13・バトルフィールド

1・『戦闘』

 強かった雨足は霧雨に変わり、音もなく降り続いていた。その雨を切り裂くように、散発的に発砲音がする。木霊するであろう銃撃音も、雨の幕に吸い込まれ、消えていく。

 人特研での戦闘は、宮島率いる急襲部隊に不利に展開していた。制圧射撃をしていたオスプレイを撃墜され、更に着陸していた搭乗機まで爆破された今、地上に展開していたオオワシ隊隊長の明石は、撃墜された指揮機の墜落箇所へ急行していた。

 殿を務める明石が、他の3人の隊員と後部ハッチを駆け抜け散開しようとした真にその時、ドンっと花火が爆発した時の音と衝撃波が天空から降って来た。明石は咄嗟に空を仰いだ。雨筋が光線のように降り注いでくる白けた空で、宮島が搭乗するオスプレイが炎に包まれ急降下してきた。オスプレイからは断末魔の悲鳴にも似たローターの爆音が聞こえてきて、必死に高度を保とうしていたが、無情にもその高度は徐々に下がりそして一気に地上に激突した。

 直後、背後から身の毛もよだつ風切り音がしたと同時に、着陸していた搭乗機が突然爆発した。機体からは10メートルは離れていたが、爆風で一緒に居た他の隊員3名と吹き飛ばされ、地上を転がった。寸毫の意識消失後、明石はすぐに立ち上がり身体にダメージがないか確認した。戦闘中のアドレナリンが充満する興奮状態であっても、冷静に行動するよう訓練を重ねて来た明石は、致命的な外傷が無いのを確認すると、冷静な声でオオワシ隊各員の名前を点呼した。ほどなく全員からの返事が重なるように聞こえてきて、バイザー内のレーザービーコンが、全隊員が動いていることを知らせた。改めて周囲を見渡す。木っ端みじんに吹き飛んだオスプレイの残骸の一部が、篝火のようにゆらゆらと青白い炎を上げていた。明石は更に遠くを見た。薄くではあるが、この暗闇の中、ゆらゆらと青白い炎を上げている場所が遠くにあった。恐らくあそこが指揮機の墜落場所だ。

 航空支援による制圧射撃を前提とした建物突入。その奇襲は失敗した。アカツキ隊の合流も期待できない。現戦力は自分を含め10名。2名は建物横の大型クレーン車2台を『行動不能』に向かわせ、そのまま現状位置での待機している。対象戦力は不明の上、アクティブになった佐村がいる。戦力不足なのは明らかだった。

 墜落場所は、位置関係からして橋の近くだ。事前の情報では建物から橋までは500メートル以上はある。走れば僅か数分も掛からないが敵に背中を向け、一直線に墜落場所まで向かうのは危険すぎる。明石は即断した。建物への突入の先鋒を任せた6名の名を呼んだ。「西原、馬淵、小池、河野。突入一時中止。散会して墜落したスメラギ隊の救出へ向かう。橋本、大下は現場にて待機」

「了解」

 即座に返事があった。その時、後方から銃撃音がして、暗闇のどこかで石が跳ねた。明石は部下に命じたように、燃えているオスプレイの残骸を迂回するように、右手方向に駆けだした。

 バイザーにも各隊員が赤い点でランダムに動いていた。大回りする事で時間は掛かるが、敵に的を絞らせない事が最優先だ。その間も散発的に銃撃音がするが、被弾の報告はない。悪天候に加え、暗視装置でも目視距離は20mも無い暗闇が明石たちを守ってくれていた。

 墜落地点まで後100メートルを切った地点だった。

 聞き覚えのある爆音が聞こえて来た。明石は思わず天を見上げる。見上げても、天から放射状に降って来る細い銀色の線しか見えない。聞き違いかと思ったが、先頭を走っていた隊員も足を止めこちらを振り返っていた。バイザーの中でアラートが点滅した。敵襲ではない。テキストで発せられる緊急通信のアラートだ。

