第18話 軽い男
二学期が始まった。
朝の教室に入ると久美がわたしのところに席をかき分けて歩み寄った。何事かと少し身を引く。
「美波!」
「おはよう、久美、どうしたの、朝から」
久美はせっかく入った教室を出るようにわたしを廊下に引きずり出した。
廊下はにぎやかな喧騒に包まれ、空気は人の行きかいの中で生き生きしていた。
その中の一角にわたしたちは陣取って、いつの間にかひそひそ声になっていた。
「美波。落ち着いて聞いてよ」
「うん、わかった」
久美は覚悟を決めたという顔をした。眉毛に決意が込められていた。
「あの男、大丈夫? 強引に迫ってきたりしない? まさか! ……美波に限ってまだだと思うけど……」
「なんの話?」
わたしはけたけた笑った。だって、久美は心配しすぎだ。わたしだって育ちはちょっと他人とは違ってるかもしれないけど、それでも男女のそういうことがなんとなくでもわからないわけじゃない。
もし瑛太くんがわたしを無理やり押し倒すようなひとなら、手を繋いでからなんの進展もないなんてないと思う。
自分で言うのもなんだけど、『大事にされている』という実感があふれている。それはやわらかい光になって、わたしたちを包んでいる。お互いの気持ちがよじられた紐のように絡まってほどけないのがわかる。
『わかる』なんて傲慢かもしれない。でも、わかるんだ。
「あの、高槻って男。塾で同じ高校の子がいて親しくなったんだけど……」
今度は突然、黙り込んで考え事をするシャーロック・ホームズのようになってしまった。
言葉を探してるのか、難しい顔をしている。
わたしとしては、瑛太くんのどんな話を聞いても関係ないと思っていた。わたしは彼を見つけたし、彼はわたしを見つけた。
「あの男――って、わたしはまだ会ったことないけどさ、女関係派手なんだって。つまり」
「モテるってこと? そうだね、一緒にいてもわたしの方はガチガチに緊張してるのに瑛太くんはスムーズにわたしを引っ張ってくれるし」
「だってさ、入学してからこの二年の夏休みまでに三人に告白されて。その……、つき合った子もいるみたいだって」
「今、同時進行でってわけじゃないならいいよ。わたしたち、出会いがちょっと遅かったんだよ。それでも会えたんだから」
「……いいの? 軽い男ってことじゃない?」
確かに運動部のわりに髪の毛はドラマに出てくる男の子たちみたいな自然に流したような感じにしてるし、トークは軽妙だし、ちょうどいいタイミングで手を繋いでくれるし、もたもたしてるとすぐに手を差し出してくれるし。
嫉妬?
しないわけじゃない。でもどうしようもない。取り返しようがないことに怒ってるような時間はない。
そんなことなら代わりにいつまでもふたりでできるだけの時間を過ごしたい。
残された時間はあと六、七年。長いのかもしれないけど、そこで人生が切断されてしまうとしたら短すぎる。できるだけ急いで知り合って離れたくない。
寄り添っていたい。
「大丈夫だよ。強引にされるどころか、これでもかって大事にされてるもん。まだほっぺどころか、髪に触れられたこともないんだよ」
向こうから社交ダンスが趣味だという、高齢の英語の先生が歩いてくる。まるでステップを踏むように、軽い足取りで。
美波がそう言うならいいけどさ、と久美は席に戻って行った。わたしと彼女の席はちょうど教室の左右対称だった。
先生の「では始めましょうか」という声を号令に教科書を開く。パラパラと頁はめくられていく。弱い風が吹いて、きちんと留められていなかったカーテンがふわっと揺れる。でも誰も気にしない。カーテンはすぐに元に戻るから。
――そうか、瑛太くんに感じていたことは外れてなかったんだ。
女の子の扱いに慣れている。
それはわたしにとってマイナスだろうか?
もしもわたしよりすきな人が今までにいたとしたら、それはちょっと嫌かもしれない。そういうのを嫉妬と言うんだろう。
どんな女の子なのかなぁ、前につき合った子。もし聞いたらきっと誠実に話してくれる気がする。でもそうしたら、わたしの心はズタズタになってしまうかもしれない。嫉妬は炎だと言ったのは誰だろう? わたしにはカマイタチのようだ。紙で手を切った時のように痛い。
――こんな気持ち、初めてだ。初めてばかりだ。
それはそうか。『お寺』以前に田舎から出てきたんだもの、恋愛に免疫がない。そう言ったらたぶん笑うんだろうな。「回数の問題じゃないよ」って、複雑な気持ちになることを言うかもしれない。
カーテンが風に揺れる。
窓際の子がカーテンをきちんと留める。
風が教室にちょうどよく流れていく。
わたしの当たるところはどの文章だろう? 予習はしてきたけど不安になる。
そう、不安。
不安な気持ちと、彼を信じる気持ちがいつでも同居している。すきだから。離れることは無理だから。
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