第12話 残された時間

 電車は焦るようにガタガタと震えながら次の駅にみんなを乗せていく。わたしも、彼も。

「――、――。お乗り換えのお客様は」

 お馴染みのアナウンスが流れて人の動きが始まる。足元に気をつける。彼のラケットを誰も踏まなければいいけど。

 どっと人が降りて、疎らに人が乗ってきた。落ちているラケットが存在感を増す。

 銀色のバーを握りしめていた右手の筋が、力を入れすぎたのか痛んだ。はっとして手を緩める。

 彼はその細くて黒い艶のあるラケットをひょいと拾うと「ごめんね」と笑った。正面からやっと顔を見た。眩しかった。こういう出会いは初めてだった。太陽を見るような。


 わたしに隣に座るように促して彼もすとんと狭いスペースに収まる。ふたりとも、肩に乗った目に見えない重い荷物が下りたことにほっとしていた。

 ただ、次の駅までは本当に短くて、何も言えないまま時間はじりじりと過ぎていく。彼はそのことを知っているのかわかりかねた。

 ――沈黙はなんのためにここにあるんだろう。わたしは、ここで変わらなかったらもう残りわずかな人生のすべてが変わらないような気持ちになった。あと数年しかない人生を、ここで変えなければ。


「あの、坂口美波さかぐちみなみと言います。毎日、ほとんど毎日、この電車に乗ってます。……変な勘違いをしてすみませんでした」

「いいよ、こっちがマナーが悪かったんだ。謝るのは俺の方だよ。俺は高槻瑛太たかつきえいた、部活があるからこの電車に乗らない日が多いんだけど、でも」

 でも?

 肩と肩がレールの継ぎ目でガタンと不意に触れる。静電気がパチンと音を立てるようなおかしな感覚。あ、この人は特別な人だ。おばあちゃんの言っていた意味がようやくわかった。


「同じ電車に乗れる日はまた話しかけてもいい?」

 必死の思いを込めて、ひとつ、うなずいた。

「じゃあ連絡先を」

「――、――、お降りの方は」

 はっと目を合わせる。出しかけたスマホを手に握って、荷物を持ち直す。ふたり、同じタイミングで。

 するするとドアは開いてホームの奥側、自販機の前でもう一度スマホを取り出す。

「乗り換え、急がなくていいの?」

「美波ちゃんて呼んでもいい? 馴れ馴れしいかな? 嫌なら嫌って言って」

「大丈夫……。あの」

「M女附属なんだよね?」

「あ、うん。でも附属って言っても短大だし……」

 あ、急に切なくなる。

 そのたった二年間が彼が不在のまま飛ぶように過ぎていって、そしたら。その二年に意味があるんだろうか?


「短大志望なの? 別に悪いことじゃないんじゃないかな? 今はみんな、それぞれ好きなことをする時代だよ。悔いを残さないようにね」

「……そうかもしれないけど。瑛太くん、は、その頃何を」

「…………」

 今度は彼が口を閉じた。

 目が見開かれる。

「……俺もこのまま普通に大学かな? 親も『普通』に好きなことをしろって言ってるし。だからってそんなに変わったことはできないし。いいんだよ、急がなくて。それぞれ選ぶ道が違っても、たぶん」

 彼の顔はそうは言ってなかった。進路への確信のようなものが薄れていくように、声が小さくなった。


 ふたりの間にここへ来てまた沈黙が訪れる。やけにホームばかりが騒がしい。わたしたちはここだけすっぽり切り取られたかのように無音で。

「美波ちゃん、もしも本当に時間が大人の言うように限られてるなら、俺とその時間を過ごさない? こういうのは本当なら時間をかけるものなんだろうけど、でも、こんな時代だし。ここで卒業までの残り一年と半年、たまたま同じ電車に乗った時だけ一緒にいるんじゃ俺には時間が足りないように思う。あと何年? 俺たちがこの星にへばりついていられるのは。一緒に確かめてみない? 俺は美波ちゃんと試してみたい。その――この残された時間を過ごすのが君なのかどうか。ほんと、早足すぎるよな、ごめん。自分でもこんな自分に驚いてる。お互いにお互いのことを知らなすぎるし、急ぎすぎてダメになることもあるってわかるんだけど、こんな機会は今しかない気がするんだ」

「わたしもこの数十分の間にそんな気がして。だから、できるだけ早く」

 できるだけ長く――。

 じりじりと焦げ付くように時間はわたしたちの気持ちを急かして、そのあとはふたり、言いたいことが上手く言葉にならなくて、また列車の出発アナウンスに背中を押された。


「考えてみて。なんだろうな、こんな時にさ。じゃあ」

「わたしは瑛太くんを好きになったと思う」

 わたしの言葉に、彼と、通り過ぎる幾人かの人が振り返った。瑛太くんは行きかけた踵を返すとわたしの両手を握りしめた。行き交う人が互い違いにちらちらとこっちを見ていく。

「好きだ」

 言葉は早足に雑踏を駆け抜けて、捕まえておくことはできなかった。耳元に囁きと体温。それが幻のように遠のいて、彼は電車に乗ってしまった。

 来た時の方向に、電車は進んで行った。見送る、とは言えないほど彼の姿はすぐ人波に紛れて見えなくなり、わたしはその彼の姿の片鱗を目で追った。


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