10・正体

 1・『正体』

「ざっと、こんなもんですかね」

 星野はホワイトボードから離れ、大きく背伸びした。星野の後ろには菱形が腕を組み、机に尻を乗せながらじっとホワイトボードを睨んでいる。ホワイトボード上には10枚近い顔写真が貼られ、それらが青や赤の矢印で繋がる相関図が描かれていた。

 菱形達は警視庁庁舎内の一室を、宮島の力を借りて臨時の捜査本部としていた。簡易ベッドとふたつの机。パソコンにホワイトボードだけの質素な捜査本部だった。

「大方の整理はついたが、複雑すぎるな」

 背伸びを終え、あくびで涙目になっている星野の後ろで菱形が言った。

MNC多国籍企業と外資が入っている国内企業の集まりですから。まとめ役はいるけど明確な黒幕っていないんじゃないですか」

 うぅむと菱形は唸った。

 菱形達は佐村が狙撃を行なったビルを特定したその日から捜査本部に籠り、狙撃対象になったタチバナヒルズの最上階に入居している企業の素性を浚った。最上階は名義上不動産投資会社だったが、実態は租税回避地タックスヘイブンに籍があるペーパーカンパニーだった。幾重にも海外の投資会社や幽霊会社を介して設立されたこの会社の『カネ』と『ヒト』を、星野は執念深く追っていった。

 それと同時にタチバナヒルズ周辺に設置されているNシステムから、当日ビル周辺を通過する全車両のナンバーを取得した。そして運輸局のデータベースにアクセスし、過去に佐村と関係している人物や団体の車両が通過していないか照合した。都会の交通量は膨大で、その中から、佐村と関係する人物が乗る車両を探し出すのは、干草の中から針を探すと同義の単調で苦しい同時作業は、結局丸1日を要した。だが成果はあった。

『WDG』と言う外国企業所有の数台の車両が、当日タチバナヒルズの周辺を何度も通過していた。そのWDGはラボの出資企業の1社だった。そしてイノセン社を傘下に収めていたのが決定打になった。後は逆算だった。ラボに出資した団体や企業をピックアップし、タチバナヒルズに入居している会社との関連を調べた。狙いは当たり、ヒルズに入居している会社の内、5社がラボ設立に深く関わっていった。そしてNシステムからも狙撃当日に、そのそれらの会社が所有する車両がビル周辺を通行していたのが判明した。

 菱形の鼾をイヤホンから流れるクラッシクで防いでいた星野は、「ビンゴ」と真夜中の捜査本部で呟いた。空が白み始めた頃、星野がそれらの企業が佐村以外でどのような繋がりがあるのか調べた結果をホワイトボードに書き込み、相関図を作った。

 相関図の最上位、WDGと書かれた場所には、白人男性の写真が貼られていた。WDGの隣には『富嶽開発』の名前が書かれ、そこに『柏木』と書かれた付箋紙と共に白髪の男性の顔写真が貼られていた。

「WDGって聞かねぇ名前だな」

 菱形は欠伸を噛み殺した。

「フランスに本社がある総合電器メーカーですね」

「電器会社? 冷蔵庫でも作っているのか? 」

「昔は白物作っていたみたいですけど、今は半導体が主流で欧州各国の防衛・軍事・通信の軍事機器ではトップシェア、最近はイノセンみたいに製薬会社を買収しています」

 タブレットを探りながら星野が眠たそうな声を出した。

「きな臭ぇな」

「もっときな臭い情報としては、PMSC民間傭兵会社の元締めとしても有名ですよ」

「傭兵の親分かよ」

 菱形は、けっ、と悪態を吐いた。

「それで思い出しました。イノセン社の警備ですが、ここの傭兵会社の流れを汲む部門が担当していましたよ」

 星野は大きくあくびをした。

「他の会社も似たようなもんです。世界各国の主だった製薬会社やバイオ関連企業、軍事防衛企業のオンパレードです。タカチホブラッドに群がっている外資連中の巣窟ですよ、このビル」

 円環の相関図にある残りの3社の名前の横には、登記簿上の会社代表者の名前が付箋で貼りつけられていたが、3社とも英語表記だった。

 ふんっと菱形は鼻を鳴らした。

「それでこの柏木が日本でのそいつらのまとめ役かなんかか」

 菱形は白髪男性の写真に視線を送った。

「警部が柏木を知っていたのは驚きましたけど」

「今の若い奴らは知らないだろうが、富嶽開発っていや裏社会の経団連って言われた組織だからな。柏木はその代表だよ。旧帝大出のインテリヤクザで、表より裏で取り仕切るタイプだ。学があって英語や中国語も喋れる。それよりこの外人は何者だ」

