで」
「なんだよそれ。ショックだな、過ぎちゃったのかァ。過ぎたものは仕方ないしな」
わたしのために難しい顔をしているのを見ているのはちょっぴりうれしい。もちろん、誕生日を気にしてくれたのはもっとうれしい。恋人同士っぽい。
「実は俺も六月で過ぎてるんだ。お祝いするきっかけ、見失ったね。ああ、でも女の子は記念日とかすきじゃない? そういうのは?」
「······ごめんなさい、言い出そうか迷ったんだけどあのね、一ヶ月記念は過ぎちゃって」
「マジか!」
少し大きな声で彼はそう言った。
そして隣を歩くわたしの顔をまじまじと眺めた。
――バレる?
心臓の鼓動がバクバク速くなる。不純な自分が恥ずかしくなる。
だってきっとほかの女の子と彼はもう経験済みに違いないもの。わたしだって同列に並びたい。
「ソフトクリームでも食べる? 歩いてきて暑かったんじゃない?」
彼の目線はわたしを通り越してソフトクリームを見ていた。彼もきっと出かけてきて暑かったんじゃないかなと思って、じゃあ、と言った。
買ってくる間座ってていいよ、と言われて空いていたベンチにひとり座る。トートバッグを抱きしめるようにして、自分の愚行を悔いる。
――誘いたいんでしょう?
たかが口紅を変えてきただけで、そんな魔法を彼にかけられるとでも?
「お待たせ」
「ありがとう」
ソフトクリームはくるくると渦を巻いて、今にも溶けてきそうだった。表面はもう溶け始めていた。その速度についていけるか不安になりながら口を付ける。
「美味しい?」
「うん、冷たくて一気に体温が下がりそう」
わたしは苦笑した。
そんなわたしに彼も苦笑した。ソフトクリームの山頂が気づけばもうない。
唇に今度はソフトクリームがついてるんじゃないか気になる。相当溶けてきている。
口紅も流れてしまうかもしれない。気分がぐだぐだになってくる。
わたしのソフトクリームはもう決壊寸前。考え事なんかしてたからだ。前の彼女が気になるなら、いっそ、口紅なんか気にしてないでそう言えば早かったのに――。
ソフトクリームはわたしの焦る気持ちに反比例するように、一向に緩まる様子もなく無慈悲に溶けていった。
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