11・アブダクション

 1・『拉致』

 ジリリと焼ける痛みが左脇腹に走る。我慢できない痛みではないが、無視できる程の痛みでもない。そんな境界線ギリギリの苦痛が却って不快感を増大させていた。これが身動きできなくなる程の激痛なら大人しく病院のベッドで安静できるのにと思ったが、それはそれで苦痛な筈だから現状の体調がまだましだ、となるべく前向きな考え方でいようと思いながら、後藤はここ数日を過ごしていた。

 後藤は人通りの途絶えた住宅街の寂しい雨降る夜道を独り歩いていた。講師をしている塾の夏期講習の夜の部を受け持つようになり、いつも帰宅時間は日付が変わる直前だった。後藤の住んでいる街は坂道が多い。高低差の激しい坂道を数回上り下りしてようやく住んでいるアパートの近くまで辿り着いた。毎日の事なので慣れてはいたが、自転車に乘れない今、駅からアパートまでは歩きになり、時間は普段より掛かるようになった。そして何より夜になって降り出した生暖かい雨が足取りを重くしている。汗が額ににじむ。不安定な気圧配置で急な天気の崩れがあるとニュースでやっていたが、確かに雨粒は何時もより大きく、傘に当たる音も普段より大きく聞こえる。坂を上りきり、アパートまで次の辻を曲がればすぐの所で足を止め、後藤は大きく息を吐いた。

「後藤さん」

 背後からの男の声に後藤は驚いた。声はすぐ近くに聞こえる。今までそこには人の気配は無かった。驚いて振り返ると暗闇の中、黒い影が懐に潜り込んできた。同時に鳩尾に衝撃が走る。息が止まり、意識が飛ぶ。

 崩れ落ちていく後藤の体を、黒い影が肩で支えた。辻の影から音も無く黒塗りのワンボックスカーが現れ、静かにスライドドアが開くと、後藤と黒い人物が室内灯も点いていない車内へ溶け込むように消えていった。

 雨降る暗い路上に、傘だけが残された。

     ◇

『D1、移動を確認。時速約60。車両での移動と推定。行動確認表に事前報告無し』

『D1の現在位置は』

『都内を関越方面に向け移動中』

『緊急緊急。通信キャリアの電波途絶。繰り返す。通信キャリアの電波途絶。D1信号ロスト。指示を請う』

『緊急確認。現時点よりフェーズ2へ移行。同時にD1ビーコンをMSPに変更』

『了解。フェーズ2に移行確認。D1ビーコン、MSPに変更確認』

『各隊、即応体制で待機』

『了解』

「MSPとNシステム、シンクロ急いで」

「やってるだろ、見てわかんねぇのか」

「それと関越方面にある『ラボ』関連施設と過去佐村に関係した人物が居る可能性がある場所のピックアップ。的を絞って。市ヶ谷のデータベースにも照合を」

「同時にあれこれ言うんじゃねぇクソアマ! どんだけ条件付ける気だ! 」

「それくらいは出来るでしょ、ブラフマン」

「うるせぇビッチビッチビッチ! 」

     ◇

 後藤は柔らかい光が降り注いでいるのを閉じた瞼で感じていた。ゆっくりと目を開く。網膜を刺激しない不思議な光が見えた。仰向けになって見える白い天井から、その光が降っていた。後藤は体を起こし周りを見渡した。見覚えのある光景がそこにあった。そしてここは現実の世界でもない事を、後藤はよく理解していた。

 ――白い部屋

 3年前から夢の中に良く出てくる空間に、後藤はまた戻ってきた。左脇腹の厭らしい痛みも、鳩尾へ打ち込まれた痛みも、ここでは感じなかった。大きく息を吸い、心を落ち着かせゆっくり立ち上がる。

 全く慌てていない自分に、後藤自身が驚いていた。

 か細い音が聞こえる。耳を澄ませばそれが泣き声に聞こえた。その方向に視線をやる。白いワンピースを着た少女が、顔を両手で覆い立ったまま泣いていた。長い漆黒の黒髪が白い空間の中で鮮やかに映え、そして微かに揺れている。真っ白な空間では少女までの距離までがぼやけているが、その少女はこの部屋の中央に居ると後藤は思った。後藤は少女の所へ歩んでいった。声を掛けられる距離まで近づいた。