『浅尾発。これより対象建物へ強行突入を行う。イレギュラーな作戦の為、スメラギ、オオワシ両隊は待機せよ』

 暗号でもない日本語の平文が、バイザーに映し出された。明石達は再び空を見上げた。微かだった重低音が、徐々に鼓膜と体を震わす程に大きくなってくる。

 カっと暗闇を切り裂く白色光が、漆黒の空を貫き、機関砲による銃痕の跡が生々しく残る建物が、白い光の輪の中に浮かび上がっていた。同時に大気を震わす爆音と、連続した甲高い発射音が聞こえた。明石が振り仰ぐ。

 アカツキ隊機のオスプレイが、周囲に大量のフレアを撒き散らしながら上空を通過して行く。燃焼発光しているフレアが、一瞬戦場をオレンジ色に染めた。

     ◇

「距離 120! 」

 パイロットが叫んだ。危険な任務を潜り抜けて来た歴戦のパイロットでも、この作戦は無茶がありすぎると感じていた。グローブの中の掌は汗が噴き出している。コクピットはアラーム音が鳴り続けている。

 サーチライトで浮かび上がった建物が、ぐんぐん近づいてくる。そして建物のすぐ背後は、山だ。この機体はそこに向って突入している。

「稈を引け!」

 パイロットの耳に後藤の声が届いた。パイロットは後藤の言葉を最後まで聞かずに操縦稈を力の限り引いた。

 急激に機首を上に向けたオスプレイは、機体を軋ませながら急上昇に転じた。その寸前、ロープを腰に巻き付けた後藤は、機体後部の開けられたハッチから、背中から機外へとダイブした。

 キャビンの床を、蛇の様にのた打ち回りながらロープが伸びていく。後藤の身体は、嵐の空の中を地面に向って落ちて行った。ロープが伸びきり、ギギっと悲鳴を上げ1本の直線になった。同時に後藤の身体にもそのテンションが一気に掛かかる。

 オスプレイが急上昇に転じた時、落下のベクトルは寸時の静止後、前方へのベクトルへとダイナミックに変わった。

 今だ!

 あの獣性の嵐の中に、後藤は踏み込んだ。力が漲るのを感じる、同時に何処か遠くへ飛んで行きそうな自意識と、強い心臓の痛みを感じる。

 ドクン! 心臓が弾ける程の痛みだ。

 先生! 信じていますよ!

 月岡の『仕掛け』が再び作動した。

 消失しそうな意識は、荒れ狂う嵐の中でも保たれ、全身と心臓の痛みも無い。

 そして、漆黒の闇は消し飛びモノクロの世界になった。

 その刹那、時が止まる。後藤は左手に装着した浅尾から借りたデジタル時計のボタンを押した。デジタル表示のゼロがゆっくりと点滅した。

 無音の中、後藤はヘルメットのバイザーを上げた。バイザーにはヘルメットに装着されている全方位カメラで捉えた周囲の映像を処理して投影していたが、見かけ上超高速で移動しているため画像処理が間に合わず、真っ白なノイズだけが映し出されていた。

 後藤は意識を更に集中させた。眼前の空間が渦のように奇妙に歪んでいく。オスプレイの中でシミュレートした放物線の軌道が、空中にトンネル状になって出現する。

 後藤はその軌道を確認し、ロープを離した。

 時間がゆっくりと流れ始めた。後藤の身体は歪んだ空間に生み出されたトンネルの中を、人特研へ向かって飛んで行く。

 圧縮された濃密な大気が直接顔に当たる。身体にも足裏にもその感覚はある。だが中空を飛んでいく感覚は無い。後藤は、体を前に倒し透明な圧力を切り裂くように進む。視野は鮮明だった。雨粒のひとつひとつ、はっきりと見える。そしてその視線の先には、人特研の建物がはっきりと見えた。

