9・カテゴリーUT
1・『アンダードッグ』
超高層ビル最上階からの眺望は圧巻だった。天海は部屋の端に立ってジオラマと化した下界の街並みを見下す。
上下黒のパンツスーツで黒縁の大きな眼鏡を掛けた天海の姿は、企業に勤める普通のOL達の格好と大差無かったが、髪は腰まで伸びたストレートロングで髪をまとめてもいなかった。街のビル郡は全て天海の立っている位置より低く、その屋上にある空調設備機器や張り巡らされた銀色のダクトしか見えなかった。
ビルの合間を縫うように、無数の車が点になり動いている。色取り取りの小さな点は血管の中を駆け巡る白血球や赤血球、血小板に思えた。
視線を上に上げる。
晴れ渡った夏空の下、地平線には山の稜線がくっきり浮かび上がっていた。
山の稜線をバックにして、他のビルより頭ひとつ飛び抜けた高層ビルが遠くに見える。そのビルは鉛筆の様に細く尖っていて、外壁は全てガラス張りで夏空を写し込みその存在を空に溶かし込んでいた。尖ったビルの先端付近で何かが反射してキラっと光った。
その時、天海の後方でドアが開く音がして天海は振り向く。
開け放たれたドアから白髪をオールバックにした初老の男性を先頭に男性がふたり続いた。ひとりは病的にやせ細った男で、窪んだ眼がギョロリと天海を睨んだ。もうひとりは長身の金髪碧眼の白人男性でこちらは柔和な笑顔で天海を見ていた。
白髪の男は鋭い視線を天海に向け「待たせた」と一言言い、あちらへと天海から見て右側の、円卓があるスペースに手招きした。
天海は軽く頭を下げると窓際から離れ円卓に向い、目の前の椅子に座ろうとした。
「そっちは上座だ。客人はこちらに来てもらう」
やせ細ったギョロ目の男が低い声で言った。天海は少し大げさに目を丸くすると反時計回りに円卓を回り込み、ドアが背後にある窓から一番遠い椅子に座った。3人の男達もゆっくりと円卓を回り、白髪の男を真ん中にして男の右側にギョロ目の男、左側に白人が座った。男達が座ると同時に窓の上部から音も無くブラインドが降りて来て、絶景の眺望が見えなくなり、同時に天井から青白い光が降り注いできた。
「結論は出ました? 」
先に天海が口を開いた。
「……正直に言おう。まだ結論には至ってない」
渋面で白髪の男は答えた。
「意思決定が遅いですわね」
天海は薄っすらと笑みを浮かべた。それには多少の軽蔑が含まれている事は、言葉のニュアンスで明らかだった。
「我々は連合体だ。多様な意見が出るのは当然の事だ」
「お互い損もリスクも無い取引だと思いますが? 」
「それはそっちの考えだ」
ギョロ目が言った。
「案外臆病でいらっしゃるのね」
「協力関係を結ぶにはまだ安心できない、と言う意見が根強いのです」
白人の男が流暢な日本語で言った。
「何をそんなに恐れているのかしら? 」
天海は首を横に傾けた。
「ラボだけではなく津田さん達を殺した上、研究データも持ち去った事に不信感があると言う事です」
「不信感はお互いさまでしょ。それに津田達はラボで佐村を凌辱した報いを受けただけよ」
「我々がイノセン社やラボに幾ら投資したと思っている。その全てを破壊した上、津田まで殺しておいて協力だと? 貴様気は確かか」
ギョロ目が怒りを隠さないまま身を乗り出したが、白髪の男が手を伸ばしギョロ目を制した。
「我々の目的はタカチホブラッドの特性を全て、それこそつまびらかに全て究明する事にある。その為に我々は協力者である佐村に対し可能な限り意思疎通を図り、良好な関係を築こうと努力した。我々が敵対行為を行ったと言うのは全くの言い掛りだ」
「協力者、ね」
天海は首を軽く左に傾げた。
「天海さん、ラボで起こった事はお互いに取って不幸だったかもしれません」
白人の男は他の男達と違い柔らかい口調だった。表情はこの部屋に入って来た時と同じく柔和な笑顔のままだ。
「ですがやはり私達はコントロールできないアクティブとは交渉出来ない、と言う事です。この状況を改善するにはそちらが私達への敵対行為をしないと言う、何らかの担保が示されれば交渉がスムーズに行くと思いますが」
「先に事を進めるな」
白髪の男から、低く、そして怒気を含んだ言葉が白人に向けられた。白人は苦笑を浮かべた。
「担保なら先に提示した筈よ」
「あれは元々我々のデータだ。その一部を返してもらったにすぎん」
「津田のを含め佐村は覚えている。それが欲しくないのかしら? 」
「我々の協力を得たければ先にそのデータを渡せ。そうすれば交渉のテーブルについてやる」ギョロ目の男が興奮した口調で続けた。