「小野寺葵さん、ですね」

 後藤は少女の事を知っていた。びくっと少女の肩が動く。そしてゆっくりと顔を上げた。愛らしい大きな瞳に涙が溢れていた。

「あなたは……あなたも、私の夢の中の人なのですか……」

 後藤は悟った。葵は佐村とこの空間で会っている。後藤は首を振った。

「いえ、私は後藤と言います」

「……後藤さん? 」

「あなたを助けに来ました」

 葵は目を見開いた。葵の両手が、後藤の白いワイシャツの胸辺りを掴む。

「教えてください。これは夢なのですか? 現実ですか? それに……私は人を……傷つけてしまっているのですか」

 葵の表情は必死だった。

「今答える事はできません。でもあなたは自分の意思で他人を傷つけてはいません」

 葵は後藤の顔を泣きそうな表情で暫く見た後、うな垂れた。

「でも私は多くの人に危害を加える光景を、何度も何度も見ました。どんなに叫んでも、駄目だって思っても体が言う事聞かなくて。あれが現実なのですか? 」

 葵の手に力が入る。後藤は、あの漆黒の絶望と恐怖は小野寺葵の叫びだと、痛いほど分かった。

 後藤は葵の手の上に自分の手を重ね、そして優しく握った。

「大丈夫です。あなたは何も悪い事をしていません。だから安心してください」

 嗚咽が聞こえた。葵は後藤を掴んでいた手を離すと、また両手を覆って泣き始めた。細い肩が揺れている。後藤は葵をそっと抱きしめた。か細い葵の冷えた体温を感じる。

 ――辛かったね。

 後藤は精神の監獄に閉じ込められ、残虐な行為を疑似体験させられている葵に、憐憫の情を禁じえなかった。そしてこの状況を作り出した佐村に、激しく強く燃え上がるような憎悪を抱いた。

「僕の葵ちゃんから離れてくれるかな? 」

 男の声が背後から聞こえた。葵の体が強張ったのが分かる。後藤はゆっくりと振り向き、葵を自分の背中に隠した。

 白髪の男が白い服を着て斜めに構えて立っていた。うっすらと笑みを浮かべた顔は、恐ろしいほど美しかった。

「佐村了、か」

 佐村は答えず、じっと後藤を見ていた。

「JETの前であった事あるね、後藤奏斗君」

 後藤も答えず佐村を睨み返した。

「変だと思ったんだ。俺が人に優しくするってさ。でもこの部屋に入って来られるって事は君もアクティブになったのかな」

 佐村は、くくくと堪えた笑声を出した。

「でもまだ分からないなぁ。それだけでこの部屋に入れるとは思えないんだけど」

 次の瞬間佐村の姿が消えた。後藤が瞬きするよりも早く、佐村の顔が後藤の目の前にあった。佐村と後藤は、ほぼ同じ背丈だった。

「あぁ分かったよ。俺の左目、移植したな」

 佐村は笑いながら後藤の顔面を嘗め回すように首を左右に捻り、覗きこんで来た。

「君にして良かった。最高の素体が手に入ったよ」

「だったらどうする? 」

 後藤は佐村から目を逸らさず臆せず冷静に言った。佐村は眉間に皺を寄せるとまた消え、元居た場所に立ち戻っていた。

「さっき妙な事を言っていたね。助けに来た、と。とても妙で不可思議な言葉だ。君は最初から小野寺葵や僕の事を知っていたね。それに妙に落ち着いている。まるで自分がこういう目に会うって知っていたようだ」

 後藤は、表情ひとつ変えず佐村を睨んでいた。

「そっちにも切れる奴がいるみたいだな」

 佐村は、凍えそうな冷酷な笑みを浮かべた。

     ◇

 後藤の体が大きく揺れる。後藤はぼんやりと意識を取り戻した。吐き気と同時に口の中に鉄の酸味が広がる。両手は後ろに廻され両親指が束縛されている強い痛みを感じた。ガタガタと体が揺れる。薄目を開けると薄暗い中で猿轡をされている自分が居た。口からはだらしなくヨダレが垂れている。走行中の車内に居ると後藤は思った。喉の渇きに耐え兼ね無意識に唾を飲み込もうとする。だが溜まっていた唾が気道に入ってしまい、思わず、えずく。