「アラン・ビュービィエ。国籍はフランスでWDG本社の人間です」

「ビュー……何だって? 」

「ビュー・ビィ・エ」

 星野はひと言ひと言、区切って言った。

「……何でこのフランス人の顔写真があるんだ? 」

 菱形は発音するのを諦めた

「3カ月前、DIH防衛省情報本部がこの男の入国を察知してアラートを出しています。その後の動向は掴んでいないようですが、今の所出国の記録はありません」

 チッと菱形は舌打ちした。

「市ヶ谷……また小娘からの情報か? 」

「宮島さんと言うより、宮島さんの使っているネットワークのお陰なんですけどね。それに今僕も制限付きですがアクセスできるんですよ」

 星野は弱々しく笑った。

「この男は、本社ではアジア・アフリカマーケティング戦略部長ってなっていますけど、例のPMSC部門の実質上のトップです。そして、中東やアフリカでの紛争地域ではどっちにも繋がっているらしく、監視対象リストに上がっていたみたいです」

 なるほどな、と菱形は納得し「戦争屋か……」と呟いた。

 菱形の脳裏に、学院で起きたテロ事件の実行犯の男達が浮かんだ。そして未だにその身元は判明していない。

「佐村とこのビルに入っていた連中との関係は分かりましたけど、なんでまた今頃ラボの連中に接触したんですかね。それも狙撃って斜め上の手段使って」

 菱形は腕を組んだままホワイトボードを睨んだ。星野の言う通り、佐村は何故今頃ラボの連中に絡んできたのか? 菱形は自問自答したが全く答えが思い浮かばなかった。復讐のつもりなら確実に殺した筈だ。

 3年前の死刑の時と同じように、佐村の行動は全く読めなかった。

 菱形の横を、フラフラとした足取りで星野が通り過ぎる。その足はベッドに向かっている。「おい、寝るな」菱形は無情な声を掛け星野の襟首を掴んだ。

「寝かしてくださいよ、徹夜ですよ僕」

 星野は振りほどこうと軽い抵抗を試みたが無駄だった。

「さっき寝てたじゃねぇか」

「寝ようと横になったら警部が起こしたんじゃないですか。ひと仕事したんですから勘弁してくださいよ」

 その時菱形の携帯が机の上で震えた。星野の襟首を掴んだまま携帯に目をやると『性悪女』の表示が出た。菱形は星野を解放し、携帯に出た。菱形が口を開くより先に宮島の声が聞こえたが、菱形は宮島の言葉を最初理解出来ず、思わず復唱した。

「葵と北岩が失踪した? 」

 菱形は叫びそうな声を必死に抑えたが、握りしめた携帯はギシリと壊れそうな音がした。星野の眠気は吹き飛び、慌ててタブレットの上に指を滑らせる。

「張り付けさせた所轄はどうした? 」

「北岩により、無力化されました」

 宮島は事務的に答えたが、何処か苛立ちが滲んでいた。菱形は奥歯を噛みしめた。ギリっと奥歯が悲鳴を上げる。星野がタブレットを菱形の前に差し出した。菱形は受け取り、携帯を星野にほって投げた。

「報告しろ」

 菱形はタブレットの中の宮島に言った。

「現時刻より約2時間前に小野寺邸から北岩が車にて出発」

 菱形はすぐに腕時計を見た。文字盤が大きなシンプルなアナログ時計は9時半を廻っていた。宮島は続けた。

「その際小野寺葵の姿は認めらませんでしたが、応援要請にて別動隊が北岩を追尾。およそ5分後に北岩車を発見。有田町のボウリング場の地下駐車場に入り北岩独りの降車を確認。店内に入った為刑事2名で尾行を開始。ですが……」

「大方エレベーターの中で、無力化されたんだろ」

「御名答です。良く分かりましたね」

「あの地下駐車場から店内に入るにはエレベーターしかねぇ。古臭い狭いエレベーターだ、待ち伏せに使える」

 それ位頭に入れて尾行しろや、と心の中で毒づく。

「意識を取り戻した刑事が小野寺家で監視している車両に連絡。同時に私に連絡があり、小野寺家に事情聴取のため訪問させたのが今から30分前。その際小野寺葵の不在を確認しました」