「それにお前はあの能面のガキが佐村だと言っているが、私はそんな与太話なんぞ信じんぞ。奴は確実に死んだんだ」
天海は芝居がかった様に両手を大きく広げて、肩を竦めお手上げをした。
「平行線ね」
天海は目線を白人に向けた。
「そちらはどうなの? このチャンスをそのまま見過ごす気? 」
白髪とギョロ目の刺すような視線が、自然と白人に突き刺さる。
「先ほど申し上げたと思いますが、私達は連合体です。それにここは日本です。日本人は『和を以て貴しとなす』の文化の国だと理解しています」
「なにそれ? 」
天海は高笑いした。
「でもそちらの文化にはカイロスがいるでしょ? 」
「さすが博学ですね」
白人は微笑んだ。
「それで、あなたはどうするのかしら? 」
「勿論前髪は掴まえますよ」
「おい! 話を勝手に進めるなと言っただろ」
ギョロ目が立ち上がり白人に向って叫んだ。
「外の景色がみたいわ、アレン。ブラインド上げてくれるかしら」
天海は退屈そうに言った。アレンと呼ばれた白人は黙って頷くと懐に手を入れた。するすると静かにブラインドが上がっていき、再び絶景が現れ、自然光が差し込んで来た。
「勝手なマネはするなと言っているのが分からんのか! 」
ギョロ目のその大きな目は、怒りで今にも零れ落ちそうな程、見開かれていた。
「動かない方がいいわよ」
天海が椅子に深く座り直し足を組みながら言った。肘掛に肘を載せ、拝むように掌を顔の前で合わせていた。重なり合った人差し指が、軽く唇に触れる。
「何? 」
ギョロ目が天海を振り返って睨んだ。
「左耳」
天海が呟いた。
キンッ、と硬い金属を叩いたかのような甲高い音が部屋に響く。
その瞬間、ギョロ目の左耳が吹き飛び、血が勢いよく噴き出た。破裂したホースから噴き出る水の様に、血は隣に座っていた白髪の男の顔に降り注いだ。
ギョロ目は驚愕の表情から、一瞬にして激痛で歪んだ表情に変わる。反射的に左手で吹き飛んだ耳があった場所を覆うとした。
「左手」
天海がまた呟く。再び甲高い音が響いたと同時にボっと破裂音がしてギョロ目の左手首から上が吹き飛び、机の上に血と肉片を撒き散らした。
ぐああぁぁ。ギョロ目は叫び声をあげ椅子をなぎ倒し、床の上に転がり、のた打ち回った。
顔の右半分が血で染まった白髪の男は微動だにせず、目の光も衰えないままじっと天海を凝視していた。
バンと音を立てて荒々しく天海の背後の扉が開き、数名の大柄な男達が部屋に雪崩れ込んで来た。全員懐に手を差し込んでいる。
「動かないで! 」
天海が後ろも見ずに大声を出した。男達の動きが止まる。
「動くと死ぬわよ」
一転して低い声になる。
アレンが右手を挙げた。男達の視線がそこに集まる。
「言う通りにしてください。それとヤマザキさんは手当てが必要なようです。お連れしてください」
アレンは、床でのた打ち回っている哀れな男を見て言った。
男達は懐から手を抜くと、互いに目配せして次の行動に移った。誰の指示もなく、床で這いつくばり痙攣しているヤマザキの元にすっと2名の男が近づいた。そして手慣れた手順で、ひとりが足首を、もうひとりが両脇に手を差し込んで細い体を担いだ。ヤマザキの呻き声が遠ざかっていき、再び扉は閉じられた。
ひとり少なくなった部屋の中は、鉄錆の匂いが満ちていた。
「さすがに良く訓練されているわね」
「当社の自慢の商品ですから」
「学院に来たのも彼らの仲間? 」
「広い意味では。学院に派遣したのはイエメンの部隊の精鋭でした。いかがでした? 」
「可もなく不可もなく。唯一のトピックは、彼らの身元を辿れない事ね」
「それは手厳しい」
アレンは笑いをかみ殺していた。
「……いつから通じていた」
汗のように滴り落ちて来た赤黒い血を、ハンカチで拭い終えた白髪の男が、天海に静かに尋ねた。
「それを聞く事に、意味があるの? 」
白髪の男は暫く黙ると、ゆっくりと口を開いた。
「何故他の組織に接触しなかった。他の組織ならお前たちの条件を呑む所もあるだろう」
「佐村にしてみれば何処も一緒よ。それにあなたたちあの場所を抑えているし、非公開のリストも持っている。要するに手っ取り早いのよ」
「僭越ながら私もこの体制は維持すべきだと考えます。我々は他の組織よりもやはり数歩、タカチホブラッド研究の先を行っています。佐村の方から我々に接触してきたこの機を逃さない手は無いと思います」
「それは貴様の本国の意向でもあるのか? 」
白髪の男は横目でアランを見た。