「おい、起きたぞ。目隠ししろ」

 男の声が反響して聞こえた。舌打ちが聞こえ目の前が真っ暗になった。頭から袋を被せられ、再び景色がブラックアウトすると首の周りを紐で縛られた。

「もう少し寝てろ」

 ドンっとまた鳩尾に強打を食らった。見えない状態で突然の打撃になすすべなく、後藤の意識はまた遥か彼方へ飛ぼうとしていた。後藤は薄れ行く意識の中で、菱形達との会話が走馬灯の様に流れた。

     ◆

 月岡の部屋に後藤を含め4名が集まっていた。前日、菱形から重要な相談事があると連絡を受け、月岡が勤めている病院で会う事になった。連絡をしてきた菱形の声は重かった。

 月岡の部屋には見知らぬ女性がいた。宮島と名乗った女性は魅力的な笑顔で、あなたが後藤君ね、といきなり手を握られた。戸惑っている後藤をよそに宮島はよろしくと更に強く握ってきた。

 菱形は腕を組み、憮然とした表情で椅子に座っている。月岡も難しい表情で手元を見ていて、後藤と目を一瞬合わせただけだった。後藤も椅子に座り、誰かが話し始めるのを待った。最初に口を開いたのは菱形だった。

「後藤君、今から話す事はとても大切な事だから、心して聞いてほしい」

 菱形の目は真剣だった。後藤は昨日の菱形の口調から、ある程度覚悟はしていたので、躊躇なく頷いた。

「最初から話すと長くなりますが、後藤さんの協力が是非必要になりますので私から説明させて頂きます。その前に、これから先の話は他言無用の極秘事項である事をお忘れなきようお願いします。ですがそれを話すと言う事は、我々が後藤さん達を信頼信用している証だとお考えください」

 宮島が柔和な声と表情で菱形の後を継いだ。宮島だけがこの部屋の中で明るく振る舞っているように感じた。

「ではまずこれまでの経緯を話させていただきます」

 宮島は立て板に水の様に澱みなく話を繰り出していった。話は『JET』爆破以降の話から始まった。

 後藤は驚きの事実に、動揺を隠せなかった。

 小野寺葵と言う少女が『JET』で会った少女であり、イノセン社襲撃事件の犯人である事。そして菱形達がその存在に気付いた時には、葵のボディガードと共に行方をくらまして未だ見つかっていない事。そして小野寺葵は、木田と言う医師により佐村の心臓移植を受け、そして佐村に人格を乗っ取られた……

 奇想天外な展開と話しに、後藤は呆然とするしかなかった。

「後藤さんにとっては衝撃的な事かも知れませんが、後に述べる事に関わってきますので先にお話しします」

 宮島は言葉を切って改めて後藤に向きなおした。

「何故後藤さんが佐村の殺害現場を見る事が出来たのか、お判りになりますか? 」

 まさかと自然と息を呑む。宮島の言っている事が本当なら、佐村の臓器移植を受けた人間が、佐村に乗っ取られた。

 臓器移植……

 献体……

 タカチホブラッドの保有者……

「聡明な方ですね。そうです、あなたが3年前移植した左目は、佐村の献体から取り出した左眼球です」

 後藤は、左目が疼いた気がした。

「書類上は交通事故死した60代のタカチホブラッドを持った女性からとなっていますが、それは偽造でした。月岡先生にご協力頂き、当時のカルテや献体先を照合致しましたが、そのような事故や女性は存在しませんでした」

 後藤は思わず月岡を見た。月岡は小さく頷いていた。

「執刀医の奥山先生は、木田先生と同じ医大出身だ。恐らく木田先生が秘密裏に奥山先生に佐村の眼球を廻したんだと思う。アイバンクでもTB保有者の献体は貴重だからね。木田先生がそれに気づかない筈はない。でも奥山先生は何も知らない様子だったよ」