 視界が拡大した。建物の外壁には無数の弾痕が刻み付けられている。後藤は建物の設計図面を再生した。各階の平面図と、立面図が鮮明に現れる。

 人特研の地上階は通常の建物に比べ、極端に窓が小さく、少ない。開口部が少ないだけあって、これだけの銃撃を受けながら外壁が崩落するような深刻なダメージはなかった。だが1か所だけ例外の場所があった。立面図によると1階ロビー階の東側は壁一面が全面ガラスになっている。空中にいるこの角度からでは、そのガラス壁がどの程度のダメージを受けているか分からないが、建物周辺に散乱している足場やシートの上に、キラキラと光るガラス片のようなものが見えた。そして建物から20メートル程離れた場所に、大型クレーンが2台止まっている。

 後藤は意識を落とし込む。立面図は消え、急速に屋上だけが拡大して見えてきた。

 瓦礫が散らばり、床の多くが崩落して黒い穴を見せている屋上が、グングンと近づいてくる。人影を確認する。1……2……。

 ふたりとも暗視装置を装着し、機関銃の銃口を空に向けている。時折その銃口から間延びしたマズルフラッシュが上がるが、当たる筈のない銃撃に、後藤は気にもしなかった。

 次に後藤は安全に着陸できる場所を探す。すぐにその場所は見つかった。

 だがその場所は、屋上の向こう端にあり、放物線を描いていて自由落下を続けている今の軌道では到達しない。このままでは手前の屋上ギリギリの場所に着陸する。その場所の床は崩落し、鉄筋がむき出しになっていた。

     ◆

「僕が先に建物に降りて、屋上付近の敵を排除します」

 バイザーで顔の半分は隠れていたが、後藤の荒唐無稽な提案にも浅尾の表情は動いてはいなかった。

「排除できれば屋上に隊員達を降下させられます。橋の対岸に降りた場合、辿り着くまでに建物から攻撃されます。建物までは遮蔽物が無い。悪天候の夜と言ってもかなり危険です。それに着陸場所や橋に爆発物が仕掛けられていたら、終わりです」

「敵を排除と言いましたが、その意味を分かっていますか? 」

「極力殺さないようにします」

 感情もなく即答した後藤に、浅尾は不気味さすら感じた。

「……建物に降りる方法は? 」

「オスプレイで建物にギリギリまで接近して離脱してください。その時、ロープを使ったスイングバイを利用して飛び移ります」

 少しの間を置いて浅尾が当然の質問をした。

「可能ですか? 」

「僕の計算では可能です。屋上付近の敵を排除したら照明弾でそれを報せます。その後建物に降りてきて僕と合流してください」

「ギリギリとは具体的な数字で言えますか? 」

「距離は100から120。高度は60まで降下。対地速度はこの速度を維持。出来ますよね? 」

 浅尾は軽く溜息を吐いた。

「それは私のセリフです。了解した。だが少し時間をください。パイロットと相談したい」

 後藤は頷いた。浅尾はハーネスを外しコクピットへ向かった。そして十秒も経たずに浅尾は帰って来た。

「死ぬ気かと怒鳴られました」

 苦笑しながら浅尾は言った。

「屋上階に佐村が居ないという保証は? 佐村が居た場合、接近するのも困難で最悪な場合撃墜される。あなたも危険だ」

「佐村はいません」

「断言できますか? 」

「雨の中で、じっと我慢して時を待つ人間じゃないです、奴は」

 バイザー越しに後藤と浅尾は視線を絡める。浅尾はふっと笑った。

「パイロットへ、スイングバイ作戦準備」

 浅尾が首を横に向けた。

「ロープを用意します。こちらへ」

 後藤はハーネスを外し立ち上がった。

「浅尾さん、頼みついでにあとふたつお願いします」

 後藤は浅尾の胸を指さした。

「麻酔薬、僕にもくれませんか。使用法は分かります」

 浅尾は胸ポケットに視線をやると、何も言わずパイプ注射を取り、差し出した。

「あとひとつは? 」

 浅尾が聞いて来た。後藤は次に浅尾の左手首を指さした。

「その腕時計、貸してくれますか? 」

     ◇

 後藤は胸を張り、背を反った。そして両膝を揃え持ち上げると、勢いよく下に向って伸ばし、足の裏で大気を蹴った。自由落下の物理法則を無視し、後藤の身体は、空中で一度上昇し、距離が変化した。グンっと伸びた放物線は、すぐに次の頂点に達し再び自由落下の線を描く。後藤は屋上へと落ちていった。