「私の言葉は本国の言葉です。それと誤解が生じないようにお断りをしておきますが、私は抜け駆けしてはいません。佐村の独占を画策したならば、この部屋に死体がふたつ転がっていた筈です」
白髪の男はまた少し沈黙した後、口を開いた。
「これは佐村復活のデモンストレーションと言う訳か? 」
天海は無言で微笑んだ。
「状況を教えてもらおう。まだ介入する余地があるなら、条件を聞きたい」
「それは賢明な判断よ」
天海は満足そうな笑顔を浮かべ、椅子に深く沈み込むように座りなおした。白髪の男は唇の端を歪めると、続けろ、とだけ呟いた。
「では、佐村から要求のあった任意の第3国政府への折衝条件、当面の拠点である施設改造内容を説明いたします」
アランは、鉄錆の匂いと弛緩した殺気が満ちた会議室の中で、投資案件のプレゼンをするような調子で話し始めた。
2・『カテゴリUT』
「ここが後藤君の見ていた場所か? 」
体が宙に浮きそうな程の強風の中、菱形が叫んだ。
「そんなに叫ばないでも聞こえますよ! 何のためにヘッドセットしているんですか? 」
菱形の鼓膜が破れそうな程の星野の大声が、右耳に装着されたイヤホンを通じて聞こえて来た。菱形は先を行く星野を蹴飛ばそうと思ったが、足は一歩を踏み出すのさえやっとの状態だった。
菱形達は地上50階高さ262m超の超高層ビルの屋上階の『外』に設置された、メンテナンス用の人ひとりがやっと通れる幅の通路を、星野を先頭に進んでいた。強風が前方から吹き付けてくる。菱形は腰を落として風に抗いながら、一歩ずつ進んでいた。
通路の床はメッシュの鉄製で下が透けて見える。高所恐怖症の菱形は気絶しそうだった。右手は柵を兼ねた手すりを曲がりそうな程しっかりと握り、左側にあるビルの壁に取り付けられた高所作業用のワイヤと繋がっている体に装着した安全帯を信じ、前を行く星野の細い背中だけを見て歩いた。
「この街で1番高いビルでその屋上が鉛筆の様に尖っている構造物と言えばこの『タチバナヒルズ』くらいしかないですよ」
星野の言葉に菱形は後ろを振り返り、天を仰ぐ。そそり立つ先細ったビルの先端の、その更に先にある真黒な避雷針が、雲ひとつない青空を突き刺していた。
やがて左手にあったビルの外壁が切れ、開けた場所に出た。通路はビル壁に沿ってそのまま左に直角に曲がっていたが、そこは作業場として真四角な小さな広場になってビルから少し突き出た空間になっていた。景色も一気に開け、パノラマで街全体が見渡せる。逃げだしてしまいそうな程の恐怖心を抑え、菱形はそれでも前に進んだ。それに従って安全帯から伸びたロープもしゅるしゅると伸びていく。星野は既に外縁の手すり付近まで進み周りを調べ始めていた。
「さすがに証拠らしいのって無いですね。あってもこの風じゃ検分も出来ない」
ようやく傍まで来た菱形に星野は言った。菱形は卒倒しそうな自分を必死で奮い立たせ、周辺を見回したが、メッシュの床は下が透けて見えるだけで遺留物があるとは思えなかった。あったとしても下に落下して何も残らないだろう。
「問題は何処を狙ったか、だ」
菱形は視線を水平に戻した。パノラマに広がる大都会はミニチュアに見える。このビルと同じ高さのビルは間近にはない。だが距離は不明だが、菱形の視線の先には地面から生えた土筆のような高層ビルが見える。
その時、星野の体が下に沈んだ。菱形は腹の底がスゥーっとする感覚に陥り腰が砕けそうになったが、手すりを両手で握り堪えた。
「多分あそこでしょうね」
星野は床に腹ばいになって双眼鏡を覗きこんでいた。星野は双眼鏡の上にあるボタンを押した。
「距離は……800……弱。凄腕のスナイパーでも難しいでしょうけど、佐村なら簡単じゃないですか」
菱形は頷いた。
「そのビルの様子、分かるか」
「何とかギリギリ。最上階に足場組んで工事しているみたいです。多分ガラスを嵌めなおしているんじゃないですかね」
だろうな、と菱形は呟いた。後藤の目撃証言は、不連続に犯行現場の瞬間を切り取るため、明確な場所や行動を見ている訳ではないが、後藤が見た光景を聞き取った結果、佐村は長距離狙撃を行っていた事が濃厚だった。
佐村はスコープを覗いていた。そして標的を撃った。この場所からなら同じ超高層ビルの高層階だろう。
「あのビルの所有者と関係者、最上階の所有者関係者。そいつらと佐村の繋がりを洗え」
「了解。でも意外ですね」
「あぁ俺もそう思う」