「海外や日本でも、臓器移植を受けた人がドナーの方の生前の記憶が甦ったり、癖や趣向が宿ったりする事例が多々あります。それに加え、タカチホブラッドは常識を遥かに超えた未知の存在です。タカチホブラッドを持つ人間同士の臓器移植が原因で人格転移が起きても不思議ではありません。そして後藤さんの身に起きたテレパシーのような現象も充分に考えられます。そしてそれは現実に起きました」

 宮島の説明に菱形は聴こえる様に舌打ちをして、あらぬ方向を見た。

「そしてここからが後藤さんにとって重要な話になります」

 宮島の口のトーンが変わった。

「佐村は、正確には佐村達は、後藤さんに接触してきます。恐らくあなたを拉致誘拐するでしょう」

 唐突な話に後藤は戸惑った。何故と聞き返す前に、宮島が答えた。

「あなたの血液型が佐村と同一だからです。ですから目の移植手術が可能でした。タカチホブラッドの持ち主の中でも、佐村と同一のRh-型はあなたを含め2名しかいない。勿論小野寺葵もその血液型ですがカウントはしていません。残りのひとりは現在寝たきりの86歳の女性です。つまりあなたしか若い肉体を持った適合者が残っていないのです」

 後藤は、体温が一気に下がるが分かった。表情も強張る。それを見て宮島は微笑んだ。

「本当に聡明な方で助かりますわ。お考えの通りです。佐村は将来小野寺葵の体を捨てる事を見越して、若いあなたの体をスペアとして欲する筈です」

 人の体をスペア? 頭が真っ白になった。そんな狂気の沙汰を考える人間がいるのか? そしてそれを何の閊えも無く、微笑みながら話す宮島にも、後藤は恐怖を感じた。宮島は続けた。

「小野寺葵の体でその事は証明されました。次に狙われるのはあなたです。我々はそれを逆手に取ります。佐村達があなたに接触した機会を利用して奴等のアジトを特定しそれを抑える。今日後藤さんをお呼びしたのはそれに協力していただくためです」

 おい、と菱形が割って入った。

「話を飛ばすんじゃねぇ。後藤君の意思確認が最優先だ。後藤君はまだ理解をしていないだろうが」

「警部、結果は同じです。我々が何もしなければ後藤さんが拉致された時、最悪な事態になります」

「だから後藤君の意思が最優先されるんだろうが。これじゃ強制だ」

「では警部は他にお考えがあるのですか。佐村は完全に姿を消しました。更に地下に潜ってしまえば見つける事は相当困難になります。それに彼はもうひとりじゃない。強力なバックアップも付いている。海外に渡ってしまえば我々の手の届かない所へ行ってしまう。これが最後のチャンスなんです。昨日何度も話し合いをしたのお忘れですか」

 菱形は宮島を刺すように睨み、口を閉ざした。重い沈黙が部屋に満ちた。

「囮になれって……事ですね」

「我々が全面的にあなたの安全を保証します。後藤さんに生命の危機が及ぶ事は絶対にないよう、全力でお守りいたします」

 宮島の笑みは消え、真剣な眼差しになっていた。

「……分かりました。協力します」

「後藤君、即答しなくても良い。時間を掛けて考えるんだ」

 菱形が言った。月岡も顔を上げ後藤の目を見ていた。

「僕の事を考えてくれてありがとうございます。でも話を聞いてください。これは僕からのお願いでもあります」

 後藤は息を長めに吐くと、話し始めた。

 甘美な殺意と深い絶望。佐村が殺人を行う度にシンクロしてしまう自分の心と身体を蝕む激烈な辛苦を、後藤は同じ言葉を何度も繰り返し切実に訴えた。

「だからこれは僕のためでもあるんです。絶望だけならまだいい、佐村を止めない限り人殺しの瞬間を目撃するだけじゃなくて、僕はもう人を殺した感覚を知ってしまった。僕自身が次の佐村になるかも知れないんです。それだけは絶対に避けたい。そうならない為なら……何でもやります」

