8・邂逅

 1.『邂逅』

 夏の日差しがアスファルトの歩道を焦がしていた。つば広の白い帽子を目深に被り、白いワンピースに水色の日傘を持った葵が、古ぼけたビルの前に立ち上を見ていた。視線の先には、ビルの壁面に貼り付いている大きなギターの看板がある。古ぼけたビルに相応しくギターの看板も塗装は剥げ、弦を表現しているネオン管も割れている箇所が多数あった。

 葵は日傘を畳みビルの中へと入っていった。ビルの入り口は狭く一歩中に入ると薄暗く、饐えた臭いが充満していた。葵は只でさえ狭い廊下の両側に積まれているビールケースを避け、廊下の先にある階段を上がっていった。

 薄暗く狭い階段の先にあった扉を開ける。カランコロンとドアベルの音が鳴った。

「準備中だ、夜に来てくれ」

 床にモップを掛けていた小太りで白髪の混じった長髪を後ろで束ねた男が、葵も見ずに言い放った。部屋の壁際には、丸いテーブルの上に丸椅子が乗せられていた状態で並んでいた。入ってきたドアの右手には、ステージがありドラムセットとその傍らにギターが2本立掛けられていた。ステージの反対側にはバーカウンターがあり、その奥の棚には酒瓶が並べられていた。バーカウンターの天井には、2mを超える大きさの爆撃機の模型が吊り下げられていた。

 葵は男の言葉を無視して、バーカウンターに向かって歩き始めた。傷だらけの床に葵のサンダルの音が響く。

「聞こえないのか? 準備中だ」

 小太りの男は振り向きながら次の言葉を言おうとしたが、葵の姿を見て怪訝な顔に変わった。

 葵はバーカウンターまで来ると、座面が高い椅子を引き、軽快な動作でそこにちょこんと座り、日傘と帽子を隣の椅子に掛けた。タバコの焦げ痕が無数にあるカウンターには陶製のコンポートがありリンゴが4個載っていたが、表面は所々黒ずみが広がっていた。

「久しぶりマスター、お元気? 」

 葵は背中を向けたままカウンターに右ひじを置いた。

「お嬢ちゃん、店間違えてないか」

「此処『JET』でしょ? 6年前ハッパ売ってガサ入ったし、その前はエル売っていた。今も売っている? 」

「……お前、誰だ? 」

 小太りの男はモップを握り締めて葵の背中を睨んだ。

 葵は顔を横に向け、流し目で後ろを見ながら佐村の声を出した。

「佐村だよ。預けていたブツ、取りに来た」

     ◇

「お忙しい所すいません」

 菱形は診察を受ける様に、丸椅子に座り月岡と対面していた。星野はその後ろに保護者のように立っていた。

「いえ、丁度暇していましたから」

 月岡はボールペンを机に置いて菱形達に向きなおした。

「車の事で聞きたい事があるとか」

「車の事と言うより、おい」

 菱形は後ろに居る星野に合図した。

「先生の行動についてお聞きしたい事があります」

 タブレットを操作しながら、星野が箇条書きの文章を読むように淡々と、日付と時刻、場所を言った。

「今申し上げた場所に、同じく申し上げた時間に行かれましたか? 」

 チッと小さく舌打ちすると「固いんだよ、いつもいつも」菱形は小声で呟いた。

「すいません、こいつまだ新人なもんで。でもまあ用件はお聞きの通りです。ご存知かもしれませんが2日前に起きたイノセン社の事件を調べている過程で犯行時刻と思われる時間にイノセン社付近を先生の車が走っているのが確認されまして。もしかしたら先生が何か不審車とか不審人物とか、まあ不審なモノを目撃していないかと」

