第5話 神様の思し召し

「とりあえず、一度部屋に入りなさい」

「だって」

「お前は思い込みが強すぎる傾向があるんだよ。とにかく他人の親切は素直に受け取るべきだってばあちゃんに教わったんじゃないの?」

 よいしょ、と肩の下に手を入れて立ち上げてやる。白いスカートは見るも無惨な姿となって、踏みにじられた天使の羽根のようだ。もうボロボロだ。

「……ごめんなさい」

「いいよ。今日はこうなる日だったんだよ。美波はなにも感じなかったわけ?」

「……わからない。ずっと考えてはいたんだけど、昨日突然、衝動的に会いたくなって」

「ほら。『神様の思し召し』だ」

 となるとなにか意味のある再会なのかもしれないな、と思いながら、そんなこと今更、と否定する自分がいる。


 狭い玄関に美波を座らせて、白いヒールを拾う。華奢な靴には軽い傷がついてしまっていた。

「なんでこんなことになっちゃったんだろう? 三年後の、少し大人になった美波を見てもらえるはずだったのに」

「大人になったよ」

「どの辺が?」

 顔を上げた美波と目が合う。あの、高校生だった頃の自分がふとよみがえった気持ちになる。目が合うだけで息が詰まる。少しシャープになった顎のラインが綺麗だ。

「大人になったよ。その、綺麗になった。お世辞じゃなくてこれは本当にそう思ったわけで」


「……ありがとう」

 彼女はまた目を伏せてしまった。昔は彼女の形の良い瞳を眺めていたくて、できるだけ話を長引かせようと苦労したことを思い出す。そうすると単なるネタ話でも美波は「ほんとに?」と目を丸くして食いついてきた。

「とりあえず、また着替えた方がいいよ。……どこ打った?」

 美波が示したのは右側の腰から大腿部にかけてだった。本当に恥ずかしそうに、それを話した。


「別に普段、全然ヒールを履かないわけじゃないの。どうして今日いきなりこんなタイミングで滑っちゃったのか。その……いちばん見られたくないひとの前で。『神様の思し召し』なんかじゃないよ、それじゃあんまり神様が意地悪だもの」

 思わず笑いがこぼれる。三年前の美波を見ているようだ。ぐずぐず話す様子がなお一層、彼女を子どもっぽく見せた。


「ほら、もう片方の靴も脱いで。まだちょうど脱ぎたての服もあるしさ。下着、サイズはMでいい? コンビニに行ってくるよ。夕飯もまだだろう? 適当に見繕ってくるから着替えて待ってて」

「……ありがとう。あの、Mでいいです」

「わかった。気持ち悪かったらシャワー使っていいから。バスタオルはそこの棚」


 夜の街は雨のフィルターのせいですべてがぼやけて見えた。妙に頭が冴えて、やるべきことがするすると頭に思い浮かんだ。

 まずはコンビニで買い物だ。お泊まり用の化粧品のメーカーはわからないから適当に良さそうなものを、それと下着を買わないとあの転び具合では濡れて汚れた可能性もある。ストッキングは履いていなかった。

 コンビニの真向かいのドラッグストアで貼り薬を買う。あまり腫れてないといいけど。青くなった大腿部を想像して、痛々しく思う。

 そうだ、マクドナルドのセットでも買っていこう。幸いすぐそこだ。ポテトが冷めてくたくたになる前に帰らなくちゃいけない。バーガーはテリヤキで。マヨネーズをこぼすのはお決まりだ。それでもいつも彼女はテリヤキを選んだ。


 雨の中でマックのポテトを持って歩くなんてどうかしてんな、と思いながら、美波のための買い物を終わらせてヘッドライトが照らす夜道を走った。

 部屋に戻るとシャワーの音がして、また濡れた肩を拭いて美波を待った。……走ってきたのにこれじゃポテト、冷めるな。こんな夜に走るなんてバカみたいだ。


 シャワーの栓が止まる、キュッとした音が聞こえた。美波の白い手がドアからタオルを取ろうと。

「きゃっ!」

「悪い、帰ってきたって言うべきだった。向こう向いてるから、今度は滑らないように出ておいで」

 うん、と小さな声がして、浴室のドアが開いた。バスタオルを手にする美波の姿が、窓ガラスに反射する。その中で俺たちの目が合う。

「……見ないって言ったのに」

「思ってもみなかったんだよ」

「目を瞑っててね」

 バスタオルのところに置いておいた下着に気が付いたらしく、ピリピリという袋の開封音が聞こえる。

 またごそごそと美波は着慣れない服と格闘している。しばらくすると、思ったより早く「お待たせ」と彼女は姿を現した。


「打ったところ、冷やした方が良くないか? 薬買ってきたから。あと、化粧品は気に入るかわからないけど、ダメなら使わないで」

「…………。すごい慣れてるんだね」

「問題?」

「ううん、これは嫉妬だと思う」

 美波は俺に慣れている。そうやってするりと心の内側に入ってくる。かき乱される。心の中にはまだ美波のためのスペースが幾分か取ってあることがわかる。

「瑛太は元々モテる人だったから、嫉妬なんてしょっちゅう。だから気にしないで」

 すっと手を出して、彼女の太腿を圧迫する。

「痛い! ダイレクトに打ったところを触らなくたって」

「ほら、目を瞑るから薬貼っておけよ。せっかく買ってきたんだからさ」

 うん、と半ばあきらめ気味に同意する声が聞こえた。まぶたの裏に美波の、真っ白であろう太腿が目に浮かぶ。やわらかで、しなやかな。


「あれ、マックだ。瑛太とマック食べるのいつ以来だろうね? 昔はよく行ったよね」

「今日のポテトは湿気ってるとか、文句つけながらね」

「わたしは言ってないけどなァ。今日のポテトはどう? 塩味薄くない? 」

「ほら、そういうところだよ」

 ふたりでひとしきり笑って、言いたいことを言って、沈黙が訪れる。飲み物がなくなって、カップを振ると氷がカラカラ言った。

 美波も同じだと見えて、ストローを吸って出た音に驚いていた。


「泊まれる? 新幹線の最終、間に合わなくないか?」

「……遠方の友だちのところに遊びに行くって言ってきたから。LINEすれば大丈夫だと思う」

「相変わらずだな。スカート、普通に洗えるやつ?」

「ネットあるとうれしい」

「あるよ」

 もそもそとまだ美波は食べていた。食べるのが遅い女なんだ。よく噛むと、最後まで味わえるんだよといつか言っていたから、まだそれを実践してるんだろう。

 何分、彼女は躾が行き届いているから、だから、一緒にいると自分が汚れてるような気になる時があった。


「美味しいね」

「よかったよ」

 髪が濡れたままの彼女は蛍光灯の下でうれしそうに笑った。

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