 後藤の言葉は必死さが込められていた。しばらく沈黙が続き、菱形が先に口を開いた。

「分かった。俺も約束する、決して死なせやしない。君の命は俺達が守る」

「よろしくお願いします」

 その時、月岡が手を上げた。

「僕の発言もいいですか? 僕にもこの話を聞かせているって事は、関係者と考えていいですよね」

「無論ですわ」

 月岡は椅子に座り直し、軽く背筋を伸ばして口を開いた。

「では今の話しでふたつ疑問があります。まず小野寺葵が一連の事件の犯人だと言う確固たる証拠があるんですか。今までの話を聞いていても状況証拠でしかない」

「それはこの場ではお答えできませんが、小野寺葵でしか犯行を行えなかった事は事実です」

 月岡は菱形を見た。菱形は目を閉じて一度だけ頷いた。

「分かりました。では小野寺葵を佐村として逮捕する、と考えていいですか? 」

 宮島は小さく頷いた。

「その後どうするつもりですか? 」

「適正に対処致します」

 役人や政治家のような、お決まりのセリフだった。

「それは法の裁きを受けさせる、と考えてもいいですか」

「日本は法治国家です、適正とはそういう意味と捉えてください」

 けっ、と悪態をつき菱形が横を向く。

「相手が二重人格と仮定して、しかも未成年です。それが可能ですか」

「現行の少年法では14歳以上であって重大事犯に関わっていれば成人と同じ刑事罰対象になります。確かに二重人格者しての責任能力の有無は立件の争点になると思われますが、被害拡大を防ぐためには小野寺葵の身柄確保は最優先です」

「率直な意見を述べても」

「もちろん」

「裁判になった場合、佐村では無く小野寺葵を殺人犯として裁判にかける。それがあなた方の方針ですね」

 宮島は答えず片えくぼで微笑んだ。

「裁判官が心臓移植での人格転移を認める可能性は低い。ならばその事を最初から争点にしない方が合理的です。そもそも、佐村の心臓移植を公に出来ない理由があるんじゃないですか」

 後藤は顔を上げた。宮島は両えくぼで微笑んでいた。

「献体の身元が秘密なのは仕方のない事ですが、後藤君の移植手術の書類が偽造されていたのは明らかに異常です。佐村ではなく佐村が献体した事自体が表に出せない事情があるんじゃないですか」

「聡明で理知的な方が多くて素晴らしいですわ」

 菱形は宮島を睨んだが、宮島は気にも留めなかった。

「お察しの通りです。佐村の臓器移植に関しては絶対に公に出来ません。仰る通り法的にも臓器提供者の個人情報は保護されています。ですが情報公開の可否が重要な点ではない事はお分かりですわよね。先ほども申しましたが、佐村を再びこの世に野放しにしない。それが最大の目的です」

 月岡は腕を組んだ。

「小野寺葵のタカチホブラッドも公にしないと言う事ですか」

「それこそ合理的判断ですわ」

「ではもうひとつ。後藤君を囮にと言いますが、これは佐村側から接触してくる事が大前提です。これには確証があるのですか? 」

「ええ」

 宮島は微笑みながら肯定した。

「しかしまだ科学的裏付けが無いので確実では無い、と言うのが本当の所です。ですが私は確信を持っています。佐村は絶対に後藤君に接触してきます」

 宮島の言葉に、初めて感情が入った。

 月岡は何かを言いかけて止まった。暫く考えた後に、わかりました、とだけ告げた。宮島は周りを見渡し、満足したのか頷いた。

「ではこれから私達の作戦をお伝えいたします」

     ◆

 菱形達が帰った後、月岡の部屋に後藤は残った。後藤としても月岡と話したい気持ちだった。宮島は去り際に極秘ではあるが現在後藤には監視がついていると言った。だがあくまでも監視で、明後日の『手術』までは独りきりの行動を控えてくれと、念を押された。

「何か飲むかい? 麦茶くらいしかないけど」

「いただきます」

 コップに冷えた麦茶が注がれ、ふたりはそれを一気に飲んだ。月岡達は、喉が渇いていた事すら気づかずにいた。

 静かになった部屋で、月岡は机の上に置かれていた書類を手に取り、無言で紙を捲っていた。それは宮島が手渡した書類だった。

「あの、明後日の『手術』ってどんな感じになるんですか」

「宮島さんの話だけで判断すると、皮下までの切開でいいからそう時間の掛かるもんじゃないよ。問題は大きさだよね。話の流れで僕が執刀する事になったけどさ、何せ初めてだから僕もわからないよ」

