第10話 手紙

 文具屋さんに行って失礼に当たらない、それでいて季節の花――その時は水仙だった――の描かれた便箋と封筒を買った。そして黒いボールペンをしっかり握りしめてその手紙を書いた。


『おばあちゃんへ』


 子供みたいな書き出しだったけどそんなことは関係なかった。肝心なことは純粋であることで、自分が自分らしくあることだ。


『おばあちゃんへ

 おばあちゃん、わたしを小さい時に守ってくれてありがとう。わたしは今、最高にしあわせです。

 しあわせとは何かと聞かれたら、家族や友だちがいることと答えます。

 友だちがいるというのは素晴らしいことです。楽しいことも、恥ずかしいことも、悩ましいことも全部、話すことで分かち合うことができるからです。わたしたちはどちらかが上ではないし、下でもありません。まったく対等な立場で向かい合っています。

 わたしはおばあちゃんと離れてからもずっと、純粋であることを大切に守ってきました。

 わたしに素晴らしい友だちができたことは、おばあちゃんが子供だったわたしに大切なことをたくさん教えてくれたからだと、今ならはっきりわかります。

 世界には絶望だけが残されているわけじゃないとわたしは今、知りました。

 心の平穏を保ち、毎日を大切に過ごすこと。それが生きていくことです。決して泣いて暮らすことではないのです。

 おばあちゃん、そういうことの全部を教えてくれてありがとう。わたしは残された人生を、おばあちゃんの教えを忘れずに生きていこうと思っています。離れていても見守っていてください。離れていても心は繋がってると思うのです。

 体だけは気をつけてくださいね。また会いに行きます。


 美波』




 その手紙の返事は来なかった。

 おばあちゃんは確かにその手紙を読んだという。病院のベッドの上で。急に倒れたのだ。

 意識が戻った時にちょうどわたしの手紙が届いて、おばあちゃんは目尻に涙を浮かべたという。

 そうして「返事を書かなくちゃね」と言ったその晩、容態が急変して返事は書けなくなってしまったのだ。

 わたしは死に目に間に合わなかつた。


 おばあちゃんのお葬式は人柄を偲ぶように穏やかに行われた。

 ハンカチで目を拭う人も、口元にはやさしい微笑みを称えていた。

 わたしがそこを出てからの数年の間、おばあちゃんは特別な時以外、表立つことはなく、お弟子さんの久保田さんという女の方がみんなの相談役になっていた。

 お葬式もその方が滞りなく行ってくれた。


 おばあちゃんはわたしの手紙を読んだ日、久保田さんにお願いごとをしたという。

 どうやら自分がみんなより一足先に旅立つことを悟り、これから先、おばあちゃんを頼ってきた人たちがどうしたらいいのかを書き記してあったという。

 そして手紙の返事は来なかったけど、わたし宛と思われるハガキが見つかった。そのハガキは絵ハガキで、表面には越前岬の一面に咲く水仙の花の写真があった。不思議な呼応だ。

 わたしは緊張して裏面の、文面を読んだ。

『美波へ

 大きくなりましたね。

 もうおばあちゃんにしてあげられることはありません。

 でもひとつだけ。

 最後の時が来る前に会いたくなった人の元へなりふり構わず行きなさい。純粋さは時に人を盲目にするけれども、それが良い時もあるのです。


 ばばより』


 不思議な気持ちになって、もう一度裏返して水仙を見た。何かのおまじないがしてあるとか、そういうことがあるかもしれない。

 いや、それはない。

 おばあちゃんはそういうことを嫌っていた。

 信心深くいることと、誰かに――たとえば神様や仏様に代わりになってもらうことは違うというのがおばあちゃんの考えだった。

 おばあちゃんのしてあげるのは癒しであって、不思議な力で問題を解決することではなかった。


 そうして再び文面を見る。

 ……会いたい人。それは今なら久美だ。でもきっとそういう意味じゃない。

 誰か特別な人をわたしは見つけるんだ。そしてその人に、わたしは最後の日が来るまでに必ず再会するんだ。

 つまり、一度は離れる時があるってこと?

 それはその時が来なければわからない。それよりわたしはその人のことを一目で見分けられるだろうか? どうなの?


 わたしの変化を恐れる慎ましやかな毎日の中に、それを揺るがす勢いで現れる人。その人はきっと、残り少ない人生をより大切な日々に変えてくれるに違いない。

 雫を受け止める平らかな水面のように、わたしの心も波風ひとつ立てずにその人を待てばいい。そんな気がした。

 十六歳の時の出来事だ。

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