 後藤は目的の場所に滑り込みながら着陸した。膝を曲げて着地の衝撃を緩めたが、落下速度が加わった着地のスピードは減速されなかった。コンバットブーツの靴底が煙を上げ、屋上に黒い痕跡を長く残す。後藤は崩壊しかかっている屋上の塀ギリギリで止まった。遅れて空気を切り裂く音と、烈風が屋上を襲い、細かい瓦礫を巻き上げる。後藤のすぐ横にあった壊れかけの塀が、粉々になって吹き飛んだ。

 後藤は無意識に手を胸に置いた。心臓も、体の痛みも無い。大丈夫だ。

 後藤は再び動き出す。踵を返すと、空中で確認していた人影へと直進した。着地点から最短距離に居た男は、呆然として口を開けたままこっちを見ていた。スナップを効かして警棒を伸ばす。男の横を疾風の如く駆け抜ける際、そのまま伸びたシャフトで胴打ちを放った。男の身体は、くの字に折れ曲がり、そのまま空中で回転した。

 更に速度を上げ、別の男へ直進する。男は慌てて銃を向けようとしたが、遅かった。後藤は手首を返すと、今度は突きを放った。

 シャフトの先端が男の鳩尾に叩き込まれ、男は後方に吹き飛び壁に激突した。後藤はその横を駆け抜けると、そのまま階下へ続く階段がある小部屋の、ドアが壊れたままになっている出入り口へと飛び込んで行った。

     ◇

「来たな」

 濡れたスーツを脱ぎ捨て、タオルで白く透き通った肌を拭いていた葵が、淡い光を放っている天井を向いて呟いた。

「ここの場所、分かるわよね」

 天海は葵の背後に立ち、葵の髪の毛をブラシで梳いていた。

「さあな、来られなかったら俺の勝ち。来ても俺の勝ち、だ」

「それは良かったわね。じゃあ私は観客席で見物かしら」

「いやお前には別に動いてもらう」

「あら、あなたが勝つんじゃないの? 」

「アクティブ同士が殺し合うんだ。念には念を入れるさ」

 ◇

 階段を駆け下りた先は、広々とした部屋だった。建物の平面図が後藤の脳裏で再現される。長方形のこの建物は、壁に沿った廊下と、廊下に囲まれた部屋しかない。だが今は部屋の壁は取り払われて、部屋としての空間は無くなっていて数本の柱があるだけの広大なワンフロアになっていた。

 その広々としたモノクロの世界の中に、黒のコンバットスースに身を包み、暗視装置を装着した男が窓際でAK12を構えていた。床にはRPGが転がっている。男は後藤に気付いた。

 後藤は床を蹴った。

 瓦礫が散乱する床を駆け抜けた後藤は、男が銃口を向ける前に、シャフトで両腕を叩き折っていた。骨が砕ける音が聞こえるより先に、警棒は男の両膝を粉砕していた。悶絶し、気絶した男はドサリと廊下に倒れた。

 銃声が鳴り響く。後藤はすぐにその場を離れた。後藤が居た所に銃弾による火花が爆ぜた。動きながら銃声がした方向を見た。このフロアの奥からだった。続いて狂ったような乱射が始まる。後藤は発砲の位置を確認した。男がフロア奥にある柱に身を隠しながら発砲していた。

 距離約20。後藤は火線を避けながら他に隠れた兵がいないか、聴覚と視覚をフロア中に飛ばす。究極に先鋭化した聴神経は、可聴域を大きく超える周波数帯域まで聴き取る事が出来、パッシブソナーとなってフロアの隅々まで行き渡り、些細な音まで浚って瞬時に返って来る。微かな可視光を最大限に増幅し、暗闇の中でも昼間のように鮮明に周囲を視られるまでに高次元機能を獲得した網膜は、明るく視えるフロア全体を一瞬でサーチした。聴覚と視覚の情報は、ほぼ同時に超活性化した大脳皮質へ送りこまれ、記憶していた建物平面図と統合処理され3次元モデルとなった視覚情報としてフィードバックされた。フロア全体が俯瞰図で見えたのと同時に、視野の範囲外や柱の裏側、床に散乱する瓦礫のひとつひとつまでが鮮明に視えた。