 月岡は書類を机に戻した。

「わかんないって」

 後藤の不安が膨らんだ。

「だから大きさなんだよ。ペットに埋め込むICタグ程度なら何でもないんだけど、ビーコンやら軍事用の何とかって言っていたでしょ。正直なんとも言えないよね」

「宮島さんが置いて行ったその書類に何か書いていないんですか? 」

「え? これ? 」

 月岡は書類を改め見た。

「これは警察の内部資料だよ。かなりの部外秘だけど、彼女なりの僕への信頼の証だね」

 そう言って月岡は書類を後藤に渡した。後藤はそれを一瞥した。最初の頁の上段は細かい文字がぎっしりと埋まっていて、下段には2枚の顔写真があった。1枚は後藤本人で、1枚は制服を着た女の子だった。

 ―この子が小野寺葵

 まだ幼さが残っているが目鼻立ちが整っていて、写真からも清楚な雰囲気が伝わって来る。JETの前で会った時と同じ感覚を後藤は感じた。頁を捲ると次は人工呼吸器を付けられ目を閉じて眠っている老人の写真があった。『小倉香苗:適合者』と写真の下にある。

 後藤はやるせない気持ちでその写真から目を逸らした。

「正直同情はしているよ。まさに囮になるんだからね。ただ今は不正確な事を言う時じゃない。君の命に関わる事だから上っ面だけの安心を与えても意味はないよ」

「……ありがとうございます」

 書類を机に戻し、後藤は頭を下げた。

「でもあまり心配しないでいいよ。こう見えても僕、手先は器用だからさ」

「そういった事を聞きたかったんですよ」

「え? 僕の腕前を心配していたの? 」

 後藤は思わず噴出しそうになった。月岡流のジョークかと思ったが、月岡の表情に笑みは無かった。少しだけ場が和んだ。

「さっき……何か言いかけて止まりましたよね。あれ、何言おうとしていたんですか」

 月岡は珍しく困った様な表情を浮かべた。んんっ、と唸るのも珍しい事だった。

「まあさっき言った事と矛盾するんだけど、不正確な事を言おうとしたんだよ」

「……不正確? 」

「もうあの人達が居なくなったから言うけど、多分宮島さんは佐村を裁判に掛けるつもりは無いと思う。それを聞きたかった。だけど聞くだけ無駄だと思って止めた」

 後藤の表情がまた曇る。それは後藤も感じていた事だ。

 同じ警察でも菱形と宮島は明らかに違う。宮島は国家権力そのものだ。そしてそれは佐村の圧倒的暴力に対抗でき、ねじ伏せる事が出来る力だ。その強大な力でのみ佐村と佐村が引き起こす惨事を止められる唯一の手段だ。

 だがその後はどうなる?

 捕えた14歳の女子中学生の姿を見て、彼女が連続殺人犯でしかも心臓移植により佐村の人格が乗り移ったと、誰が信じるだろうか。月岡が言ったように、臓器移植による人格転移なんて証明できない。小野寺葵の身柄を確保しても検察は起訴すらしないだろう。

 再び小野寺葵の姿をした佐村が、社会に放たれることになる。

 ならば佐村の暴走を止める方法は限られてくる。

 超法規的措置で人知れず永遠に監禁するか、命を奪うか。葵と佐村が同一である限り、それは避けられない。それは同時に小野寺葵の抹殺を意味する。

 だが国家権力がそれを望むなら、それも現実味を帯びて来る。

「人外の戦争に巻き込まれてしまったね、僕たちは」

 月岡は力なく言った。

 そうだ、自分達は戦争に巻き込まれてしまった。これは国家と佐村の戦争だ。戦争という巨大な暴力の前では、法律も人権も個人の感情も、そんなものは何の意味も持たない。

 それは縁もゆかりもない少女に起きた、もしくは起きようとしている、あまりにも理不尽で過酷な出来事じゃない。その状況は自分にも起こり得る。自分が哀れな少女の立場になるだけではなく、もしかしたら自分が佐村になる可能性すらある。その時、国家はその強力な力と刃を躊躇無く自分に向けるだろう。