 菱形は、人懐っこい笑顔を浮かべながら聞いた。

 はあ、と月岡は生返事をした。

「確かにその時間帯にドライブをしていましたが、まさかイノセン社の付近を走っていたとは。あれは恐ろしい事件でしたね」と無表情で答えた。

「ええとても恐ろしい事件です。ですから何か手がかりになる事を調べているのですが、ご協力頂けませんか? 」

 月岡はまた、はぁと気の無い生返事をした。

「それと、何故その場所に行ったのか、理由があれば教えていただけますか? 」

 菱形は笑顔を崩さなかったが、両目は月岡の表情の微妙な動きを見逃さまいと、鋭かった。

「理由と言っても……まあ簡単に言えば、ストレス解消ですね」

「ストレス解消……ですか」

「毎日毎日他人の内臓を見ていると、時たま無性に車で走り回る衝動に駆られるんですよ。今も腎臓に出来た腫瘍の画像見ていたんですが、刑事さんも見ます? 」

「いえ、内臓系はちょっと……」

 菱形はあからさまに嫌な顔をした。

「先生のお仕事は分かりました。話を元に戻すと、只のドライブだったと言う事ですか? 」

「ええ、結果的にそうなりますね」

 菱形は、じっと月岡の顔を見ていたが、銀縁の眼鏡の奥の目に動きは無かった。

「では不審人物とか、何か異変を感じた事はありませんでしたか? 」

「んーあんまり意識していませんからね、何せドライブですから」

「そうですか」

 菱形は月岡が捉えどころのない人間だと感じていた。

「それでは」菱形が身を乗り出して何か言い掛けた時、電子音が鳴り響いた。

「失礼」

 月岡は机の上にあった携帯を掴むとすぐに電話に出た。

「はい、どうした」

 菱形は姿勢を元に戻した。

「え? いや……今は……いや、ちょっと待って」

 菱形の目付きが鋭くなった。今まで感情の起伏を見せなかった月岡が、微妙ではあるが狼狽の表情を浮かべていた。月岡は椅子を廻しマウスを掴むとモニタを見た。そこには心電図の様な波形が表示されていた。

「うん、飲んで。何時もより低い値だけど……そう。痛みはある?うん、無理しないで」

 月岡は携帯の通話口を押さえた。

「刑事さん、すいませんが急用が出来たので今日の所はお引取り願いませんか? また別の日にお話を」

「急患ですか? 」

「ええ、私の担当している患者さんが、ちょっと……」

「それは大変ですな、では続きは後日と言う事で」

 菱形は立ち上がった。

「連絡差し上げてから伺いますが、もし何か気づいた事があれば、さっき渡した名刺の裏にある番号までご連絡ください。私個人の携帯番号ですので」

 月岡は頷いた。表情は平静を保っていたが、菱形達が来た時とは明らかに違っていた。

「では」と一言残し菱形と星野は診察室を後にした。

「病院って、携帯は禁止じゃなかったか 」

 リノリウムの白い廊下を歩きながら、菱形が聞いた。

「普通は病棟専用のピッチ使いますよ。それに多分さっきの月岡先生個人の携帯ですよ。町医者じゃあるまいし、患者が直接電話してくるなんてないですよ」

「だよな。先生の車のナンバー、押さえているか? 」

「勿論。該当車両が地下駐車場にあるのを確認しています」

「上出来だ」

     ◇

「本当にお前なんだな」

「信じてもらえて何よりだよ、マスター」

 葵はグラスに入ったトマトジュースを飲み干すと氷をガリガリとかじった。

「信じると言うかどう言えばいいのか……それにしてもまさか女に生まれ変わるとは」カウンターの向こう側でマスターは困惑が混じった愛想笑いを浮かべた。

「可愛い女の子に生まれ変わったでしょ? 」

 葵は笑顔を見せて空になったグラスを差し出した。

「お代わりくださる? 」

「あ……ああ」

 マスターは腰を屈めカウンターに消えるとカウンター下にある冷蔵庫から紙パックのトマトジュースを取り出した。

「氷はどうする? 」

 葵は首を横に振った。マスターはグラスにトマトジュースを注ぎ始めた。

「隣の食堂、無くなったんだね」

「お前が捕まってからすぐか、あそこの婆さんが体調崩してな。死ぬなら自分の国で言って故郷に帰ったよ。お前あそこ気に入っていたからな」

「もう一度あの小龍包を食べたくて生まれ変わったのに」

 マスターはガハハと笑ってなみなみとトマトジュースが注がれたグラスを葵の前に差し出した。

「預かっていたエモノ、どうする? 今日持って帰れるのか? 」

「ちょい使う用事が出来てね。何時までも預けておけないし」

 葵はトマトジュースを半分ほど飲むとグラスを置いた。

「分かった、ちょっと待っていな」

 マスターはカウンター横にあるドアを開け、中に消えていった。

     ◇

 後藤は息を切らして、周りを見回した。猛暑日の昼下がりの街は、人通りも少なく、見えるビルの並びも地面からの照り返しで陽炎に揺れている様に見えた。

 吹き出る汗も拭かず、通りの左右のビル郡を見て、自分の脳内イメージと照合する。

「違う、ここじゃない」

 後藤は大きく息を吸い込むと、周りの気温よりも高い温度の息を吐き、目を閉じた。

 ――あの建物の場所、思い出せ

 後藤は自分が『見た』映像をもう一度強くイメージした。

 ――ギターの看板……見た事がある

     ◇

「お前にしては珍しいエモノ欲しがったな」

「ちょっと気分を変えようと思ってね」

 葵の前には、茶色の防錆紙にくるまれている細長い棒状の物体がふたつ置かれていた。ひとつは葵の両手を広げた長さで、もうひとつその半分程の長さだったが太さは倍以上あった。葵は長い方に手を乗せた。掌には、防錆紙を通して包まれている物体の硬質感が伝わってくる。