 やられたと、菱形は渋面になった。

「その後の足取りは」

「小野寺家のベンツは駐車場に放置。恐らく準備していた別の車で逃亡したと思われます。所轄が無力化された時刻以降にボウリング場周辺を通過する全車両を追尾しましたが、北岩が関係した車両は確認できませんでした。盗難車や偽ナンバーも発見出来ず。レンタカーは全て借主の身元が確認できました。小野寺葵と北村の携帯の位置情報もボウリング場付近で途絶しています」

「見失ったって事か」

「申し訳ございません」

「お前が謝る事じゃねぇよ」

 菱形は小野寺家を秘匿監視させる為、小野寺秋臣に誘拐計画の情報があり、内通者が『使用人』との偽情報を宮島経由で所轄に流した。そしてそのまま所轄を宮島配下で動かし監視させていた。情報漏れを防ぐ為最小限の人員配置で、監視情報は宮島へ一元化したのと、北岩の情報を流さなかったのが裏目に出た。初動体制が遅れ後手を踏んでいる。

「小野寺家捜索時に、葵の自室から置手紙が発見されました。今から転送します」

 画面にスキャンされた手紙が映し出された。1枚の便せんに書かれた文章は几帳面で実直な字体で書かれ、言葉のひとつひとつに育ちの良さが伝わってきた。要約すると、北岩と恋に落ちたので駆け落ちする、そっとしておいてくれと言った内容が書かれていた。

 ふざけんじゃねぇ、菱形の奥歯がまたギリリと鳴った。

「簡易筆跡判定で小野寺葵本人の文字だと判定されました。葵の母親も認めました」

「それで、小野寺の家は何と言っている」

「現在祖父の秋臣氏と所轄の署長を交え話し合いを持っていますが、男女間の話であり葵の将来を考え、事を公にしたくない方向では一致しているようです。正式な報告は所轄から上げさせます」

 手紙の裏から宮島の声がする。

 菱形はまた奥歯を噛みしめた。小野寺家の意向ならば、未成年略取であっても警察はそれに従い公開捜査は行わないだろう。せいぜい家出人捜査か北岩の傷害事件での捜査になるだろうが、それすら怪しい。小野寺家の威光を最大限に利用して葵は自ら失踪した。

「おい、この手紙早く消せ。虫酸が走る」

 画面から手紙が消え宮島の顔に変わった。

「それともうひとつ、悪い報告があります」

 菱形の表情が歪んだ。

「なんだ? 」

「小野寺葵失踪の報を受け、すぐに天海の部屋に家宅捜索を入れました。ですが捜査員が部屋に踏み込んだ瞬間、爆発が発生。それと未確認情報ですが、学院の保健室が同時刻に火災発生との報告が入りました」

 な……菱形と星野は言葉を失った。宮島は淡々と続けた。

「家宅捜索に入った捜査員は重症1軽症3。ですが生命に関わる重篤な者はおりません。学院の火災の被害状況は現在確認中ですが、閉鎖されていた校舎内での火災です。人的被害の可能性は低いと思われます」

「爆発物を仕掛けていたのか? 」

「天海の部屋の爆発の原因はガス漏れですが、発火装置による人為的爆破を視野に現在調査中です。同じく学院にも現在急行させています」

 ……両方とも殺傷目的ではなく証拠隠滅のためか

「警部はどう思われます」

 菱形は右手で首筋を叩いた。バチっと音がした。

 小野寺葵と接触してから2日。こちらの動きを察したとしても反応が派手すぎる。これでは自分が怪しいと自白しているようなものだ。

 何を考えている? 菱形は困惑より不快な気持ちになった。その原因は小野寺葵と佐村がどう考えても繋がらない事だった。それを確認しなければ先へは進めない。

「カテゴリの件はどうなっている? 」

「それについては良い報告があります。涌井がカテゴリファイルのある政府系サーバの場所を特定。同時にカテゴリサーバの『裏口』を発見しました。いち両日中には全容が判明します」