菱形の覚えている限りでは佐村はライフルを使用した事はない。しかしもっと意外だったのは、後藤の目撃談では今回殺人を行っていない。わざわざ慣れていない武器を使用したうえに殺人を犯さなかった。佐村はそんな回りくどい事はしない。明確な意図は分からないが、佐村に狙われながら生かされた相手は、殺さない方がメリットになる人間だと考えた方が腑に落ちる。その人間との関係性が分かれば、佐村が今後どんな行動を取るのか予想出来る。やっと佐村の後姿が見えたと菱形は思った。
「自分でも意外と思っていたんですか? 自分の事なのに? 」
星野の呑気な声が、菱形のうっすらとした光明を打ち消した。
「……自分の事? 何の事だ? 」
「今言ったじゃないですか、自分でも意外と思うって」
星野は不思議な表情で仰ぎ見た。
「野郎が珍しいエモノ使った事だろうが」
「なんか話が噛みあっていませんね」
「お前こそ何を言っている」
「警部殿がこんなに高所恐怖症だったのが意外って話ですけど」
菱形は足元に居る星野を思いっきり踏みつけようと思ったが、下を見るもの嫌だし、勢い良く踏めば星野もろとも床が抜けてこの作業場が崩落するかもしれない恐怖心に襲われ出来なかった。その代わり大きく息を吸い込みイヤホンを外した。
「悪かったな! 」マイクがハウリングする程の大声を出した。
◇
ディスプレイからポンっと電子音が聞こえた。宮島はタイピングの指を止め「接続許可。宮島」と呟いた。ディスプレイに菱形のアップされた顔が映し出される。宮島は椅子の背もたれに背中を預けた。
「よう、捗っているか」
「タイミング良いですわね。こちらかもご連絡差し上げる所でしたわ」
「いい知らせか? 」
「お気に召すかどうかは分かりませんが。それより警部の方はどうした? 」
「狙撃対象のビルは特定した。後で星野からデータを送らせる」
「例の謎の目撃者情報は確かなようですね。そろそろ私達にもその方と会わせていただけませんか? 」
「情報源は刑事同士でも秘匿が原則だ。時期がくればお前にも教える」
「情報共有が合同捜査の鉄則では」
「普通のヤマとは違う。それにお前さん達を出し抜こうって訳じゃねぇ。信用しな」
「やや不服ですが、了解しました」
「分かりゃいい。で、そっちの方は」
「関係者で1名、生徒で1名。こちらでどうしても詰め切れない人物が浮上しました」
「関係者って、教師じゃないのか」
「非常勤で保健医をしている天海と言う女医です」
「佐村と関係しているのか? 」
宮島は首を横に振った。
「出身地や経歴、書類上は全て佐村とは無関係となっていますが、涌井が匂うと申していますの」
はっと短く菱形が笑った。
「刑事らしくなったじゃねぇか。何が匂うんだ」
「天海は帰国子女で9年前にイギリスの大学から日本の医大の3年次に編入しています。医師免許の他に臨床心理士の資格も持っています」
「ずいぶん優秀だな」
「ええ、ですがイギリスの大学のサーバにある天海の個人データに改竄の痕跡がわずかながらあります。それに海外での彼女の生活ぶりはあくまでも書類上でしか追えません」
「天海の両親は? 日本に居るのか? 」
「書類上父親とは5歳の時に死別。その後母親と共にイギリスに移住しましたが、その母親も天海の帰国前に病死。これは正式に確認されています。つまり天海を幼少時から知る人物は、この日本にはおりません」
「……成り済まし、か」
宮島は軽く頷いた。
「天海は3年前に長年空席だった学院の保健医になりましたが、それは建前上の話で、実はあるひとりの女生徒のカウンセリングをするのが目的だった事が分かっています」
菱形の目が鋭くなった。
「お判りになったと思いますが、そのひとりの女生徒と言うのが詰め切れていない人物です」
菱形は禿頭の頂上に掌を載せ、しばし黙った。
「天海って女医の住所をこっちに回せ」
「事情聴取に行かれるのなら今は出来ないですわよ」
「なんでだ」
「襲撃事件の影響で、学院の再開は夏休みを挟み10月末です。天海はその期間、国内旅行に行く申請をしており、正式に学院から許可を得ております」
「って事は自宅に行ったんだな」
「僭越ながら。この程度でしたら所轄を動かせばよい事です。そして案の定留守でしたわ」
「やるねぇ、お嬢ちゃん」
菱形はにっと笑ったが目は笑っていなかった。宮島は微笑みながら軽く頭を下げた。
「じゃあ女生徒の方は? まさか海外旅行に行っているって事は無いだろうな」
「その前にふたつ程お話ししたい事があります」
「なんだ? 」
「もしかして警部は佐村が女生徒に変装していると、お考えなのですか」
「さあな、それは後で分かるさ。なんせ相手はタカチホブラッドがアクティブだ。何が起きても驚かんよ」
菱形は即答した。
「次はなんだ? 早く言え」