「全く、そのとおりですよ」

「意外だね」

 後藤は、意外と言った月岡の言葉の意味が分からず、首を傾げた。

「てっきり僕は君が弱音を吐くと思ったし、それこそ逃げるかと思ったよ」

 ああ、と後藤は呟いた。

「正直怖いですよ。でもさっきも言いましたけど、もうウンザリなんです、あんな気持ちになるの。こちらの都合もお構いなしにいきなり殺人犯とシンクロするんですよ、逃げられるなら逃げたいし、左目を取り出して済むならならそうします。でもそうはいかないでしょ、僕は一生タカチホブラッドなんですから」

 逃げても状況は変わらないし、意味も無い。それは後藤の本心だった。

「アクティブを経験すると性格が変わるみたいだね」

 思いも寄らない突然の月岡の言葉に、後藤は暫し絶句した。

「……知っていたんですか」

「実は最近の君のTB因子を検査した。それに関して君の了承も得ずにやった事を謝る。本当に申し訳なかった」

 月岡は深々と頭を下げた。

 だが後藤はそれを咎める事も無く、唖然としたまま「いつですか? 」と聞いた。

「君が3度目に運び込まれた時と、例の爆発事件の時だよ。その時の点滴の針に付いていた血液や、治療の時に包帯に染み込んだ血を検査した」

 後藤は思い出した。確かに点滴の針を、月岡は白衣のポケットに仕舞った。

「簡易検査ではインアクティブだったけど精密検査したらほんの僅かだが、TB因子にアクティブになった形跡があった。最初は信じられなかったけど、爆発事件の時に確信したよ。心電図の解析結果からしても爆発事件の前後、瞬間的にだが君はアクティブになっていた筈だ。違うかい? 」

「さすが、ですね」

 本当に抜け目ない人だと、後藤は今さながら驚嘆した。

「それ程でもないよ、考えれば分かる。恐らく宮島さんも薄々気づいている。それより僕が恐れているのは、万が一作戦中に君が危険に陥った時だ。その時君に何が起こるか、タカチホブラッドがどういった反応をするのか、全く予測不能だ」

「確かにそうですけど、佐村が何をしでかすか分からない状況では、宮島さんの作戦しかないと思います。佐村が動かなかったらそれでいいし、それに作戦中僕は警察に警護されているんです。どっちに転んでも万全じゃないですか」

 後藤は月岡の顔を見た。短い付き合いだが、何をか言わんとしているのが分かる。

「もちろん、やせ我慢ですけどね。仕方ないです」

 後藤はふっと笑った。

「君、本当に変わったね」

 さぁと言って後藤は肩を竦めた。

「でも案外これが本当の僕かも知れないですよ」

「腹を括ったんだね」

「『覚悟がすべて』ですね」

 今度は月岡が暫し絶句し、目を丸くした。

「ここでハムレットかい、いや本当に、久しぶりに驚いた」

 はにかみながら後藤は頷いた。月岡は何故か、よし、と言って大きく頷いた。

「実を言うとね、ちょっと頭に来ていてね。ちょっとどころか、かなり、来ている。大人しく聞いてりゃ絶対秘密にしろとか、君を囮にするとか。余りにも一方的じゃないか。こんなのは話し合いでも何でもない。冗談じゃないよ、全く」

 相変わらず表情に極端な変化が無い月岡だが、急に荒くなった口調に、初めて月岡の怒りの感情を感じ、後藤は戸惑った。今日だけで月岡の喜怒哀楽全てを見た気がする。

「頭に来て……怒っているんですか? 」

「勿論。だから相手が人外な事をやってくるなら、こっちも人外の事やるのさ。常識が通用する相手じゃないし。君と同じく、僕も覚悟を決めたよ」

「人外って……佐村の事ですか? 」

「佐村も宮島さんも、それに僕もだよ。君の状態を知りながら、こんな危ない作戦を立てるんだからね。だから協力してくれる? まあこの場合協力もへったくれも無いし、確かに君にしか出来ない事だから、やるしかないんだけどね」