「モノは確か? 」

「刀の方はお前の注文通り。材質が問題だったが、そこは金さえ積めばどうにかなった」

「素晴らしき資本主義」

「全くだ」

 マスターは黄色く脂ついた歯を剥きだして笑った。

「だがもうこれだけだ、大切に扱えよ。これを作れた爺さんは、お前がムショに居る時に死んだよ」

「それは残念、でもいつか人は死ぬから、仕方ないさ」

「宇宙の真理だな。そっちの長物はロシア製だ。構わないだろ? 」

「うん、あまり使わないから構わないよ」

「調整はそっちでやってくれ」マスターはカウンター下から手提げバックを取り出し、カウンターの上に置いた。葵は静かに頷いた。

「刀、見ていい? 」

「お前のだ、好きにしろ」

 マスターは、グラスにワイルドターキーを注いで飲んでいた。

 葵は最初に手を置いた細長い棒を手に取り、包んでいた防錆紙をガサガサと取り外した。紙が床に落ち、その中からアルミ削り出しの様な無機質な銀色の鞘が現れた。鞘の下方には、操縦桿の様なグリップが付いていて、葵はそれを握りそのまま真横に引き抜いた。銀色の鞘から、オフマットブラックの刀が現れる。刃渡り1mはある両刃の刀で、刀の中央は、細い一筋の光の様に金色に輝いていた。

 葵は鞘をカウンターに置き、椅子から降りると部屋の真ん中辺りまで歩いた。黒い刀を軽く振り上げ、ひゅんと振り下ろす。

 葵は剣舞をするように無軌道に刀を振った。切っ先が空間を切り裂く様に、シュシュと、軽い音が鳴る。それに呼応して白いワンピースのスカートも軽やかに舞う。

「マスター、リンゴ投げてくれる? 」

 葵は剣舞を終えると、カウンターバーの向こうに声を掛けた。

 マスターはコンポートからひとつリンゴを取り上げ、躊躇いも無く葵に向けリンゴを力強く投げつけた。直線で飛んでくるリンゴが葵の体に当たろうとする直前、葵の体が消え空間を切り裂く音だけがした。リンゴは床に落ちると数回転がってから止まり、真っ二つに割れた。

 葵はいつの間にか椅子の横に立っていた。マスターは少し驚いた表情をしたが、すぐに脂ついた歯を見せた。

「どうだ? 」

「いいね。想像以上」

 葵は鞘に刀を納めカウンターバーの上に置いた。

「だろ? 」

 マスターは満足そうな表情をした。

「こっちもお前が女に生まれ変わって刀を振り回す姿見る事になるなんて、想像以上だ」

 葵は軽く飛び上がり、ちょこんと椅子に座った。

「その話だけどね、マスター」佐村の声に変わった。

「ん? 」マスターはまたグラスに琥珀色の液体を注いでいた。

「今の俺の名前は小野寺葵。小野寺元法務大臣の孫娘、って言った方が分かりやすいね」

「そりゃまた運命的な事だな。確かお前の死刑執行の時の法務大臣だろ」

「あぁ、とても運命的」

 葵の目は対照的に細くなった。

「この事を知っているのはふたりだけ。ひとりはマスター、もうひとりはマスターも知らない人」

「そんな秘密をお前と共有できて光栄だな」マスターはグラスに口を付けた。

「マスター、水道管に穴があったらどうなると思う? 」

「はぁ、何? 水道管? 穴? 」

「そう」

「そりゃ水が漏れるに決まっているだろ」

「穴が2カ所あったら? 」葵はグラスに残っていたトマトジュースを口にした。

「2カ所から漏れる、だろ」

「どうすれば水は漏れない? 」

「どうすりゃって、塞げばいいだろ、穴」

「そうだね、それ以外に方法は無いよね。でもね、ひとつの穴の手前には元栓があってそれを回せば水は止まるんだ。問題はもうひとつの穴、そこには元栓が無い」

「じゃあやはり穴塞げばいいだろ。水道屋にでもなるつもりか? 」

 マスターは戸惑いの表情を浮かべた。

「人間社会も一緒だよね。人間って言うか情報社会かな。水道管は人間で、流れている水は情報。穴は、そう口に当たるね」

 マスターはグラスをゆっくりとカウンターの内側に置いた。佐村に気取られぬ様、視線を下に向ける。視界の右下端に鞘が無い果物ナイフが見えた。それは手を伸ばせばすぐに取れる位置にある事を確認した。