 後藤の視野は全方位360度に広がり死角が無い状態になった。

 発砲している男以外に、このフロアに敵は居ない。

 後藤は速度を加速させた。フロアの中を大きく迂回しながら、その柱へ向かう。闇雲に乱射された銃弾が部屋のあらゆる場所にあたり、爆ぜて火花を散らす。数発の弾丸が跳弾して軌道を変え、後藤に向って飛んできた。

 後藤は意識を加速させた。歪んだ時空間が、更に大きく歪む。後藤が床を蹴る度に、次々とリノリウムのタイルが捲れていく。

 身体を左右に振り、止まって見える5・56ミリ弾を避ける。空間を切り裂いている弾丸の後を、円錐形の衝撃波が波紋になって尾を引いている。

 後藤は閃光の速度で男が隠れている柱に辿り着き、AK12を乱射している男の横に滑り込んだ。後藤は警棒を大上段に構え、敵の出現に反応出来ずにいる男に一気に振り下ろした。

 AK12は叩き折られ、男の右手首と左腕第二関節が切り飛ばされる。肉は削がれ、骨は砕け散った。両腕に加えられた破壊エネルギーは、血流にハイドロショックを発生させた。刹那超高圧となった血圧は血流を衝撃波に変え、あらゆる血管を通じて心臓を襲い破裂させた。男は何が起こったのか分からないまま即死。膝から崩れ落ち、そのままうつ伏せで床に倒れた。

 後藤はそこで初めて息を吐く。自我を獣性の暴風雨から、静かな台風の目の中に移るイメージをする。360度の視野は消え、やや薄暗いフロアが視えた。

 まだ心臓の痛みは無い。自我も明確に保たれている。そこで後藤はデジタル時計のボタンを押した。

『00:01:01』

 スイングバイからここまで掛かった時間を確認すると、タクティカルベストから信号拳銃を抜いた。左手で構え遠く離れている、ガラスが無い小さな窓に向って引き金を引く。シューっと火花を撒き散らしながら信号弾は一直線で飛んで行き、窓から外に出た瞬間爆発し眩い閃光を大量に放った。

 小さな窓から差し込んで来た太陽光を凌ぐ強烈な閃光が、伽藍洞のフロアを貫く。フロアは白い閃光と漆黒の影で二分された世界になった。

 後藤は、急速に陰り行く純白の光に照らし出された男を見下ろした。骨がむき出しになっている手首と関節から血がドクドクと流れだし、リノリウムの床に血だまりが広がり始めている。だが後藤は何の感情も湧かなかった。

 獣性に染まったタカチホブラッドに身を委ねた時の、あの破壊や殺戮に快感が満たされるような愉悦も、自分が人を殺めてしまった事への恐怖心や後悔の念も全く無かった。

 お互い命のやり取りをしている以上、生き残る以外の結果に意味は無い。床に転がっているのは、意味の無い結果だ。後藤の心は、冷酷といえるほど深々と冷えていた。

 いつしかフロアから純白の光は消え失せ、再び黒い闇が床に転がっている死体と後藤を覆いつくしていった。

     ◇

 上空でホバリングしていたオオワシ隊機のコクピットにある暗視装置モニタに、眩い閃光が走った。だが暗視装置を通じなくても信号弾の爆発的閃光は、戦場の天と地を昼間のように照らし、悪天候にも関わらず上空から肉眼ではっきりと確認出来た。

「D1からの信号弾確認。これより降下を始める」

 パイロットは報告すると操縦稈に手を掛けた。

「了解」

 キャビンの浅尾は呼応した。

「これより対象建物上部からの懸垂下降を行う。総員装備を最終確認しろ」

     ◇

 頭痛する程の激しいノイズが聞こえる。最初はどこか遠くの地平から聞こえていたが、段々と近づいてきて今では耳元でガンガンと鳴り響いている。そのノイズはやがて意味のある音へと変化した。言葉だ。大声ではないが、人の名を呼んでいる。だがすぐには音声と言葉の意味が繋がらない。頭の中を、奇妙に捻じ曲がった平仮名やアルファベットが大量に浮かんでは消えていく。

