第25話 おばあちゃんを卒業

 あっという間に冬を越えて桜の花があふれんばかりに咲き誇る季節になった。俺と美波は三年生だ。大人になると時が過ぎるのは早いと言うけれど、美波といると特に早い気がしていた。

 当の美波はどう思っているのかわからないけれど、たぶん繊細な彼女のことだ。俺以上に時の流れを敏感に感じ取っているに違いない。

 時間の経過は残りの寿命に反比例している。俺たちが死ぬまでの時間は、いま、刻々と迫っている。猶予はあと五、六年だと学者たちは話している。


「なに、考えてるの?」

「いや、ひとが多いなと思って」

「それはそうだよ。あと何回、こうやって桜を見られるのかわからないもの……」

 美波の目の先には肩車されている男の子の笑顔があった。こんな世の中に新しい命を生み出すこと、それはすごい決断だ。

 一本一本の桜の木に挨拶をするようにゆっくり湖畔を歩いていく。飾られた提灯に風情を感じる。外国ではこんなにのんびり、終末を迎えられないのかもしれない。日本人に生まれてよかった。


「桜っていいよね」

「そうだね。去年まではあんまり気にしてなかったけど、美波と見る桜はいいな」

「本気? 瑛太には情緒が欠落してるんじゃない」

「ひどいこと言うよな。ちょっと国語ができるからって」

 手を繋いで歩く。黙って、お互いに上を向いて。焼きそばにたこ焼きにバナナチョコ。なにもかも目に入らない。美波が俺の手をきゅっと強く握った。


「『お寺』にね、次の週末、行こうかと思うの」

「ああ、ゆっくりしておいでよ。故郷だろう?」

 やわらかくウェーブした肩までの髪がふわっと揺れて、落ちてきた桜の花びらが絡まる。美波は小さく首を振った。

「日帰りのつもり」

「泊まってこいよ、遠いんだから。おばあちゃんだって待ってるよ、きっと。またいつもみたいに次の日には駅まで迎えに行くから」

 きゅっ、が、ぎゅっに変わる。

 痛いくらい強く、爪がくい込みそうな力で美波は手を握った。


「あのね、一緒に行かない?」

「え? 俺?」

「大丈夫、おばあちゃんだってきっと、わかってるし、久保田さんにも伝わってるし。だから、日帰りで」

「……ごめん、少し考えさせて。嫌だってことじゃなくて、突然だから驚いちゃって」

 事実そうだった。

 美波が自分が『お寺』の子だとずっと思っているのは知っていた。でもまさか、自分がそれに関係するとは思ってなかった。

 神様や仏様のことは特に信じていなかったし、本当にいるのならなんらかの救いを衆生に施すだろうと思っていた。ダラダラとした、偽物の平和な日々。それが神仏に贈られたものだとは受け入れがたかった。


「わたしこそ、ごめん。忘れてくれていいよ。おばあちゃんに瑛太を会わせたかっただけなの。……なんか、急ぎすぎたね」

 美波のご両親には一応の挨拶はした。長くつき合うつもりなら、それはもちろん必要なことだと思ったから。

 ご両親はごく普通の人たちで俺をほっとさせた。リビングに入るとコーヒーと紅茶のどっちがいいのか聞かれた。すべて普通で、不思議な空気はこれっぽっちもなかった。

 でも幾度となく話に出てくるおばあちゃんとやらはそうはいかないだろう。この世にいない人、それは最も厄介な相手だ。話が通じない。

 たとえば美波やその久保田さんとやらが「おばあちゃんは反対してるの」と言っても、俺はどこに反論したらいいのかわからない。気に入ってもらえるのかわからない。


 考える。

 わからないけど、避けては通れないことなのかもしれない。それが美波を受け入れるということなのかもしれない。

「瑛太? 無理しなくていいから、せっかくの桜を楽しもうよ」

「そうだよ、一つ一つのことが大切で意味があるんだよな。美波と一緒にいると特に。どうせいつか会わなくちゃいけないなら、おばあちゃんにも『美波さんをください』ってちゃんと言わないと」

 美波は普段以上に吹き出した後、お腹を抱えて笑った。こっちがちょっとムッとするくらいに。

「そんな一足飛びに。おばあちゃんだって驚くでしょう?」

「じゃあなんて言うんだよ。おつき合いしています、この先、美波の六年を僕にくださいって、それ以外になにを」


 ふっと美波は黙った。そうして指先で俺の肩についた桜の花びらを器用につまんだ。薄桃色の花びらからは春が匂い立っているようだ。

「言わないで、具体的な数字を」

「……美波だって時々言うだろう?」

「そうだね、悪い癖」

 するりと腕を絡めてきてこつんと肩に頭を寄せてくる。不安なのはここにいるみんな一緒だ。次第に年数が短くなって、その時、個人的にそれをどう迎えたいのか、という具体的な話をするひとも出てきた。

 俺の望みは世界が焼け落ちるその瞬間まで美波と一緒にいること。たぶん美波も同じ気持ちだってことは聞かなくてもわかってる。


「わたし、おばあちゃんを卒業するの。もっと大切な人を見つけたから」

「そうか」

「これからはどんなことでも瑛太に相談するから覚悟してて」

「責任重大だな」

「だね」




 美波の故郷はすっかり桜が散って、道の両脇に赤茶けてきた花びらがたまっていた。『お寺』の庭にある桜の木はすごい枝ぶりで、竹竿のようなもので支えられていた。満開なら夢みたいな景色が見られるのかもしれない。

「あら、ちょうどお菓子が届いたところですよ。美波さんは勘がいいから」

「もう、冗談ばっかり。えっと、高槻瑛太くんです、電話でお話した」

「はいはい、もちろんわかってますとも。高槻さんはあんこは苦手かしら?」

 急に思ってもみなかった質問を振られて答えに窮する。要するに届いたお菓子は俺が来たから買ったもので、それは和菓子だということだろう。

「大丈夫です」

 口角を上げて、久保田さんと思われる人は笑った。目じりのシワがやさしげな雰囲気をより増していた。確かになんでも話せそうな不思議な空気を持った人だった。


「そんなに緊張なさらないで。美波さんになんて聞いたかわからないけれど、わたしなんて美波さんから見たら他人だし、マツさんは血縁だけど他界してるのよ。なにも怖がることはないわ」

 さて、上がりましょうよ、とさっきまで草取りをしていたといった風情の久保田さんは早速手を洗いに行った。


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