「次は事前情報です。私たちがその女生徒を詰め切れなかったのは彼女のガードが
「どういう意味だ」
「彼女の名前は、小野寺葵。過去に法務大臣を務めた小野寺秋臣氏の孫娘です」
菱形は絶句した。それに佐村と小野寺と言う奇妙な繋がりを感じた。
「まさか圧力が掛かる話しじゃねぇだろうな」
「前にも申し上げましたが、それは愚問です」
「じゃあ何だ? 」
「小野寺葵に関しての個人データが全て改竄されており、その一部がカテゴリUTに属していてアクセス不可状態になります」
「こっちは素人だ、分かるように説明しろ」
「カテゴリUT、最重要国家機密又はそれに相当と判断されたドキュメント及びデータはその存在が絶対隔離されます。小野寺葵の出生から現在の至るまでのバイタルデータは基より学校での健康診断のデータまでの全てが改竄されており、元データはカテゴリUTとして処理されております」
「おい、ちょっと待て」
菱形は怪訝な声を出したが、宮島は止まらなかった。
「国防上の機密、国内外の諜報活動で入手した極秘情報、外国との裏外交交渉内容、もちろんタカチホブラッドの重要なデータも」
「そんな話聞いた事ないぞ」
菱形の眉間に皺が寄った。
「無論法律に定められたモノではありません」
「おい、お前何を言っているか、分かっているのか? お前だって警官……」
「『
「知るか! 」
菱形は大声を上げた。
「正論が人心平世を乱す事もある、と解釈してください。これは国民の知る権利と国家安全保障の狭間で産まれた鬼子の様な存在です。カテゴリ選別の判断は総理大臣と国家公安委員長、法務大臣により決定される事が歴代内閣の申し送り事項となっています。目下涌井が政府系全サーバにハッキングを試みてデータを浚っていますが、もう暫く時間を要します」
宮島は澱みなく、単調なトーンで話した。
菱形はまた沈黙したが、頭は沸騰しそうな程猛り狂っていた。
――なにおためごかし言ってやがる。結局は権力者に都合が悪い情報は隠蔽されても永遠に分からねぇって事じゃねぇか
菱形は大きく息を吸い、大きく吐いた。
「そこまで話したって事は、俺も引き込もうって魂胆か」
「それは違います。私達の間では情報共有が最優先。それでなければ信頼関係は築けませんわ。それに菱形警部なら、私の立場もご理解くださると、信じております」
「ほんとに喰えねぇ女だな」
「私以上に私の事を理解して頂き感謝申し上げます」
けっ、と菱形は悪態を付いた。
「………小野寺葵が3人目のアクティブって事か? 」
菱形の脳裏に、後藤の言葉が思い出された。
―彼女は、タカチホブラッドが、アクティブです
「断言できませんがその可能性はあります。その為にもハッキングを急がせます」
「カテゴリUTのデータが結局見つかりませんでした、って事はないだろうな」
「またもや愚問ですわ警部。情報は必ず浚えます。お任せを」
「大口叩きやがって。天海と小野寺葵の最低限のデータよこしな。カテゴリか何かしらんが小野寺の家の住所は分かるだろうが」
「両名の住所と小野寺葵の顔写真を転送します。くれぐれも慎重に」
菱形は宮島を睨みつけたまま無言で通話を切った。
モニタ画面は暗転しそこに宮島の顔がうっすらと映り込んだ。宮島は口角を上げ、髪をかき上げた。
「いいのか、ハゲにカテゴリの話までばらして」
宮島は声の方に視線を移した。そこには暗がりの中、パソコンに向かう涌井の後姿が見えた。カタカタと絶え間なくキーボードを叩く音も聞こえる。
「大丈夫よ、あの人には直球を投げた方がいいの。それに警官だし守秘義務もある。カテゴリの事が世に出る事は無いわ」
「宮仕えか。何が面白いんだ、そんなクソみたいな仕事」
「人それぞれよ。それよりカテゴリUTのガードは抜けそう? 」
キーボードの音が止まる。
「お前誰に口聞いている? 」
「あなたよ、ブラフマン」
「知っているなら聞くな、ビッチが。今度なめた口聞いたらテメェのクソ×××にタマぶち込むぞ」
キーボードを叩く音が、再び聞こえ始めた。
「その調子で続けて。隠し事があるのってやはり気持ち悪いわ」
◇
菱形は、木田総合病院の長い廊下で小野寺葵を呼び止めた。夏休み期間中だからか、病院の中は小学生くらいの子供の姿が多く、葵も背丈だけなら小学校の高学年生あたりとあまり変わらなかったが、水色のカーディガンと白と紺のボーダーのワンピースを綺麗に着こなし優雅に歩く姿は、明らかに他の子供達と一線を画していた。