 その時、暗黒の底に沈んでいた宮島の意識が活動を再開した。

 宮島は目を開けた。だが見えたのは暗闇だった。本来ならバイザーには、暗視装置によって周囲の状況が映し出せている筈だ。撃墜の衝撃でヘルメットの電子デバイスが壊れたのか、それとも視神経をやられたのか判断できない。宮島は意識して何度も瞬きをした。確かに瞼の動きはある。しかし暗闇は変わらなかった。

 徐々に回復してくる意識と共に、息苦しさを強く感じた。何か重たいものが自分の身体に覆い被さっている。両腕を動かそうとしても、首から下が全く動かない。顎を上げ大きく息を吸い込む。だが圧迫された肺はそれ以上膨らむ事はなかった。返って口の中に溜まっていた唾と血の塊を誤飲してしまい、大きくむせた。

「宮島特務陸佐! 」

 はっきりと自分を呼ぶ大声がヘルメットの中のスピーカーを通じて聞こえた。宮島はそれに答えようと口を開くが、気道に入った異物で激しい咳が続き、声にならない。

 ギギギギと鈍い金属が軋む音がして、幾分胸の圧迫が軽くなった。宮島は首を横に振り気道に溜まっていた異物を吐き出す。辛うじて呼吸が出来るようになった。

「……ここだ! 」

 息も絶え絶えに出来るだけの大声を出した。口の中は血の味で満ちている。金属が擦れる音と共に、背中に小さく突き上げて来る振動が伝わってくる。

 腕を動かそうとするが、やはりまだ身体の自由が利かない。その時、ゴオォンと大きな音がすると「特務陸佐! 」と今度は直接声が聞こえた。首を動かし宮島は声のする方向を見たが、投影装置が壊れたバイザーは真っ暗だった。

 宮島の周りに多くの靴音がした。そして掛け声と共に宮島に覆い被さっていた重さが無くなった。肺が大きく膨らみ、貪るように空気を吸った。

「御無事ですか? 何処か怪我は」

 ハーネスを外された後、両側から背中に手を廻され、宮島は身体を引き起こされた。

「ヘルメットを……HUDが不調で見えない」

 宮島のヘルメットはすぐに外された。顔に冷たい滴が当たった。薄暗い中、視線に入って来たのは宮島の顔を覗きこむバイザーを上げた明石の顔だった。

 宮島は周囲に視線を走らせた。あやふやだった平衡感覚がどうにか正常になり、見当識が戻って来た。撃墜される前と同じくキャビン内の椅子に座っていた事が分かった。だが闇に慣れた夜目に見えてきたのは無残な光景だった。

 キャビン内部は大きく歪み、開口部ではない大きな穴が開いている。人が立っていられない程天井がひしゃげている場所もあった。その中を数名の隊員達が動き回っていた。向かいの内壁は、所々紙を引き裂いたかのように千切られていて、対面に座っていた隊員達の姿も見えない。視線を横にやるとコクピットがあった場所は完全に潰れていて、引き裂かれた天井からダラリと数本のケーブルが垂れていた。

 視線を落とすと、千切れた鉄板が散乱する床に、仰向けに寝かされている隊員が見えた。櫛田だった。状況から自分に覆い被さっていたのは彼だと分かり、そして既に息絶えているという事も分かった。恐らく墜落の時に自分を庇ったのだろう。

 宮島はもう一度キャビンを見回した。ふたりの隊員が、ひとりの隊員の両脇と両足を担ぎ持ち、キャビンに開いた大きな穴から外に出て行くのが見えた。担がれた隊員のヘルメットは脱げ落ちていて、露わになった顔色は夜目でも分かる程青白かった。