「こっちは佐村が狙撃したビルにラボの関係者が多数入居していたのが分かった。そっちにそいつらのデータを送る。そっちでも浚え」

 宮島は無言で頷いた。

「だが今はカテゴリUTが佐村と小野寺葵を結びつける唯一の鍵だ。そのクソファイルをこじ開けたらすぐに俺に知らせろ」

 宮島は静かに一礼し、画面から消えた。

     ◇

 小野寺秋臣は革椅子に深く座り無言で窓の外を眺めていた。秋臣は都心にある自らの法律事務所に居た。都会の真ん中にも関わらず、法律事務所の敷地の中には庭園と言っても差し支えない広大な庭があり、秋臣の執務室はその庭に面していた。青々とした芝生の先には、都会の喧騒を遮るよう密に植えられたケヤキやプラタナスの高木が、緑の壁を作っていた。だが緑の壁の上にある空の色は鉛色で、今にも雨が落ちてきそうだった。そして秋臣の心も鉛色の空同様に重く沈んでいた。

 インターホンの音が鳴る。秋臣は渋面で通話ボタンを押した。

「今日も取り次ぐなと言った筈だ」

「申し訳ありません。ですが、警察庁の方がお見えになっておりまして」

「警察庁? 」

 秋臣は訝しい顔になった。警視庁ではなく、それも所轄ではなく警察庁が秋臣を訪ねる事はほとんどない。

「確かに警察庁なのか? 」

「はい、警察庁の宮島警視長と涌井警視正と名乗られています」

「用件は? 」

「運転手さんの件で、と言っていますが、どういたしましょうか」

 秋臣は反射的に大声を出した。

「通してくれ」

     ◇

 ソファに座っている男女を見て、まだ秋臣はこの男女が警察庁の上級幹部とは思えず執務室に入ってきた時に、警察手帳の提示を求めた程だった。

 小野寺葵に関して話があると告げた宮島は、黒縁の眼鏡を掛けきちんとしたグレーのスーツ姿だったが、涌井はノーネクタイで皺の寄った黒いスーツ、どこかだらしない恰好だった。

 更に奇異に感じたのが警察手帳に記載されていた職位だった。

 女性の宮島の方が警視長、涌井が警視正。厳格な階級社会の警察組織の中ではこの職位はかなりの上位になる。秋臣はこんなに若く見える警察の上級幹部を今まで見た事が無かったが、提示された警察手帳は紛れもない本物だった。

 冷えた麦茶をテーブルの上に置いた秘書が執務室から出ていく。扉が閉まると同時に秋臣が口を開いた。

「孫の事でなにか分かったのかね」

 宮島の方を向いて話した。涌井は執務室に入って来た時から秋臣とは目を合わさずに、面白くなさそうに部屋のあちこちに視線を投げていた。

「いえ、まだ何もわかっておりません」

「北岩の居場所がわかったのか? 」

「同様に何もわかっていません」

「では何の用で来た。葵の事じゃなかったのか」秋臣は苛立った。

「葵さんの事で来たのは確かです。では単刀直入にお尋ねします。何故葵さんはカテゴリUTの対象者になったのでしょうか」

 秋臣は息が止まった。

「葵さんの個人情報が完全に隔離されていたのはすぐに分かりました。痕跡の削除の方法や細微にわたる情報操作から、カテゴリUTレベルなのは驚きました。ですが更に私達が驚いたのは葵さんの情報はカテゴリサーバの中にも無かった。重要情報は『完全隔離』されても尚その価値から消去される事はありません。それが国家を脅かす諸刃の剣になっても、です。だからこそ価値がある。ですが『完全消去』してしまえばその価値どころかカテゴライズした事自体意味がない。それにも関わらず葵さんの情報は完全に消されていた」

 宮島は冷えた麦茶を手に取り、ひと口飲んだ。

「本当に意味がありませんわ。でも理由は存在します。それを聞きにきました」

「……何を言っているか、わからんな」秋臣はやっと言葉を絞り出した。

「カテゴリとは何の事だね。葵と何の関係が……ある」

 宮島は口角を少し上げた。

「仕方ありませんわね」

 涌井が動いた。スーツの懐に手を突っ込むと丸められた数枚の紙をテーブルの上に叩きつけた。乾いた音を立て、ばらけた紙はテーブルの上で開いた。

「シラ切るんじゃねぇジジイ。サーバの中にあったカテゴリUTのアウトラインだ。テメェらクソ共の署名入りの書類もあるぞ。もっと正確に言うか? テメェが大臣の時にカテゴリUTに署名したのが5件だ。だが裏稟議書に記載されていたのは匿名の6件。カタゴリUTに指定されたあのガキの書類が無い。って事はカテゴリと同時に消したな」

