第三章 (瑛太)

第20話  ここでキスする?

 手に持ったソフトクリームが自然に溶けていく。そんなふうに俺たちの恋は自然に溶けていった。

 蕩けて、濃縮されて、熟成される。あんまり時間はかけられない。なぜならタイムリミットがあるから。いつでも心のどこかでそれを意識している。


 そんな中で美波の手の中のソフトクリームがコーンの縁を越えて流れだそうとしてる。きゃっ、と彼女は小さな声を上げた。

 ソフトクリームが倒れないように彼女の手からそれを取り上げて、周りの溶けかけた部分を少しずつ舐めてやる。

 美波はそれを呆然と眺めていた。少なくとも俺の目にはそう映った。

「……ありがとう」

「手についちゃった?」

「大丈夫。瑛太くんが早く……その、処置してくれたから」

 俺は吹き出した。美波の表現は時々、笑えるくらいお堅い。

「そうだね、『処置』が間に合ってよかったよ」


「あのね……!」

 美波にしては珍しく大きな声を真剣な顔で言うから次に起こることの予想がつかない。なんだろう? 『間接キス』が気に入らなかったんだろうか? なにしろ相手は『箱入り』なんだ。大事にしなきゃ逃げられてしまう。天の岩戸のような『お寺』とやらに逃げられたらアウトだ。めちゃくちゃ遠い。

「なにかした?」

「あの……いま、つき合ってるひと、いますか?」

 ぽかん、としてしまったと思う。こんな妙な質問があるだろうか? いま、ベンチに座ってソフトクリームを食べているのは、間接キスしたのは、間違いなく美波なのに。

「美波だよ」

「そ、そうだよね。やだもう、わたし、バカなこと言っちゃった」


 今度ソフトクリームやアイスクリームを食べる時には美波のためにスプーンをもらってあげるべきだな、と脳の半分で全然関係ないことを考えていた。

 そして残りの半分で、どうしてそういう話になるんだろう、と考えた。膝に頬杖をついて、ソフトクリームとまた格闘してる美波を見てる。「食べてあげようか?」と溶けかけたコーンの部分をもらってあげると、それだけで泣きそうな顔をしている。

「ごめんね、ソフトクリームなんか食べたいって言って」

「いや、『食べる?』って聞いたの俺だよ」

「でも……」

 いつになく引きずる。

 美波ははにかんで恥ずかしそうにすることは多いけれど、こんなことをちまちまと気にしたり普段はしない。


「あー。誰かになにか聞いた?」

 少し間があって、こくっ、と気まずそうに彼女は小さくうなずいた。さて、どうしたものか。見当はつく。下手に隠すとこういうことは尾を引く。はっきりさせておいた方が、美波も安心なんじゃないだろうか?

 しばらく考えて、やっぱりその策で行く。

「前の彼女とは二年になってクラスが変わったから、夏前にはすっかり別れたけどそのことでいいのかな?」

 美波は顔を上げてじっと俺の目の中を覗いた。美波のおばあちゃんの話を思い出す。俺の中にある、なにかしら不純なものを見透かされてしまうんじゃないだろうか?

 かと言って不純なものがどういうものか、それは両手に乗せて美波に提示できることではないけど。


「あのね、モテるの? あの……そうやって聞いたの。友だちの友だちが瑛太くんと同じ学校で」

 なるほど。うちの学校の誰かに聞いたのか。口さがない連中がいたものだ。ひとのことは放っておけばいいのに。それを言って美波がいい気分なのか?

 いや、たぶん本当のことだから否定も非難もできないんだけど。

「なんて言ったらいいのかわかんないけど、モテる方かもしれない。それは美波を不安にさせるかもしれない。でも信じてほしい。俺はたぶん美波と会うまで待てなかったんだ。本当の恋を知らなかった。すきなのは、いつもそれしか言えないけど美波だけなんだ」


 驚いた。

 美波の方から手を繋いできた。そろり、と白くて小さな手が伸びてきた。

「あの······そのひとにしたみたいにしてほしいの。手を繋ぐだけだった?」

「……あの、なんて答えたらいいかわからないな。そう、こういうのは段階ってものがあるからさ、いきなりどうこうとは」

「そうなんだね、したんだね、手を繋ぐ以上のことを」

 カッとなった。なにに、なのかはわからなかった。自分に腹を立てることもある。腹を探るように物事を聞かれることに不快感を覚えてることもある。ぐるぐるとその思いは大きくなって、闇の中に心は包まれる。


「ここでキスする?」

 ぐいっとまだソフトクリームを食べたまま艶のある唇に唇を合わせた。いつもより鮮やかなピンクの唇が目に入る。隣のベンチの、前を通る人たちの視線が集まるのを一瞬、感じる。

 バカみたいだった。

 こんな小さな挑発に乗って、美波を傷つけた。

 驚いた顔をして口を手で隠す美波の両手をつかむ。ガクガクと小刻みに震えている。

「……ごめん」

「いいの、焦ってたのは自分で、早くしてほしかったのも自分なの。わたしこそごめんなさい」

 まだ目を大きく見開いていた。美波の指先には力が入っていなくて、俺はその冷たい指先を撫でる。

 微動だにしない彼女の頭を、自分の肩に寄せた。


「嫌な時は嫌って言って。時間が無いからってふたりの時間を急ぐのは間違ってる気がするんだ。俺は――」

「ゆっくりふたりの間にあるものを育てたい? でもきっと、二十年以上前のなにも知らなかった人たちもこうしたかったと思うよ。早くキスしてもらいたかったの。ほかの誰かのように。――変なのかな?」

 

 驚いた。

 繋いだ手を見つめる。相変わらず小さい、子供のような手をしている。

 美波の中に『子供』と『大人』が同居している。


「ごめん、まだちょっと早いかと思ったんだよ。そんなことで不安にさせてると思わなかった」

 肩に引き寄せた美波の頭が、力が抜けて俺に体重がかかる。誰かの責任を持つっていうことはこういうことだ。重みを伴う。これが、美波の心の重さだ。


 けど、その覚悟はそれ以上必要がなかった。別れるまでの一年弱の間、それ以上の進展はなかった。

 美波が魅力的じゃなかったわけじゃない。いつでも引き裂くように抱きしめたいという欲望に襲われた。それはやってきては引き潮のように引いていく……。

 つまり俺はその欲望を上手くやり過ごした。美波の方から「抱いてくれ」と言わなかったのは、気まずかった最初のキスのせいかもしれないし、そんな言葉は単に恥ずかしかったのかもしれない。

 なにしろ『箱入り』だから、ということが頭から離れることはなかった。

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