「……なにをしようとしているんですか? 」

「まずは僕の仮説から聞いてくれ 」

 月岡の勢いに、後藤は頷くしかなかった。

     ◇

 車内に電子音が鳴った。その音を後藤は朦朧とした意識の中で聞いた。被された袋で外は見えないが、運転席の男が何かを喋っている。

「はい。いえ、携帯の類はすべて破壊しました。追尾ですか? しばらくお待ちください」話し終えると「もう一度こいつの身体検査をする。手伝え」と後方に声が飛んだ。

「発信器か? 」

 後藤の左隣から声がした。

「ああ、可能性があるらしい。この先に潰れたドライブインがある。そこで停車する」暫くして車は減速し左に大きく曲がって停車した。走行中は気づかなかったが強い雨が車体を叩く音が聞こえてくる。

 運転席から男が後部座席に回りこんできた。それと同時に後藤は両側から乱暴に体をまさぐられ始めた。無理やりポケットに手を入れられ、ズボンの上から強く太ももや脛を掴まれた。ズボンの後ろを掴まれ「立て」の命令と同時に上に強く引き上げられた。後ろ手で拘束されていた後藤は腰を浮かされたままバランスを崩し、前のめりになってそのまま顔から車の床に叩きつけられた。猿轡の太い棒が口角に食い込み激痛が走る。生暖かい血が鼻から流れる。ゴフっと口からたまった唾と一緒に呻き声が飛び出す。激痛に、朦朧とした意識から目覚めた。ふたりの男は、お構いなしに後藤の下半身や背中をまさぐっている。

「脱がせ」

 後藤のシャツが乱暴にめくり上げられた。

『まずい』痛みの中で後藤は思った。

「脇腹になにかあるぞ」

 左側の男が呟いた。

「なんだ? 」

「絆創膏だ。今はがす」

 ビリっと、肌が剥がれる痛みが左脇腹に走った。

「デバイスか? 」

「いや、ただの絆創膏だ。手術痕がある」

「……下も脱がすぞ」

 後藤は無理やり体を反転させられズボンや靴、靴下も脱がされた。半裸になった後藤の体を男達は数分かけて検分した。

「靴はどうだ? 」

 パチンと音がして何かを切り裂く音がする。多分靴が切り刻まれていると後藤は思った。次に後藤は被された袋の上から髪を引っ張られ「跪け」と命令され正座させられた。袋と猿轡が外された。車内を見回す時間すら無く強力な力で顎関節を締め付けられた。痛みに耐え切れず口が開く。強烈な光が顔面に浴びせられ思わず目を閉じたが、強い光が網膜に焼き付いていた。

「口腔内も異常ない」

 男達が小声で何か話した。

「おい、左脇腹の傷はどうした」

「……盲腸の手術……だ」

 顎に強い痛みが残り上手く喋れない。瞼を閉じていても光が乱舞している。

 ちっと舌打ちの音がして再び猿轡が装着され、報告する、と声が聞こえた。

「発信器らしきデバイスは発見されません。ただ左脇腹に5センチ程度の手術痕があります。本人は盲腸だと言っています。……了解しました」

 言葉が途切れると、後藤はまた髪を引っ張られ、無理矢理引き上げられ乱暴に座席に寝かされた。左脇腹が露になる。男の指が左脇腹にある傷口を容赦なく強く押した。今までとは次元の違う痛みが後藤の体を貫きグオォと声にならない叫び声を上げた。グリグリと男の指が傷口を押す。その度内臓を直接突き刺す痛みが走る。後藤は身を捩ろうとするが後ろで回された手と、もうひとりの男の手で両肩を抑えられそれすら出来ない。横隔膜が痙攣した。息が止まる。目を大きく見開いた。見えたのは暗い車内ではなく白い霧が網膜に映った。

『まだだ……まだ、早い……』後藤は失神の寸前で必死に意識を繋ぎとめていた。

「痙攣しているぞ、殺すな」

 指の動きが止まり、かろうじて息を吸えたが吐けない。後藤は上半身を引き起こされ背中を強く殴られた。ガハっと溜まっていた唾が気道から飛び出し、やっと呼吸が出来た。だが呼吸と連動して激痛は後藤の体の中で延々と流れ続けていた。気を抜くと意識が飛んでしまう。

「異物があるな」

「なるほど」

 冷酷な声がする。

「取り出すぞ」

 またパチンと金属音がした。

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