 秋臣は本当に息が止まった。テーブルに散らばっている紙を見た。そこに印刷された箇条書きの文字列は確かにカテゴリUTに指定した国家機密だ。そして絶対に表に出る事の無い裏稟議書が目の前にある。

「どうして……それを。馬鹿な、あのサーバは完全独立している筈だ」

「人間が創るモノは必ず抜け道がありますわ。完璧なモノはありえません。特に情報は絶対に漏れます。その存在自体消滅させない限り」

「散々難儀させやがって。難儀させられた挙句こじ開けた中にお目当てのモノはねぇ。舐めてんのかテメェ、そんなんだったら最初からカテゴリに入れるんじゃねぇよ。いいか、このクソ仕事のせいで俺はトマトとナスを収穫できなかったんだぞ。種から育ててやっと収穫できると思ったら、このシケた仕事で収穫もおじゃんだ。おい聞いているかジジィ」

「涌井、黙りなさい」

 宮島の冷たい声が聞こえた。チっと舌打ちをして涌井は横を向いた。

「お話しいただけますね」

 秋臣の額にからは汗が流れ落ちて来た。何故カテゴリの事が分かった。そしてこれが葵の失踪と何の関係があるのか、全く理解出来なかった。

「もし……私が話さなかったら、どうする」

「カテゴリUTに関する文書を全世界に向け公開します。国内は勿論外交上も大混乱になるでしょうね。それに歴代総理経験者、勿論小野寺秋臣元法務大臣の責任も追及される事でしょう。でも私にはそんな事どうでも良い事です」

 秋臣は宮島の目を見た。そこには脅しも虚勢もない、穏やかな光を持つ目があった。秋臣はそれが逆に恐怖だった。

「話を元に戻します。私達は本当に葵さんの行方を追っています。その為には葵さんのカテゴリUT対象になった理由も手掛かりの大きなひとつだと考えています。それを話していただければ葵さんの行方も分かるかもしれません。そしてカテゴリUTに関する書類はまた『あちらの世界』に戻ります。冷静になってお考えください」

 ぐっ、と秋臣は生唾と空気を飲み込んだ。眩暈を感じる。頭の中を、葵の映像が歪みながら何度も再生された。待ち望んだ初孫。可憐に育ち、世界でいち番大切な人間。自分の命以上の存在。そして生きるために大きな業と宿命を背負わされた少女。

 その責任は全て自分にある。葵には何の罪も無い。そう葵には何の罪も無い……

「分かった……話そう」

 秋臣は声を絞り出した。

「懸命な判断です。助かりますわ」

 秋臣は大きく息を吸った。そして、ゆっくりと口を開いた。

「葵は……タカチホブラッド…………だ」

 宮島は、腕にピリッと電流が走るのを感じた。鳥肌が立っている。

「3年前、死刑になった佐村の心臓を……葵に移植した」

     ◇

「葵は生まれつき心臓に障害があった。木田には……医者には20歳までは生きられないだろうと宣告された」

 秋臣は静かにテーブルに視線を落とし、話しを続けた。

「心臓移植しか道がないのも最初から分かっていた。だが……葵はタカチホブラッド……だ。しかも葵と同じ血液型の人間は数人しかいない。その人間が死ぬのを待っていたら葵が死んでしまう。海外での手術を考えたが、海外でもタカチホブラッドを持っている人間は『保護』されている。その人間の生死に関わらずだ。絶望の中で葵は死ぬのを待つだけだった」

 言葉が止まった。俯いている秋臣の表情は見えないが、最後の言葉は震えていた。

「そんな時、佐村の代理人と名乗る人間から連絡があった。何処から情報を得たのか、葵の病状を知っていて献体に応じるとあった。自分の死後、自分の心臓を葵に移植しても良いと」

「佐村は何らかの取引を持ち掛けたのですが? 」

 宮島の質問に秋臣は力なく首を振った。

「全く何も要求してこなかった。ああ……いや、刑事と、自分を捕まえた刑事と、弁護士との面会だけを望んだ。それ以外は無かった。死後の遺体も勝手に使えとあった」

 秋臣は両手で顔を覆った。

「私は悩んだ。葵の体にあの殺人鬼の心臓を移植させる。考えただけでもおぞましい。だが血液型も一致して佐村はインアクティブに戻っていた。医者の見解でも移植は可能だった」