「穴……か。ふふ」

 葵は笑った。

「なんの捻りも無い面白くもない下ネタ、美少女から聞けたら嬉しい? 」

 マスターは無表情を装った。が、背筋に冷たい汗が走るのがわかる。佐村に気づかれないよう、カウンターの下で右手を開き、咄嗟の動きが出来るように構えた。

「聞いていいか? 」

「下ネタの続き? 」葵は嬉しそうに聞き返した。

「武器の調達はどうするつもりだ? 売人から仲買まで俺抜きじゃ何も手に入らないぞ」マスターは葵を睨んでいた。

「佐村が復活した、それだけでスポンサーになる人は多いんじゃない? 俺人気あるみたいだし。でもさマスター、俺が居ない間に内緒で俺の持ち物、売っていたでしょ。あれはまずいよ、せめて弁護士にでも話し通して俺の取り分、相談してもわらないと」葵はケラケラと天井を仰ぎ見て笑った。

 マスターはカウンターバーに置かれた刀を左手で乱暴に払い飛ばした。トマトジュースが注がれていたグラスも同じ方向に飛んでいく。それと同時に右手で果物ナイフを掴み、身を乗り出して佐村に向かい、力強く刃先を突き出した。

 果物ナイフの先端が葵の体に届く直前、葵はくるりと体を回し椅子から飛び降りた。

 長い黒髪が開かれた傘の様に広がる。

 床に着地すると同時に葵は体を捻り、隣の椅子に置かれていた日傘の柄を掴み、親指で柄についているボタンを押した。

 しゅるるっ、としなりながら、日傘の柄の中から細長い剣が現われた。

 葵は更に加速をつけ、細い腰を捻り上半身を回した。横一直線に剣閃が引かれる。

 マスターは、カウンターバーに乗り出していた身を急いで引いた。右手方向から。何かが飛んでくるのが分かる。

 ぴゅん、と細い枝が空を切る音がして、ぎりぎり目の前を何かが通り過ぎた。

 マスターの視界に、回転を止めた黒髪が風に舞うカーテンの様に顔を覆っている中で微笑んでいる葵の顔が見えた。その刹那マスターは眼球に激痛を感じ視界が一気に消えた。果物ナイフを放り投げ両手で目を覆ったが、眼球の激痛は更に高まっていった。

「これ仕込み杖なんだけどさ、か弱い女の子だから護身用にと思って。まさか幾ら俺でもナイフ持って街中歩けないし、日傘ならカモフラージュになるし」

 葵は傘の取っ手を持っている右手を振った。ひゅんひゅんと鞭の様に細い剣がしなった。

 マスターの叫び声が部屋に響き渡った。マスターはカウンターバーの中でのた打ち回る。暴れる体が棚に当たり、酒瓶とコップが床に落ち、音を立てて砕け散った。

「目ン玉、さっくり行ったから痛いでしょ」

 葵は日傘の柄に剣を仕舞いながら、遠くの床に落ちている刀の方に近づいて行った。

「どんな風に見えた? アニメだとさ、風景が上下に別れるじゃん。あんな風? 」

 葵は刀を拾い上げた。

「そんな訳、ないか」

 葵は刀を抜く。周りの光を吸収したかのような黒い刀が現われた。

 マスターは床に四つん這いになって出口を目指していた。掌や膝は飛び散ったガラスの破片が突き刺さり血だらけになっていた。目を閉じようとしたが、瞼を動かすだけで言葉にならない程の激痛が走る。視界を奪われたまま、マスターは棚とカウンターバーに挟まれた酒臭い狭い空間を、もがきながら必死に逃げようとした。

 カシャと砕けたガラスを踏む音が前方から聞こえた。マスターは見えない目のまま、反射的に顔を上げる。

「今までの付き合いもあるし、感謝も込めて切るね」

 屈託のない佐村の声が、頭上から聞こえてくる。

「ぐ……ぁ……」マスターは喉の奥から、怯えた声を絞りだすのが精一杯だった。

 ――ざん

 真っ直ぐ振り下ろされた刀がマスターの頭蓋を縦に割った。後頭部から入った刀は、最初頭蓋骨の部位だけ軽い抵抗を受けただけで、そこを抜けると最後の砦の硬膜をあっさりと切り裂き、豆腐のように柔らかい大脳へ進入した。黒い切っ先は後頭葉と頭頂葉、脳幹、前頭葉を分断しそのまま眉間から抜け、マスターの顔面をふたつに分けた。

