第4話 『その時まで』しあわせに

 パサッ、パサッと美波が一枚ずつ服を脱ぎ捨てる音が背中越しに聞こえてくる。

 緊張が高まる。

 なにが起こってるんだ? 美波と別れてから三年の間に、ふたりの女の子と付き合った。短い関係を持っただけの子もいた。なのになぜかいまこんなに動揺している。

「瑛太は変わりない?」

「うん、まあ」

「そっか、なら良かった」

 Tシャツを着るために両腕を上げる気配を感じている。布ずれの音がする。その姿が目の前に見えるような気がして、してはいけない想像に困惑する。


「美波は?」

「わたし? わたしはいつも通り、なんにも変わらないよ。瑛太と別れたのが昨日だったみたいになんにも変わってないよ。変わったのは、会わない間に短大を卒業したってことかな」

「卒業して春からなにしてるの?」

「んー」

 突然、背中をつんつんとつつかれる。やさしく、指先で触れるくらいのタッチで。

「仕事を、しようと思ったの、本当に。保育士と幼稚園の教師の資格を学校で取ったし、なにか子供と触れ合える仕事がいいかなって」

「似合うと思う」

「ありがとう。わたし自身、子供の頃、知っての通り『お寺』でたくさんの大人にやさしくされて育ったから恩返しもしたかったんだけど」

「だけど?」

「……子供の数がね。ほら、要するに新卒はいらないのよ」


 ブカブカのTシャツから覗く二の腕は真っ白でやわらかそうだった。一体どこで暮らしたらこんなに日に焼けずに済むのかな、と場違いなことを考えていた。

 そうだ、あの頃も真っ黒に焼けた自分の肌の色と、並んで歩く美波の色の――例えば開襟にしたブラウスの鎖骨の辺りの白さを比べて不思議に思っていた。


「あの。瑛太はどう思ってる? 最期まであと三年て話。わたしは数字が具体的になっていく度に……」

「どうやっても動かせない数字だろう?」

「そうだよね。うん、そう。そう思う。――瑛太の彼女はどんな人?」

「なんで知ってんの?」

「バカだな、カマかけただけかもしれないのに。でもわかるんだよ、それくらい」

 ふふっと美波は微笑む。またふわっとカスタードの香りが強くなって、美波が真っ直ぐ捉えた俺の視線を逸らすことができない。


 視線を逸らしたい。

 話題を変えたい。

 でも真実は変わらない。


「年上の、ちょっと天然入った感じの社会人」

 今度はふっと美波が目を逸らせた。

「年上かァ。瑛太はちゃんと自分の考え持ってるから年上の人が相手でも上手くやっていけるんだね、きっと」

「美波はさ――」

 焦りは早口に表れた。矢継ぎ早に言葉を繰り出して、自分が押されてる分、形勢逆転したい。

 美波は、どんな男と?

 何人と?

 どんなふうに?


「わたしはなぁんにもないよ。短大は女子ばかりだし、合コン行っても気の利いたことひとつも言えないし、ハタチ過ぎてもお酒一滴も飲めないんだもん」

 いや、だからお前はそういうところが男の目を引くんだよ。俺の友だちも純なところがかわいいって散々言ってた。それから、俺に泣かされるなよ、とかさ。あの頃はなに言ってるんだよと思ったけど最低だな、俺。

「だけど会いに来たからって特別なことはなにも期待してないよ。瑛太と彼女さんが上手くいくように祈ってるし、服が乾いたらすぐに帰る予定だし」


「……この前、夢にさ」

「見た!?」

 パッと華やぐ笑顔をここに来てから初めて見た。アーモンド型の整った目に光が映り込む。

「わたしも見た。瑛太、寝てたよね? もしかしてあの時、わたし、現実に起こしちゃったんじゃない?」

「なんでタバコやめたの知ってんの?」

「なんでだろう……。そもそも別れた時には吸ってなかったのにね。夢ってそういうところが不思議だよね」


 美波はホットコーヒーの入ったカップで指を温めるように、その器を大事そうに抱えていた。瞳は雨が激しく降る窓の外を見ようとしているかのようだったが、相変わらずなにを考えてるのかわからなかった。

「この雨はすぐ止まないよ? コーヒーを飲んだらすぐ帰るね。もうここにいたらいけない気がする」

「そっか。俺もあの夢を見た時美波に会いたくなったからちょうど会えて良かったよ」

「拒否られるかと思った」

「それはこっちのセリフ。あの時だって拒否ったのは――」


 滝のように落ちる水の音が都合の悪い言葉だけかき消してくれるといいと思った。いつもこんなんだ。美波といると調子が狂う。ほかの女の子と同じテンポですべてが回ってくれない。

「モテるでしょ?」

「そんなにモテないよ」

「嘘つかなくても傷ついたりしないよ」

 口笛でも吹きそうな細いため息を彼女はついた。ふうっと。そのままこの三年間を吹き飛ばすには細すぎるため息だった。


 ため息は臨界点を超えて、美波は完全に頭を伏せてしまった。つまり閉じこもってしまった。膝を立てて座った彼女の両足の指は上向きに反り返ってた。

「美波、ごめん……」

 なにも考えずに言葉が口をついた。自分でもなにを言ってるんだかよくわからなかった。

 でもわかったのは、俺はいまだに三年前のことを後悔しているということだ。そんなことを言ってもなんの足しにもならないのに。

 美波は閉じていた瞳をそっと開けて、彼女独特の澄んだ瞳で俺を見た。俺はいままで何度も同じ瞳を見てきたけれど、今日は心の中まで見透かすのは勘弁してほしかった。まるで悪戯がバレてしまう子供のような気持ちになった。


「帰るよ。やっぱりここにいるのは良くないみたいだね」

 さみしそうな目をして美波は立ち上がり、また「向こうを向いて」と言った。彼女の息遣い、ブラウスの袖に手を通す音。スカートのジッパーが上がる音を聞いた時には心が苦しくて張り裂けそうだった。

「じゃあ、まで元気でいて。さようなら。夢ももう渡らないから安心して」

「……さよなら。美波もまでしあわせに暮らせよ」


 ガチャン、とドアが閉まった時、俺はすぐに鍵をかける気になれなかった。

 美波のいた空気が薄れていく。鼓動が速くなる。いま別れたらきっと今生では二度と。これで言い残したことはないのか!?

 ――バッターンッ!

 急な音に反射的にドアを開いた。そこには美波が倒れていた。転んだのか、腰の当たりをさすっていた。外は相変わらず強い雨で、外廊下は雨に濡れて明かりを反射していた。

「いたた……。こんな日に踵のある靴なんか履くものじゃないよね……」

 どうやら美波は濡れた床に滑ったようだ。靴が片方脱げて転げていた。


「立てる? 大丈夫か?」

「ごめんね、心配かけて。ちゃんと立てるし歩いて帰れるから。せっかくカッコよく『さよなら』したのに」

 床に直に手のひらをついて、美波は立ち上がろうとした。動きはすぐに止まって、また座り込んでしまった。

「おい、手を貸すよ」

 あわてて靴をつっかけて外に出る。ダイレクトに湿気が体を包み、吹き付ける雨がまた肩を濡らす。

「大丈夫だよ」

 片手をブンと俺の方に振って、追い返そうとする。しかしケガをしたかもしれないのに放っておくわけにはいかない。肩に手をかける。

「ダメ、触らないで」

 ――振り向いた彼女は泣いていた。理由なんて聞く必要がないくらいに、明らかに。


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