「……損害は? 」

「オオワシ隊死亡1、スメラギ隊死亡5、重篤2、不明4、です」

 ――戦力半減。オスプレイ2機も失われ、戦術が大きく狂った。

 宮島は天を仰いだ。

「お怪我は? 」

 集中力を失った宮島は、明石の声に無意識に反応して両手の指を動かした。痛み無く全ての指は動いた。腕に多少の痺れは残っているが、たいした事はない。次に自由になった両膝を曲げようとした。突き刺す痛みが左足首を襲い苦悶の表情になる。

「どこですか? 応急処置を」

 ……違う。そんな事をしている時間はない。痛覚が宮島に冷静さを取り戻させた。

「状況を報告。私の事は構うな」

 明石の言葉を遮った。

「……約5分前にアカツキ隊が対象建物へ突入。現在対象勢力と交戦中と思われます」

「アカツキ隊……対象建物に取り着いたのか」

「アカツキ隊機のパイロットに確認しました。同行していたD1による強襲が成功。その後、アカツキ隊が建物に降下したとの事です」

 D1……後藤…… アクティブになったのか?

 宮島は息を呑んだ。想像以上に氷のように冷えた外気が肺になだれこんで来る。宮島に集中力が戻り、思考が回り始めた。

 アカツキ隊と交信を、と言葉にしかけて宮島は建物の特殊構造を思い出した。ある程度建物に近づかない限り交信は出来ない。宮島は左足首の痛みを堪え立ち上がった。

「隊を再編し直ちに対象建物へ向かう。最優先だ! 」

 宮島は声を張った。

     ◇

 サプレッサーで低減された銃声が四方から静かに鳴る。同時に暗闇の中、男が倒れた。

「排除完了。1階クリア」

 吹き抜ける風の音が低く響く1階ロビーの闇や柱の影に溶け込んでいた隊員たちが姿を現した。隊員は中腰になって等間隔の円形に広がり、周囲にMP5短機関銃の銃口を向けながらフロアの中を進んで行く。後藤は浅尾と共に最前列に居た。

 後藤のバイザーに映し出されている空間は、部屋の壁を取り払われた他のフロアと違い、高い天井と大理石の床、受付台や長椅子や机があり、一般企業の受付口があるフロア階と変わらぬ印象だった。

 だがその大理石の床にはコンクリートの瓦礫や無数のガラス片と共に3人の死体が転がり、受付台や椅子には無数の弾痕が刻まれ、更に東側にあった天井まで嵌め込まれていた巨大なガラス壁はオスプレイからの銃撃によって完全に破壊されていて、巨大な開口部となっていた。フロアを吹き抜ける風はここから侵入していた。

 その中を、殺気を闇で包んだ集団が、流砂のように滑らかに広がりながら進んで行く。

 フロア中央まで来た時、不意にホワイトノイズがヘルメットの中に走った。先頭に居た浅尾がハンドサインで『止まれ』を発した。全員の足が止まる。

『アカツキ隊、状況を報告』ノイズ交じりに宮島の声が聞こえて来た。

「浅尾です。現在対象建物1階まで制圧。対象人物との接触はなし」

『スメラギ隊は対象建物まで約50メートルまで接近。我が隊との合流まで待機』

「了解、現状で待機するが4名を別動隊として外に出します。留意してください」

『了解した。D1、後藤君はいるか。話がしたい』

 浅尾は後藤を見た。後藤は頷く。

「後藤です、無事でしたか」

『幸運にも生きています。合流したらお話ししたいことがあります』

「はい、僕からもあります。恐らく同じ事だと思います」

 ため息のような音が聞こえた。

『何とも言えない気持ちですわ。では後程』通信が終わるノイズがした。

 後藤は手を上げた。それを見た浅尾は頷いた。

「大谷、松山。クレーンへ。稼働を確認し待機しろ。増井、野村、護衛に付け」

     ◇

 コンコンとノックの音が聞こえた。ベッドで書類を読んでいた木田は枕元のチェストに書類を置き、腕時計を見た。約束の時間通りの来訪だった。木田はベッドから出てパジャマの上にカーディガンを羽織ると、ドアへと向かった。

