第7話 修正不可能

 朝になると何事も無かったかのように、恥ずかしそうな顔をして、あの頃と全然変わらないはにかんだ笑顔で美波は「おはよう」と言った。

 テーブルの上には冷蔵庫にあったはずの卵が目玉焼きになり、真花が置いていったわかめが味噌汁になって現れた。炊飯器を彼女が開けると、魔法のように甘い香りが部屋中に漂った。


「えーと、『一宿一飯の礼』? 勝手にお台所使ってごめんなさい」

 いや、いいんだよ、と寝ぼけた頭を働かせようと、とりあえず顔を洗う。美波は逃げたりせずにテーブルの台所側にちょこんと座っていた。

「あの、先に言っておくけどお料理の腕も上がってないの」

 目をやると確かに目玉焼きはウェルダンのようだった。

「半熟だけが目玉焼きじゃないよ」

「甘やかさなくていいんだよ、わたしは彼女じゃないんだから」

 美波は困った顔をして小さくなった。細い肩を抱いてやりたくなる。けどそれはできない。少なくとも俺たちは、テーブルのこっちとあっちくらいには隔たっていたから。


 じゃあ、なにができる?

 なんにもだ。なんにもしてやれない。高校生の頃となんにも変わらない。状況を変えてやることができない。せっかちだ、と言いながらこれっぽっちも動けない。

 そんな俺を美波はちらちら見ている。そうだ、できることがとりあえずひとつあるじゃないか。ウェルダンの目玉焼きに箸をつけること。


「思えば――大会の時とか弁当、作ってくれたでしょ? でも朝食は初めてだな」

「お弁当のことは忘れて! 玉子焼きは塩辛いし、ウインナーは焦げるし、全部冷凍食品にしようかっていつも迷ったもの」

「なんで? 俺にとってはいい――」

「……?」

 大きな瞳で次の言葉を待ってる。答えを与えてあげないといけない。でもその一言が口に出せない。過去を過去だと口にするのが怖い。いまの、この微かに漂うしあわせな空気を壊したくない。

「いつも美味しかった」

「それはきっと嘘だわ」

 ふふ、と彼女は笑った。ああ、たまに見せるすっかりリラックスした時の笑顔。つまり、そうそう見られない、貴重な。


「わかめはさみしがりだった? 無事に繋がってる」

「よくわかったね、そうなの、離れたくないって手を繋いでね。わたしの気持ちがうつったのかも」

 初めて手を繋いだ日のことを思い出す。その思い出をズタズタにするように、今日、たぶん美波と会うのはこれが最後だ。

「お味噌、やっぱり固まってた?」

「いや、大丈夫。美味しい」

 そんなことしか言えない俺は気が利かない。どうして言えないんだろう? なにを? なにを言うんだ?


「お口に少しは合って良かったです。もっとも瑛太はやさしいから信用できないけど。……じゃあ、キリがないから帰るね。いいの、気にしないで。煙草のことみたいに彼女がいることはなんとなくわかってたから。それでも会いに来たわたしが図々しいの。――ねえ、みんなが言うみたいに三年なんてすぐかな? そしたらわたしは助かるんだけど。瑛太のいない三年を短く感じられたらいいんだけど」

 テーブルに手をついて座っていたイスを引いて立ち上がった。自分でもわからない。なにをしたいのか。どうしたいのか。


 細い手首を無理やり引いて抱き寄せた。

 これまでだって女の子とはわりとルーズにつき合ってきた。でも今も一応、真花がいるし、そういうことに美波を巻き込みたくないし、そんな男だと知られたくないんだ。

「瑛太……うれしいけど、ちょっと苦しいかも」

「バカ、三年分」

「そっか、三年分か。……本当にもう会わないんだね」

「…………。思い出はできただろう、お互いに。さみしいこと言わないでほかの男のところに飛び込むといいよ。美波はいまも昔も魅力的だよ。元気でいて」

 耳元にキスをする。ああ、こんなことあの頃はできなかった。そんなにスマートじゃなかったから。

「意地でもわたしは瑛太だけを想い続けるよ。わたしだって狡いの。こうやって忘れられない思い出を残して帰っていくの。三年のうちに何度かでもわたしを思い出してね」

 不器用に俺の腕の中から逃げ出して、そしてとってつけたくらいのかわいいキスを俺の頬にして、扉は音を立てて閉まった。


 ベッドにどさっと倒れ込むと、あの不思議な甘い香りがやっぱり俺を包んで、俺は両手で顔を覆う。

 神様、こんなのはないだろう? 確かに俺は信心深くないけど。だからってここへ来て人生の中に美波をまた放り投げてくるなんて。

 すきな女がいて、互いに惜しみながらこの世の終わりを三年後に迎える――そういうシンプルなプランはどこへ行ったんだ?

 ここに来てまた問題かよ。

 そうだ、美波がすきな気持ちは変わっていない。あの頃のまま、冷凍保存だ。ギュッと固めてしまってあった。なのに、どうして?

 思い出が解けていく。

 DNAの二重らせん構造のように、赤は美波、青は俺。解けても絡まる。鍵のようにしっかりハマって離れない。美波の鍵なら今もたぶん、ほかの誰でもない、俺のところにある。

 忘れるなんてできないだろう? 目の前に本物まで現れておいて――。


 階段を転がるように下りていく。彼女の白いスカートを探す。通りまで走る。どこだ? どうしてその裾が少しでも目に入らないんだ?

『やり直し』に来たんじゃないのかよ?

 あっさり引き下がるのは育ちがいいからか?

 もっとぶら下がって、欲しがって、手放さなきゃいいんだよ。

 俺、なにやってんの? 決定的なことを修正不可能な形で間違えたとわかった。

 さっきまでうっすら空を覆っていた雲が、ぽたりぽたりと涙を流し始めた。

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