第26話 地面から一センチ
久保田さんがお茶とお菓子を用意している間、美波と一緒におばあちゃんの仏壇に挨拶する。
はっきり言って手順に戸惑う。
線香は二本、ロウソクで先端に火をつけて、立てた後に鐘を鳴らしてから手を合わせる。間違えて鐘を思い切り上から鳴らしてしまう。チーンという金属音は情けないほど長く消えなくて、居心地が悪くなる。けど美波はなにも言わなかった。
それよりそこが自分の席だと言わんばかりに仏前に座り、一連の動作を終えると、鐘の鳴る間、ずっと手を合わせていた。
遺影を見ると、パッチリしていたであろう目元とやわらかそうな頬が美波に似ていた。
「ちょっと遅いんだけど、今日は桜餅ですよ。おすきかしら?」
「大丈夫です」
なんだ、大丈夫って。あまりにも曖昧すぎる返事に心の中で舌打ちする。
自然に美波の隣に座るようになって、久保田さんは美波の真ん前に腰を下ろした。
「美波さんも女性なのよね」
「なんですか、それは!?」
「あらだって、わたしだってずっと美波さんを見てきたのよ。あんなに小さくてかわいらしくて利発だった子が、女の子の顔をして男の子を連れてくるなんてねぇ。別にわたしやマツさんに気をつかって、こんなところまで来なくてもよかったのに」
「……それはすごく迷ったけど、ここを見てほしかったから」
散り遅れた花びらが、砂利の上にひらりと音もなく落ちた。不自然なくらい風もない。ここはまるで時間の止まった場所だ。
「高槻さんは来てみてどうかしら?」
「静かな場所ですね。いや、俺は騒がしいところに住んでいるから余計にそう思うんでしょうけど」
「そうでしょう。なにもないところよ。でも美波さんの置き忘れたなにかがここにはあるのよね」
お茶碗を抱えて美波ははにかんだ。いつも以上にゆっくり。
「ここには子供の頃のわたしがたぶん置き去りにされてるんだと思うの。わたしには懐かしいんだけど、瑛太に見てもらうと思うと恥ずかしいね、やっぱり」
お茶を済ませた俺たちは、美波の昔使っていたという部屋を見に行った。できるだけ昔の美波の残像を捕まえたいと思ったけれど、そこにはもう抜け殻しかないようだった。
「ここにはなんにもないの。ただ大事に育てられた記憶があるだけ」
「久保田さん、まるで美波の本当のおばあちゃんみたいだしな。実のおばあちゃんもあんな人だったのかなって思ったよ」
「おばあちゃんは――」
美波は一度、口ごもった。
「おばあちゃんはもっとこの世から浮いた感じ。床上三センチくらい」
指先で三センチを作る。それじゃドラえもんじゃないかと冗談を言う。美波はふふふ、と楽しそうに笑った。
「生きてる時からもう浮かんでた。わたしの悩みは話す前から知ってるし、食べたいものもバレてるんだよね。そう、今日の桜餅、久保田さんにすっかりバレてたみたいで恥ずかしかった」
「そうなの?」
「あの和菓子屋さんの桜餅が食べたいなぁって、昨日、支度しながら思ってたの」
「それって美波が信号を送ったんじゃないの?」
「同じこと。久保田さんがキャッチしてくれたんだもの。瑛太はまさかわたしがそんなこと考えてるなんて思ってなかったでしょう?」
まあね、と答えて、本棚にあった。アルバムに手をやる。美波はそれを開くことにひどく反抗的だったけど、開けてしまった。そこには一枚、一枚、小さな時のミニチュアの美波が閉じ込められていて、怒っている隣の彼女と同一人物であることは確かだった。
どの写真もいつものようにはにかんで隠れてしまいたさそうに映っていたけれど、どこかさみしげなところがあるのは隠しきれないようだった。
「こんなことを聞くのはどうかと思うけど。お父さんとお母さんを恨んだ?」
彼女は小さく頭を振った。
「恨んだりするほど大きくなかったから、ただ恋しかった。でもそのうち、ここの子にすっかりなっちゃったけどね。それでここを出る頃には『大人の事情』のわかる年頃になってたの」
彼女の瞳の奥に時折ふと見えるさみしそうな少女を彼女自身は知らない。ここがある種の神聖な場所であることを忘れて、美波の手をきつく繋いだ。
「さみしい?」
「今はさみしくない。だって恋しい人はここにいるもの」
そう思ってくれてるんだろうか? 自信が持てなくなる。と、不意に美波は俺の顔を間近で見た。
「ちょっとここにいてくれる? おばあちゃんと話したいんだ」
「もちろん。そのために来たんだろう?」
にっこり微笑むと美波は仏間に消えて行った。ここは音もしない……。
美波はおばあちゃんになにをお伺いたててるんだろう? なにか俺に言えない心配事でもあるのか? それともなにかの報告だろうか?
どっちにしても知りようもないし、小さい頃の美波の空気に包まれる。やっぱり恥ずかしがり屋の小さくて細い女の子。周りのみんなが日焼けしていても、なぜか白いのは彼女だけだ。赤い浴衣がよく似合った夏の写真。そう言えば、ここからホウズキの写真を送ってくれたのは去年の夏だ。
運命が変わった。
それまで季節の移り変わりなんて目に入らなかった。毎日楽しかったか、そうじゃないかでしか分けないでいた。
自分以外に意味のあるものはなかった。あと数年で砕け散る自分にしか興味がなかった。
なのに意味もなく崩壊を待つだけのちっぽけな命が、大切な人を守るものになった。
季節が移り変わると死へ一歩近づいていく。
彼女より先に死ぬわけにいかない。その時が来ても離さない。きつく抱きしめて……。
美波は「はぁ」と大きくため息をついて部屋に入ってきて「胸がいっぱいになっちゃった」と自分の体をきつく抱きしめた。
「おばあちゃん、なんだって? 秘密?」
「ううん。……おばあちゃんはね、『信じた道を進みなさい。決して迷ったり間違えたりしないように自分の道を進みなさい』って、そう言ったよ」
にこにこと笑う自分の彼女を見て、俺は仰け反った。
「おい、相手が特別なひとだっていうのはわかってるけど、そんなに話せるものなの?」
「なんていうか、伝わってくる。波みたいに。……って、わからないよね、普通じゃないことだから気にしないでね」
美波はいそいそと下に下りると、お茶をもう一杯いただいたら帰ると言い出した。
「はい、そうなさって。遠いですからね、早くこちらを出ないと」
「いや、せっかく来たんだからもっとゆっくり休んだ方が。久保田さんとも積もる話があるだろうし」
ふたりは顔を見合わせて、くすりと笑った。
「積もる話なんてないですよ。繋がってますから」
久保田さんは当たり前のことのようにそう言った。俺は少々、面食らった。
これは確かに、あの家よりお寺に美波の居場所があると言われても納得する。美波とお寺の空気はブレることなく馴染んでいて、向こうにいる時とは違う。
向こうにいる時の彼女は地面から一センチは浮いている。
「話は済んだから。桜餅をもうひとついただいて、それで帰ろう?」
「あら、もうひとつあることはバレてましたか」
冗談だろう、と思うと美波は「久保田さんはいつもわたしのすきなお菓子をふたつずつ用意してくれてるのよね」と言って、肩が軽くなった。
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