 ドアを開けると、そこにはスーツ姿の男が立っていた。

「初めまして、お電話差し上げた月岡と申します。夜分に押し掛けまして申し訳ありません」

 月岡は頭を下げた。

「構わんよ、時間を指定したのは私だ。まあ入りたまえ」

「失礼します」

 木田は応接ソファに木田を招いた。木田が先に座り、続いて月岡が座った。

「秘書も職員も帰ってしまったから、お茶のひとつも出せんが」

「お気使いなく」

 表情も変えず月岡は言った。

 木田は月岡の顔を見た。緊張した面持ちでもなく、表情からは心の動きは見て取れない。木田は電話口で感じた通りの男だと思った。

「改めまして。創恵大附属病院で内科医をしています月岡と言います」

「君の名前は覚えがあるよ。たしかCHF初期のベータ遮断薬に関しての論文だったと思うが、中々ユニークで刺激的な考察だったね」

「恐縮です」

 やはり月岡の表情に変化はなく落ち着いている。

 数日前、木田は小野寺葵の秘密を禿頭の刑事に詰問された。シラを切るつもりだったが、秋臣の証言を突きつけられ木田は観念し、その事実を認めた。木田は何故警察が今更葵嬢の心臓移植や、TBである事を隠蔽している事を聞きに来たのか、理解出来なかった。秋臣に連絡を取ろうともしたが、自分と同じく墓場まで持っていく葵嬢の秘密を秋臣自身が話した事に、何か重大な事が起きたと察し自重した。悶々とした時間を送っていた所、昨日月岡から電話があり、菱形と葵嬢の名前を出され相談したい事があると言われた。

 木田は最初躊躇したが、逆に月岡から何か事情が聴き出せるかもしれないと思い、総合病院の診療時間終了後に直接自分の居る屋上階に来てくれと伝えた。

「さて、医師の君が来たという事は心臓移植手術の内容に関してだろう。それには出来るだけ正確には答えるが、何故警察はその事を知りたがっているのかね? 」

「確かに心臓移植手術の事を尋ねに来ました。しかし今日私が来たのは、警察とは関係ありません」

 意外な月岡の返事に木田は驚いた。

「警察と関係ない? では……君は……どうして葵嬢の事を知っている」

「申し遅れた事と誤解を与えた事はお詫びします。ですが私は、私の友人と一緒に警察と協力して小野寺葵さんを救おうとしているひとりです」

 無表情のまま淡々と月岡は話した。

「今はまだ詳細な事は言えませんが、私が伝えられる範囲で言える事は、我々の想像を超える出来事が我々の知らない場所で起こっています。アクティブになったタカチホブラッドがどのような現象を引き起こすのか、我々は何も分かっていないのです」

 木田は目を見張った。

「葵ちゃ……彼女のTBが活性化したのか? 」

 月岡は黙って頷いた。

「今アクティブになった彼女を、私の友人と警察は救おうと懸命に努力しています。私も医師として、今やれる事をしています」

「……まさか、佐村の心臓がそれを引き起こしたのか? 」

「現段階ではその可能性が高いです」

 木田は目を閉じて天を仰ぎ、腕を組んだ。そしてここ数日の自分の周りで起きた不可解な出来事の理由を理解した。

 幼い頃の葵の天使のような笑顔が脳裏に浮かぶ。

「私は、なんと馬鹿な事を……」

 木田は思わず自らを責める言葉を呟いた。月岡はそれに応えるかのように静かに、だが凛とした声で言った。

「先生は最善を尽くしました。心臓移植でしか救えない命なら、その移植手術に罪はありません。ですがもし後悔なされているのであれば今は葵さんを救うためにご協力ください」

 木田は目を開け正面を見た。月岡はまっすぐ木田を見ていた。

「分かった……何でも聞きなさい。なにが知りたい? 」

「ありがとうございます」

 月岡が下げた頭を戻した時、初めて月岡の表情に変化があった。月岡は息を吸った。

「単刀直入に聞きます。今、小野寺葵の心臓は何処にありますか? 」

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