 秋臣の脳裏に、生まれたばかりの葵の姿が甦った。小さな体に沢山のチューブが繋がれ、泣き声さえ上げきれず顔を真っ赤にして懸命に息をしている。小さな体の小さな胸が早く上下していた。その奥に生きようと必死に動いている心臓がある。保育器の中の葵の小さな指を秋臣は恐る恐る触った事がある。葵はしっかりと秋臣の人差し指を掴んだ。その温かさは、葵が生きている証拠だった。

 秋臣の目から涙が溢れる。

「悩んだ、本当に悩んだ。自分の心臓なら喜んで差し出す。葵の両親も同じ気持ちだ。だが……だがそれができない……私は地獄に落ちる覚悟で佐村の申し出を受けた」

 涙で声が震えていた。

「消去された書類は、その時の関係書類ですね」

「ああ、代理人からのメール、執刀記録。それと同時に葵の出生からのカルテ、血液検査記録は全て回収して……カテゴリUT対象にした後、消した。葵と佐村の繋がりを全て……この世から消した」

 静寂が薄暗い執務室を覆った。窓の外は何時の間にか強い雨が降っていた。時折激しい雨粒がガラス窓を叩く。

「裏稟議書に署名した人物以外で、この事を知っている人物は? 」

「……執刀医の木田だけだ」

「葵さんのご両親は」

「知らない。葵がタカチホブラッドなのは知っているが、葵の手術は移植ではなく、普通の……カテーテル手術と言う事になっている……葵にも、そう説明した」

「それは木田医師と口裏を合わせ、隠蔽していたと言う事ですか」秋臣は頷いた。

「木田医師の他に当時手術に立ち会った人間、例えば看護師などは佐村からの心臓移植だと知っていましたか」

 秋臣はゆっくりと首を横に振った。

「そこまでは……木田が執刀医だ。彼なら分かるかもしれない」

 宮島は大きく頷いた。

「お話しいただき感謝します。大変参考になりました」

 宮島は立ち上がった。それにつられ涌井も立った。

「お約束通りカテゴリの件、私達は忘れます。証拠も全て抹消いたしますのでご心配なく」

 そう言ったが、秋臣は顔を手で覆ったまま動かなかった。

「ではこれで失礼します」

 宮島が踵を返した時、下を向いたまま秋臣が声を出した。

「葵は、これで見つかるのか……」

 宮島は足を止め、首を傾げて適当な言葉を探していた。そして思いついたように口を開いた。

「御期待に沿えるよう全力で努力いたします」

 涌井が声を出して笑いそうになるのを見て、宮島は素早く右手で涌井の口を塞いだ。

     ◇

「お聞きになったとおりです警部。これで佐村と小野寺葵が繋がりました。信じがたい事ですが、葵は佐村の心臓移植により佐村と言う別人格になったと思われます」

 宮島は運転席に乗り込むなり、胸の取り付けられたマイクに向かって喜色を帯びた声で話しかけた。

「警部、お聞きになっていますか? 」

 助手席に涌井が乗り込み、車を発進させても宮島の耳に装着されたイヤホンからは何も聞こえてこなかった。

「警部? 」

「聞こえている。何回も呼ぶな」

 静かな菱形の声が聞こえて来た。

「当初の警部の見込み通りです、多少状況は違いますが小野寺葵が佐村になった可能性があります」

「……お前本気で言っているのか」

「『タカチホブラッドのアクティブは何が起きても驚かない』と仰ったのは警部です。佐村からの心臓移植により葵のタカチホブラッドが時を経てアクティブになった。そして佐村の人格が葵を乗っ取った。そう考えれば筋が通ります」

 菱形は言葉が出なかった。

「それにあの後藤という青年。彼も佐村と何らかの接触があったと推察できます。恐らく『臓器移植』がキーワードです」

 突飛というより空想に近い理論であったが、その可能性は否定できなかった。

「……俺は今から木田の所に行って裏を取ってくる。お前らはそんなマンガみたいな事が現実としてあるのか調べろ。後で連絡入れる」

「了解です。それでどうでした私の事情聴取は? 警部のお眼鏡に適ったでしょうか」

「お前……」

 イヤホンの向こうで菱形が絶句していた。

「……あぁ初めてにしては合格だ。よく秋臣から証言を引き出せた」

「お褒め頂き光栄ですわ」

 宮島の声は弾んでいた。

「……後で連絡を入れる」

「それではまた後程」

 机に置かれたタブレットの画面から『SOUND ONLY』の文字が消え、通信が途絶えた。菱形は大きなため息を吐いた。

 長年多くの修羅場を経験してきたが、今回の事件の真相はそのどれにも属さない異常で異様なモノだった。その非常識で不合理な事実を理解するには、自分のキャパシティを大きく超えていた。そんな所への宮島の能天気な声と言葉は強烈な毒気でしかなく、菱形は何時もの軽口の応酬する余裕すら残っていなかった。

