第6話 わたしは『女』だった?

 男が床に寝るのは当たり前だろう、と言うと、美波は理不尽だと言った。でもそんな時でも大きな声で反論したりはしない。あくまで意見を述べるだけだ。元々が物静かな子で、論争を好まなかった。

「やっぱり、わたしが床で寝るよ」

 ギシ、という音がして、美波はベッドを出た。

「その話はもう済んだよ」

 暗闇の中でシルエットは輪郭が曖昧だ。手をそっちの方向に伸ばす。ギシ、とまた今度はベッドが沈む音がして、美波が座ったことがわかる。


「だって悪いもの。わたしが来る予定はなかったのに」

「そういうのはいいんだよ。昔から流れに身を任せるっていうのが苦手なんだよ、美波は」

「流れに……?」

 声が止んだ。飽きることなく叩くような雨音が聞こえる。まるで海の真ん中にいるみたいだ。

「あの、変な意味じゃなくて、一緒にベッドに入りませんか?」

「……本気で言ってんの?」

「瑛太が下で寝るの、嫌なの」

「そんな狭いベッドで、ふたりで体を寄せ合わないで寝る方法はない」

 また少し美波は黙った。言葉を消化してるのかもしれない。いくら美波が純粋でも、それくらいのことはわかるだろう?

「大丈夫。覚悟、あるよ」

「大丈夫って!」

 思わず大きな声が出てしまってびっくりする。大丈夫ってなんだ? 違う、そんなふうに過去、付き合ってきたわけじゃない。確かに俺は何人かと関係を持ったけど……美波がそういうことに慣れてるとは思いがたい。


「わたしはさ、三年前もいつだって瑛太がそうしたいならそれでいつでもよかったんだよ、本当に。もちろん大切にされるのは悪い気持ちはしなかったし、少し怖かったけど。順番が違っちゃうけど瑛太と付き合ったほかの女の子と同列になって然るべきだと思うの。それこそが、いまの流れじゃない?」

「ごめん」

 両手で顔を覆った。今日ばかりは部が悪かった。美波がそんなに大人になってるなんて思ってなかった。ヒールのついた靴を履いて、化粧をして現れても、中身はあの頃の美波のままだと思っていた自分が浅はかだった。

「勝手なのはわかってる。美波を汚したくない」


 三度みたび、ベッドは軋んだ。

 タオルケットを引きずって美波はベッドを下りた。俺は顔を覆ったままで、まったく自分こそ弱虫の高校生のままだった。

 弱い自分をカスタードの甘い香りが包み込む。

「添い寝くらいなら、彼女さんに内緒にしてもいいよね? 今日だけ。わたしはもうこれから先、男の人と付き合うつもりはないの。だから、こういうのは瑛太が最後」


 体の片側に美波の温度を感じる。彼女の体温は少し高めなようで、その熱が俺の微熱になる。ガっと抱きしめて攫ってしまえるなら、もしそうできるならよかった。理性がそれを抑える。

 真花のこと。美波への気持ち。俺自身の大切にしたいこと。

 静かな寝息がすぐそばで聞こえる。ほら、美波はやっぱり警戒心ゼロ。昔の俺と勘違いしている。


 俺は純粋じゃないんだ。

 あの頃と違うんだ。

 思い切って美波の後ろ頭に手をやり、引き寄せて額にキスをした。美波が起きているのかはわからなかった。髪は俺のシャンプーの香りがした。神聖なものを穢してしまった。取り戻しようのない罪を犯してしまった。

 小さな頭を抱きしめて考える。時計の秒針が時間を数える。一秒ごとに、時は進んでいく。終わりの時は近づいていく。

 ――少し前に巻き戻して唇に唇を重ねた。

「……ん」

 その時、寝ぼけた美波はなにも考えていなかったんだろう、俺の首に腕を回そうとした。ハッとなって体を離す。落ち着け。そうじゃない、そういうんじゃない。


「瑛太?」

「うん?」

「…………」

 自分から話しかけてきたのに美波は押し黙った。言いたいことがあるわけじゃなくて、ただ寝ぼけてるだけなのかもしれない。

 触れ合う素肌の滑らかなやわらかさに、いけないものを拾ってきてしまった気になる。拾ってきたわけじゃない。美波からやって来たんだ。

「わたしからキス、してみてもいい? って言っても、あの頃よりちっとも上達してないんだけど」

 あ、とも、うん、とも言う前に素早く唇は触れて、しっとりとした感触が体中に信号を送る。

「確かに上達してない。もっとこう」

 手首を握って唇を塞ぐと、「ん」と声ともため息ともつかない音を美波は漏らした。グッとカスタードの香りが強まる。本人が言っていた通り、どこかであれから実践した経験はまるで無いようで、本来ならどこよりもやわらかいはずの口の中は緊張に強ばっていた。


 ああ、好きな女の子をモノにしてしまおうって一生懸命になってしまう時って、こんな気持ちだったかもしれない。

 不穏当なキス。手を離せば逃げられてしまうかもしれない小さな拒絶。大丈夫、怖くない。いま、静かに蕩かせてやるから。

「んん……」

 美波の舌も次第に弛緩して、こちらの動きについてくるようになる。体の一部がピクリと動く。こっちからの信号は届いてる。

 大丈夫。もう怖がらないはず。ゆっくり唇を離して、手首にこめた力を抜く。


 苦しげに呻きを漏らしていたその表情が花が開くようにほころんで、潤んだ瞳でゆっくり俺を見た。

「わたしも『女』だった?」

 最初、言われたことの意味がわからなかった。だから床に頬杖をついてその顔を見た。

「それとも『この程度の女』かって思った?」

 ああ、そういうこと。

 俺の頬に差し出した指先が小刻みに震えている。ほら、そんなに男を煽ったらいけないんだよ。それがわからないところがまだ子どもっぽく見えるんだ。

「最初から『女』以外の何者でもないよ」

 迫ってきた手を捕まえて口付ける。

「美波はいつも自分の価値を見誤ってる。だからこんなことになるんだ」

 ぽーっとした顔で彼女は俺を見ていた。俺は彼女の小さい手を彼女に返した。美波は胸のところで拳を握りしめた。


「ほら、ベッドでおやすみ。悪い夢は見ないように」

「瑛太がいない方が悪い夢なんだよ。三年もの間、ずっと悪い夢を見てた。この前、夢を渡れた時、どれほどうれしかったか」

「俺もうれしかった。でも、間違いはこれ以上重ねたくないよ」

「間違いじゃないよ」

「俺のこと、彼女がいるって知ってて奪いに来たの?」

 ゆっくり、美波は起き上がった。放り投げられたタオルケットを手繰り寄せて胸にかき抱いて、世界中を吹き飛ばすような大きなため息をついた。

「奪いたいわけじゃないの。ただ、瑛太が欲しいんだよ。でも伝わらないよね、そういうのって。わたしは真剣なんだよ。いつだって瑛太に会うのが最後になるかもしれないのに」


 ため息はすすり泣きになって、美波はのっそり、ベッドに上っていった。時々、嗚咽を漏らしながら。呼吸と呼吸の間に「おやすみ」と呟いた。


 外は雨。

 気分は最悪。

 大好きだった女が、大好きだと言って訪ねてきた。最高のシチュエーション。

 でもこれ以上はなにもできない。

 いまだって、いつだって、美波を穢すのが怖いんだ。欲求に溺れる美波を見るのが怖いんだ。

 頼むから、このまま朝までふたり、離れたままで。

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