第8話 もう会わない覚悟
悪い夢を見る。
ただしこれは美波とは無関係、俺だけの問題の話。
夢の中で美波は笑う。いつだって全開だ。美波の出し惜しみということを知らないうれしそうな顔。
大概は高校生の頃の夢で、駅で待ち合わせをしてふたりでたわいもない話をする。どこか適当な店にでも入ればいいのに、いつも、暑くても寒くても駅のベンチにいる。そんなバカみたいなことしかできなかった。
でも美波が笑うから、俺もつい笑ってしまう。あの頃、難しい顔をしたことなんてあっただろうか?
「あのね、話したいことがあるの」
ん?
「もうこれ以上、一緒にいたら悲しくなっちゃうから……」
おい、待てよ。どうしてそうなるんだよ。
「よくわかったの。わたしには東京は遠いよ。それに、あの街の住人になった瑛太はわたしの知らない人になっちゃう。きっとだよ」
投げかけられたセリフ。ポーンとファウルボールになればいいのに、きちんとラインギリギリのところを走っていく。
そうだ、俺は変わらずにはいられないだろう。たぶん、『普通の大学生』になる。それでも美波との仲を今まで通りに続けられるだろうか? 今までみたいに、会いたい時に会うというわけではなくなるのに?
ちょっと待てよ、俺。
混乱する。
なんでそこで美波を投げ出そうとするんだ? 確かに大学は刺激的だ。今まで会ったことのないような人たちの塊。そこに渦のように吸い込まれて、みんなと同じくなって――振り切った、過去を。美波を。
美波がいなくても平気だと思ったんだ。だって女の子はいくらでもいる。地球の人口の半数は女だ。
結局俺たちはここまでだったんだ。美波の代わりになる女の子もきっといる。美人で、洗練されていて多少遊び慣れていて。そういう女に溺れるのもいいかも。
いいのか? 本当にそれで。
ぽうっとタンポポの綿毛みたいにふんわりしたものが顔を覆う両手に触れる。
そのやわらかさに癒される。吐息を感じる。
「どうして泣くの?」
美波を手放したからだよ。バカだった。最後のチャンスが向こうから降ってきたのに避けてしまった。
「それでもいいんだよ」
良くない。今度は手をつかまえて絶対に離さない。めんどくさいことは後回しだ。
「仕方ないなぁ、瑛太は。そういう考え方は良くないよ。あの人、瑛太のために泣くよ? それに……瑛太はまたきっとわたしの手を離すと思うの。こんな夢を毎日見るのは良くないよ。わたし、おまじないしたのに。瑛太を苦しめないように。わたしを根本から忘れてしまえるように。なんだっけ、アメリカの――」
ドリームキャッチャーだよ。……美波、あれ買ったんだ?
「ごめん。たまたま入ったお店に瑛太の波が残ってたから」
そういうの、まだわかるの?
「わかるの。気持ち悪いよね」
じゃあ、俺の気持ちは?
心の中もわかるんじゃないの?
「心の中はみんな、特別な場所で鍵をかけてるから覗けないんだよ。ほかの人と同じ。推測するだけ」
美波、いまどこにいる?
会いに行きたい。
もう一度、顔を見たい。
「それは秘密なの。会いに来ちゃダメだよ。わたしたち、違う道を、違う終わりの三年間を過ごそうって決めたばかりじゃないの」
違う。
それは本心じゃない。外面よく世の中を渡るために出てきた言葉だ。
誰も傷つけたくないし、自分を変えるのは億劫だし、今のまま、惰性で三年生きていけば「はい、終わり」だってわかってるからだよ。
でも考えてみれば考えてみるほど、美波とすれ違った世界線に三年間もいるなんてバカげてる。
――知らないフリをしてた。
三年前に別れた時のこと。別れてどう思ったのか。今度もしチャンスが来たら絶対同じ過ちは繰り返さないってあんなに後悔したのに。なのに、どうして忘れてた?
美波が夢の中に散っていく。
これは美波が見せてる夢じゃない。質感が違う。甘い香りもしない。
ただ、過去を後悔する自分が見せた幻影だ。過去から逃げてるから、こんな夢を見るんだ。
美波のことをちょっと思い出しただけで、この
「……こんな夜中にどうしたっていうの?」
寝ぼけ眼の真花の髪はふくらんでボサボサだった。明るめの茶色に染めているから、髪が傷んで指がすっと通らない。
「真花……」
「ちょっと、酔ってるの? ここ、玄関。とにかく上がってよ」
履き潰した靴を脱ぐ。なんだって良かったからって一番古い靴を履いてきてしまった。俺だって髪に寝癖がついているかもしれない。
でもとてもひとりじゃいられなかったんだ。
悲しい夢ばかり追いかけてくるから。
座って、とソファに座らされてここに来て始めて『ホットミルク』を出された。そんなものが真花のレパートリーにあるなんて知らなかった。
「これ」
菜穂子さんの店――つまり真花の勤め先の茶色いクラフト紙に包まれたなにかを渡される。それは不思議な重さを持って、俺の手の中に滑り込んだ。
「これは瑛太が持ってるべきだと思うの。捨ててやろうかと思ったんだけど、考え直した。重い女になりたくないし、瑛太とは今まで通りドライでいたいし。苦手なの、この湿気で重い髪みたいな関係って」
封を剥がして中から物を出すと、それはドリームキャッチャーだった。この前、手で弄んでいたのを欲しいものと勘違いしたのかもしれない。
「こんなおもちゃ、信じてないの知ってるくせに」
そうだ、これを欲しがったのは美波だ。
「……わたしもそう思ってた。でも、店に来たのよ、高校生くらいの女の子が。白いスカートが無垢な印象で、汚してしまいたいような気になっちゃったんだけど。その子も買っていったよ、それ。最初に瑛太が触ってたやつだよ。そんなに問題が深刻ならもっと大きいのにした方がいいのに」
隣に腰を下ろした真花は二十四の女に見えた。『人生』って言葉を俺より知っているような、さみしい顔をしていた。
そうして、彼女はカバンから細い煙草を出すと火をつけて、一息にそれを吸った。
「あの子、昔の、でしょう?」
「……どうかな、見てないから」
煙草の煙は真白く辺りを漂って、端から次第に薄れていく。大きく貪るように真花の唇を求める。拒まない。真花は姿勢を変えて煙草をもみ消した。
「わたし、あの子に勝てそうにないな。でも負けるわけにいかない」
「勘違いだよ」
「大きめのボストンバッグを持ってたよ。もうこの街を出たと思う?」
「それ、いつの話?」
「昨日」
ソファに深く腰かけたまま、頭を抱えて沈みこんだ。なんだよ。俺の知らないところでそんなことしてたのかよ。
「夢を見たんだ。ふたりで会う夢。だけどそんなもの意味無い。だってあの時、もう二度と会わない覚悟で別れたんだから。もう一度会ってどうするっていうんだ?」
「大切な恋だったんだね」
「そう、恋だよ! 笑えるだろう? 少女マンガみたいな恋をしてたんだ。もうすぐ消えてしまう星のことなんか目に入らないくらい好きだった。――だから、間違った」
そう、間違えた。どうして自分はこうなんだろう。いくつもの可能性の全てを考える前に、美波の意地を張った言葉に流されてそれで。
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