今から30分前、小野寺家の前で張り込んでいた菱形たちは小野寺家から出てくるベンツを尾行し、木田総合病院に来た。ベンツの後部ドアの窓にはフィルムが貼られていて中の様子は分からなかったが、小野寺家の人間でその日家にいるのは葵独りだと宮島からの情報で事前に分かっていた。菱形は、葵が乗っていると当たりをつけ尾行した。車寄せから独りで病院の中に入っていく少女の姿を認めた時、菱形は車から飛び出し病院の中へ急行した。
「小野寺葵さん、ですね? 」
背後から声を掛けた。小さく細い体が止まる。そしてゆっくりと振り返る。小さな顔は強張った表情を浮かべ、綺麗な澄んだ目は警戒感に溢れていた。口元はキュッと閉まっている。菱形はざっと正面を向いた葵の全身を見た。
か細く華奢、が第一印象だった。身長体格からして、佐村が変装しているとは到底思えなかった。
「あの……どちら様でしょうか」
葵は一歩後ろに下がった。
「突然呼び止めて申し訳ありません。警視庁の菱形と申します。少しの間だけお話し伺えませんでしょうか」
菱形は警察手帳を広げ、顔写真を見せながらお決まりのセリフを言った。葵は手を口に当て小さく「まぁ」と声を出した。そして意外な言葉を発した。
「警察の方でしたか。良かった、お会いしたかったです」
安堵の声だった。
「会いたかった? 」
菱形は虚を突かれた。
「ええ、学院での事件の時大騒ぎでしたので、お礼も何も言えなかったものですから」
葵は背筋を伸ばすと両手を胸の前に添え、綺麗なおじきをした。その動きは可憐で洗練されていた。
「改めまして小野寺葵と申します。警察の方々には事件の時は助けていただき感謝しています。皆様のお陰でお友達や先生方が怪我も無く大事にも至りませんでした。本当にありがとうございました」
慇懃に礼を述べた葵は、はにかんだように微笑み、頬はほんのり赤くなっていた。
『なるほど、これが本物のお嬢様って奴か』会話の主導権を取られ内心で毒づきながらも菱形は微笑んだ。
「丁寧な言葉恐れ入ります。同僚の警察官たちにも伝えておきますよ」
「よろしくお願いいたします。でも今日は何のお話しでしょうか? 事件の事でしたらあの時は保健室で寝ていて、あまりお役に立てる話が出来るとは……」
「いえ事件の事ではなく、葵さんご自身の事をお聞きしたいのです」
「私の……ですか? 」
葵の瞳が丸くなった。
「ええ、唐突な質問ですが、3日前の午後1時頃、どちらにいらっしゃいましたか?」
「3日前……ですか? 」
葵は困った表情になる。
「3日前でしたら1日中家におりました」
「それをご家族以外で証明できる人はいますか? 」
「証明と言われましても。今家には私しかおりませんので……」
「お手伝いの方とかはいらっしゃらないのですか? 」
「お手伝いさん達はお盆休みを貰っていまして」
それも事前に宮島からの情報で菱形は知っていた。宮島から小野寺葵の件を知らされてから2日間、菱形たちは小野寺家に張り付いた。その間、葵を除く小野寺家に出入りする人間の動向や素性を徹底的に調べ上げた。
葵の両親は朝早く家から出勤すると帰宅は深夜になる。祖父の秋臣は現在北海道へ視察旅行で不在。身の回りの世話をする3人のお手伝い達も盆休みを貰い帰郷している。ただひとり、運転手の北岩だけが家に残っていた。その北岩と離れ、独りなった葵に直接話をする機会は今しかなかった。菱形は葵の表情と声の調子の変化に、全神経を集中させた。
「では5日前はどうですか? これもお昼頃の事ですが」
「確かその日も……家に居たと思います」
「この場所に見覚えはありませんか? 」
葵の言葉が終わらない内に、菱形は懐から写真を取り出し見せた。破壊される前のギターのオブジェが特徴的な『JET』があったビルの写真だった。
「いえ……存じ上げません。この場所が何か? 」
「大した事ではないんですけどね。ではあの事件以降、外出された事はありますか? 特に夜中とか深夜に」
「あの菱形さん……ご質問の意味が」
「夜中に外出しなかったと証言出来る人がいますか? 」
矢継ぎ早に質問した。葵は困惑した表情になり、目には少し恐怖も浮かんでいた。それは、14歳の少女の怯えそのものだった。
『わからねぇ』菱形は思った。宮島には佐村の女装を半分冗談で言ったが、半分は本気だった。佐村の中性的な美貌はその域まで達していた。だが幾ら女装ができても背丈を物理的に偽り、未成熟な女性の体のラインまでは出せない。菱形の目に映っているのは、強面の刑事の追及に戸惑い怯えている、普通の女子中学生だった。
では何故普通の女子中学生が国家機密並みの扱いを受けている?