 一呼吸置いて頭の中で止まった思考を無理矢理動かす。確かに宮島の言う説は突飛だが筋は通っている。それを否定せず前提として学院襲撃とイノセン社の現場を菱形は思い出してみた。

 菱形の検分通り、検死報告書でも被害者の遺体の傷は鳩尾から下に集中する傾向があった。そして遺体に残されていた打撃痕は、強烈な『斜め下方』からの物理的打撃があった事を示し、刃物の創傷角度も下方から突きが多数だった。これは加害者が被害者より小柄な事を示唆している。

 病院で話した時の葵の身長を思い出す。菱形は目を閉じた。自分の鳩尾あたりに頭が来る。そこから蹴りが入る事を想像すると、打撃痕は報告書と合致する。

 菱形は目を開けると、椅子から立ち上がった。

「おい木田の所へ行くぞ」

 だが星野は腕を組み天井を仰いでいた。

 寝てるんじゃねぇと怒声を出そうとしたが、星野は、信じられませんと呟いた。

「……お前もそう思うか? 俺だってすぐには信じられんさ、だからそれを確かめに行く」

 星野はゆるゆると椅子から立ち上がった。

「秘かに憧れていたのに……あんなキャラだったなんて」

「憧れ? キャラ? お前木田に会った事あるのか」

「木田? いえ、涌井警視長の事です……」

「……お前何言っている」

「あんなに口の悪い人だったとは……もっとクールで知的な人だと」

 星野が全部言い切る前に、菱形は思いっきり平手で星野の後頭部を張り倒した。

     ◇

 ザザ、と突然のノイズが右耳のイヤホンから聞こえ宮島は顔を顰めた。そしてイヤホンを外し忘れた事に気付き、毟り取る様にイヤホンを外した。

 車は雨の首都高速を順調に走っていた。ラジオレスの車内にはフロントガラスに当たる雨音と、タイヤが水を切って走る音が断続的に入って来た。

「……何黙ってやがる」

 助手席ではシートを倒した涌井が不機嫌な声を出した。

「少し考え事よ」

「お前でも考える事あるんだな。いつもは能天気に笑って適当な事言っているのによ」

「あれはお芝居よ。相手のレベルに合わせて話すのも重要なの」

 けっと涌井は悪態を付く。

「馬鹿に話合わせるってお前も相当阿保だな。馬鹿はこき使ってりゃいいだろうが」

「支配者は時に道化も必要よ。あなたもそのひとりなんだから、それくらいの事は覚えておきなさい。それに目下を上手く使うにはこれくらいの腹芸をしなきゃ駄目よ」

 けっとまた涌井は悪態を付いた。

「で、俺は赤十字に潜りゃいいのか」

「そうね、適合者絞り込みはすぐ済むはず。後藤って青年以外何人いるかによるけど、多分数人ね、簡単でしょ。問題はその後よ」

「そのケッタイなガキが適合者だったら、バカな奴等の所へはお前だけ行けよ。どうせ理解できないだろうからそれ見ているだけでムカつくんだよ。特にあのハゲがうるせぇ」

「理解は必要ないわ。ただ納得させられるかが問題なのよ。そこが悩みどころよね」

「だからバカなんだよ。佐村のクソ野郎が次何するかなんて簡単に分かるだろうが。正解示しても、どうせグチグチ言うんだろ、阿保か! 」

「仕方ないわよ。世の中には『人権』と言うのが共通のプロトコルと信じられているのですもの。私達のプロトコルとは基本違っているし、彼らに下位互換されないもの」

     ◇

 宮島達が小野寺秋臣を訪ねてから1時間後、木田澄夫は憔悴しきった表情で、佐村から葵への心臓移植手術を認めた。哀れにうな垂れる老医師に小野寺秋臣が重なり、菱形はやるせない沈んだ気持ちになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る