それが不気味でもあり不可解だった。だが菱形の迷いは次の瞬間、打ち消された。
「私が証言します」
突然菱形の背後から声がした。振り向くと、数歩離れた所に北岩が立っていた。そのずっと後ろの廊下の角に、星野が半身を隠しながら両手でクロスさせ、大きくバツを出していた。
『足止めもできねぇのかよ』菱形は舌打ちした。
「小野寺家で運転手をしている北岩と言います。葵お嬢様は事件後、今日を除いて外出した事はございません」
「警視庁の菱形です」菱形は軽く頭を下げた。
「初対面の方に失礼かと思いますが、それを証明する事はできますか? 葵さんは家には誰も居ないと言っていましたが」
「菱形さん、ここは病院内で公道ではありません。お嬢様は今日定期検査の為にこちらに来ました。明らかに蓋然性のない、それも未成年者に対する職質は行き過ぎではありませんか」
北岩は菱形の質問に答えなかった。
北岩の口調は穏やかだったが、菱形へ向けられる視線は明らかに敵愾心が見て取れた。
「もし警察として正式にお嬢様へ尋ねたい事があるのでしたら、小野寺家の了解を得てください。秋嗣様も聡子様もご理解のある方です。無碍には断らないでしょう」
菱形は首の後ろに右手を廻しパチンと叩いた。
「おっしゃる通りです。少し度が過ぎました」
菱形は身体の向きを変え、葵に頭を下げた。
「無礼をお詫びします。申し訳ない」
「いえ、そんな」
「葵お嬢様、木田先生がお待ちです」
「ええ……」
葵は戸惑いつつ、頭を下げたままの菱形の横を通り過ぎて行った。
「ごめんなさい」
葵のか細い声が聞こえた。
ふたつの足音が遠ざかっていく。菱形は頭を下げたまま、その音を聞いていた。
◇
「北岩を止められなくてすいませんでした」
星野が殊勝にも謝罪の言葉を口にした。木田総合病院から警視庁に帰るまでの道中、菱形はひと言も話さなかった。それを菱形の怒りだと察した星野が謝ったが、菱形は返事をしなかった。
「あの……警部。怒っています」
菱形からの返事は無い。気まずさが増す。
「あの……」
「分からねぇ」
「え、何です? 」
「分からねぇ」
「分からないって、何がです? 」
「あぁなんだ? 」
「いえ、あの……北岩を止められなくてすいませんでした」
「ああ、その事か。仕方あんめぇ」
菱形は北岩の素性を宮島からの報告を見た時から厄介だと感じていた。
北岩尊。元公安部外事課警備係出身の『元刑事』。宮島の報告では警備係とは名ばかりで、実態は対テロ組織の『実力行使部隊』。北岩はその部隊長をしていた男だった。一身上の理由で除隊及び依願退職。北岩がSP時代に面識のあった小野寺秋臣に請われ、小野寺家の運転手になったのが7年前。運転手と言うより小野寺家、特に今は葵の警護が主目的だろうと、菱形は思った。
公安出身で部隊長を務めた元刑事が葵に張り付いていては、その接触は容易でなない。宮島の言っていた『葵の実生活上もガードが強固』の意味が分かった。だから葵が独りになった時を狙ったのだが、菱形を悩ましたのは北岩の存在だけではない。
葵の反応だ。菱形は悪党が吐く嘘や必死の演技を、長い事見続けてきた。生半可な嘘や態度は菱形には通用しない。徹底的に作り込んだ嘘や、自分自身でも嘘と真実の境界が分からなくなった嘘つきでも、何処かに綻びや動揺が出る。特に目の動きと顔の表情は言葉以上に雄弁だ。だが葵が菱形に見せたそれらは、菱形の質問に対する心からの困惑、戸惑い、そして怯えだった。葵が佐村本人でないことは分かった。だが3人目のアクティブなのか、菱形には判断できなかった。
――分からねぇ。菱形はそう呟いた後、「おい、オモチャよこせ」と声を張り、言った。
「タブレットの事ですか? 」
「いいからよこせ、早くしろ」
星野は車の流れを見てハザードを出し、路肩に停車した。後部座席に置いてあったカバンからタブレットを取り出し、スリープ解除して菱形に渡した。菱形はアニメキャラの宮島のアイコンを押す。暫くしてポンっと音が鳴り画面に眼鏡を掛けた宮島が現れた。
「おう、よろしくやってるか? 」
「今の所順調です。小野寺葵には接触できました? 」
「会ったぜ、最後まで詰め切れなかったがな。だが、葵が佐村の変装ってのは俺の考えすぎだった」
「それを確認出来ただけでも前進と捉えましょう」
「温かい言葉で泣きそうだな。まあいいさ、その事で頼みがある」
「何なりと。警部のお頼みでしたら喜んで引き受けさせて頂きますわ」
「お前さんの得意分野をやってもらいたい」
「色々ありましてすぐには思いつきませんわ。なんでしょう」
宮島は片えくぼを作った。
「偽情報流すの得意だろ。それと人を顎で使うの」
「それでしたら得意分野ではなく、趣味と実益を兼ねた本業ですわ」
「口の減らねぇ女だな。ま、どっちでもいいさ。その本業に俺も混ぜろ」
「喜んで」
宮島は両頬にえくぼを作って微笑んだ。
◇
「先ほどはありがとうございました」
動き出したベンツの後部座席から、シートベルトをしていない葵が、北岩に言葉を掛けた。
「いえ、筋を通しただけです。相手も物分かりが良くて助かりました」
北岩はバックミラーを見た。葵はそれに気づき会釈した。
夏休みの国道は空いていて、その中をベンツは静かに走る。車内もまた静かだった。
「何もお聞きにならないんですね」
葵が沈黙を破った。北岩は黙ったままだった。
「どうしてあの刑事さんは私の所に来たのでしょうか」
北岩はまだ答えない。
「お答えにもならないんですね。では質問を変えます。どうして北岩さんは嘘を吐いたのですか? 」
信号が赤になりベンツは停車した。バックミラーで葵を見る眼光は鋭くなっていた。
「どうして嘘と? お嬢様が外出をしていないと、おっしゃったのですよ」
「そうでない事を北岩さんなら気付いているのでは」
葵は上品に微笑んでいた。北岩はゆっくりと口を開いた。
「お嬢様。私は秋臣様に大恩がございます。そのご恩に報いるため小野寺家に身を捧げ、そしてそれと以上に葵お嬢様をお守りする事が、私の恩返しと心に決めております」
葵の微笑みは消え細い指が口に添えられた。
「私からは何も申しません。ですが、もしお嬢様が秋臣様たちにも言えない悩み事がありましたら、北岩にだけはお伝えください。私はお嬢様の味方です」
葵は俯き両手で顔を覆った。華奢な肩が揺れている。
「お嬢様、過ぎた言葉でした。申し訳ありません」
北岩は伏し目になり、バックミラーから視線を外した。
クククと低い笑い声が聞こえる。幻聴か……北岩は耳を疑った。笑い声は後ろから聞こえてくる。バックミラーを見た。葵の体は細かく震えている。北岩の眉間に皺が寄る。笑い声は葵から聞こえてくる。北岩がそれを認めた次の瞬間だった。
ぎゃははっははは。飛び上がるように体を仰け反らせ下卑た大きな笑い声をだした。笑い声は止むことなく車、内に反響した。
「最高だよ北岩さん。あんた最高の犬だ」
ようやく笑いを止めた葵は脚を組み、顎を少し上げてバックミラーの北岩を見た。葵の上品な笑顔がバックミラーに写る。
「……お嬢様」
「あのハゲが来たって事はあいつの事もバレてるかもしれねぇな。丁度いい、北岩さんあんたが俺の足になってくれ。それにしても予想より早かったな、日本の警察は優秀だ」
葵の突然の豹変に北岩は言いようの無い恐怖を感じた。だがバックミラーで見る葵の顔は北岩の知る葵以外の何物でもなかった。
「ホントあんたの嘘は助かったぜ。あいつしつこいんだよ。演技するの結構難儀だしな。でも意外だったな、あんたが嘘を吐くなんて。葵お嬢ちゃん愛されているねぇ」
北岩は言葉が出なかった。
「葵お嬢ちゃんの部屋にセンサーあるのは気付いていたぜ。誤魔化す事も出来たがあんたの出方も見たかったしよ。夜遊びも見逃して俺のアリバイの偽証もした。これで俺とあんたは共犯だ」
『俺』と言う言葉に北岩の心の底が反応した。
「……誰だ、お前」
北岩は鋭い視線で葵を睨んだ。
「いいね、その眼。さすが元公安のデカさんだ。部下の復讐でゴミを始末した時もそんな眼だったのか? 」
上品に微笑んでいる葵から発せられたその言葉に、北岩は驚愕した。
――何故知っている? あの作戦は国家機密で外部には絶対に漏れない筈だ。
北岩は息を呑んだ。
「人殺す時って興奮するだろ。特に復讐の時は格別だ、なにせこっちは正義と言う大義名分がある。それに鍛錬してきた技のリミットを外して相手を屠る。抑えつけて来た力の解放はお前らが『いつかどこかでやりたい』と望んでいた事だろ。気持ちよすぎてドバっと射精しなかったか? 」
「葵お嬢様は、そんな言葉づかいはしない」
北岩は冷静を保ちながら混乱していた。葵と同じ顔をした別の生き物が汚い言葉をぶちまけているようで、不気味で奇妙な感覚に陥る。
「でもこれもオツなもんだろ、ギャップあって。それにお前、お嬢様お嬢様って言っているが『女』として見ていただろ。これだけ可愛けりゃ仕方ないか。いいぜ、ヤッても。今はピル飲んでいるから、やりたい放題だ」
「止めろ。これ以上お嬢様を……汚すな」
北岩はシートベルトのロックを密かに、外した。
「我慢すんなよ。まだガキの身体だが結構イイモン持っているぜ、俺も楽しみたいし、何なら車の中でヤるか」
葵は脚を戻すと腰を浮かしスカートをたくし上げ始めた。
貴様!
北岩は荒々しくシートベルトを払いのけると、左手を右懐に突っ込み、素早く体を捻った。
「おいおい、葵お嬢様に何抜こうとしてんだよ。俺はお嬢様でヌケつったんだよ」
北岩の耳元で葵の声がした。同時に首筋に刺す痛みを感じる。葵の細い右腕が北岩の首に巻きつき、逆手に持ったシャーペンが頸動脈に突き当てられていた。そして細い少女の腕と思えない程の怪力でヘッドレストに押し付けられた北岩の頭は動かない。気道も潰されそうだったがどうにか息は出来た。
北岩はバックミラーを見た。葵の姿は後部座席にいなかった。ストレッチリムジンの車内は前席と後部席の間は通常の車より広い。その距離を葵は一瞬で詰めた。
『見えなかった……俺が反応できない……』
北岩は苦しい呼吸の中、戦慄した。
「物騒なものから手を離せ。それにもう青信号だぜ。後ろの車にも迷惑だろうが」
北岩は前を見た。信号は既に青になっていて、クラクションの音も聞こえて来る。北岩はゆっくりと左手を懐から抜いた。直後首を絞めつけていた力が抜け、絞られていた気道が元に戻った。北岩は咳き込んだ。
「とりあえず家に戻れ。道中少しだけ話してやるよ」
いつの間にか葵は後部座席に戻り脚を組んで座っていた。北岩は乱れた息をゆっくりと整えながらアクセルを踏んだ。
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