 一瞬で生命維持を司る場所を切断され、痛みを感じる暇も無く四つん這いになったまま、マスターの体は床に崩れ落ちた。葵は両刃に着いた血を吹き飛ばす為、刀を振った。

「服に血が着いてない……ね。完璧」

 葵は刀を鞘に収め、白いワンピースを見回しながら言った。

     ◇

「自宅方向とは反対方向ですね。ますます怪しい」

 星野はエアコンのスイッチに手を伸ばしたが、菱形の繰り出す素早い右手に払いのけられた。

「ちゃんと前見ろ」

「見ていますよ。いい加減エアコン点けましょうよ。暑くてしょうがない」

「窓開けているだろ」

 確かに窓は開けられているが、入ってくるのは車内の気温より多少低い風だけだった。それすらも車が流れている時だけで、軽い渋滞や車が停止すると排気ガス臭を伴った熱風がたちまち車内に流れ込んで来る。

「見失ってもNシステムとナビが連携していますから、都市部なら所在はすぐに分かりますよ」

「機械なんざ信じられるか」

 菱形は険しい目で、一台の車を挟んで前方を走っている赤いボルボから目を離さないでいた。

「ほんと原始人」星野は小声で呟いた。

「なんだ? 」

「いえ、何でも無いです警部殿」

 月岡は菱形達と別れた後、数分も経たない内に駐車場から赤いボルボに乗って病院を飛び出していった。その後を菱形達はぴったりと尾行していた。

 ボルボは赤信号に変わる寸前の交差点を通過し、隣町に通じるバイパスに乗った。片側2車線のやや広い車道は、夏休みもあってか走っている車も少なく、菱形達は尾行に気づかれぬよう車間距離を開けて月岡を追った。

「警部は本当に佐村が生きているとお考えですか? 」

 星野の言葉には、いつもの軽い調子は無かった。

「正直わからん。だが佐村しかできない犯行だ」

「差し出がましいようですが、イノセン社が佐村のクローン作製に成功していて、あの佐村の亡骸がそのクローンだと警部がお考えでしたらそれは完全に間違いだと申し述べておきます」

「……俺もそこまで馬鹿じゃねぇよ」

「それを聞いて、あれ? 停まりそうですよ。どうします? 」

 ボルボのハザードランプが点滅し、路側帯に寄っていくのが見えた。

「やり過ごして適当な所で停めろ」

 菱形はそう言って自分の体を深く助手席に沈め、窓から自分の体が隠れるようにした。菱形達の車がゆっくりとボルボの横を通り過ぎる。菱形は横目で運転席にいる月岡を見た。月岡は携帯を片手に何か喋っていた。声は当然聞こえて来なかったが、菱形は月岡の表情が強張っているのを見逃さなかった。

     ◇

 肺が痛く感じるまで息を吐き、次は腹の奥底まで空気が満たされるまで息を大きく吸い込んだ。心臓の鼓動も脈拍も早鐘の様に打っている。だがそれは自転車で全速力疾走したからではない。後藤は月岡に処方された2種類の薬を、あえて少なめに飲んだ。万が一の時を考え、心臓の激しい鼓動をわざと抑えないままでいた。身体の痛みもあるが、我慢できない程ではない。

 後藤は薄々分かってきた。この激しい鼓動と身体の痛みは、タカチホブラッドがアクティブになっている証だと。この現象が起きた時、身体の奥底から力が噴出してくるのを実感する。そして、異常に感じるほど思考が鮮明になる。今も自転車を漕いできたが、ここまでの数キロの距離を、バイク並みのスピードで次々と車を抜き去り、疾走していきた。その間、後藤は疲労を全く感じず、突然車線変更してきた車も、その動きが事前に予測でき、易々と危険回避が出来た。僅か数分の事だが、後藤はその驚きの感覚に、アクティブになったタカチホブラッドの力を感じていた。

 後藤はハンカチで顔面の汗を拭った。視線の先には、車道を挟んで大きなギターの看板が壁面に張り付いている古ぼけたビルがあった。

 後藤はもう一度深呼吸をする。目を閉じて、脳裏に飛び込んで来た『風景』を思い出す。ギターの看板のビル、薄暗く狭い階段、傷だらけの床、髭の男。

 そして、殺人。

 後藤は身が震える。それは殺人現場を見たからではない。強烈な思念が電流となり、脳幹から全身を駆け巡っていた。これも、目覚めたタカチホブラッドの力だ。

 ――強烈な思念。

 それは憎悪でも復讐心でも恨みでも無い、一点の曇りも無い純粋な殺意と、自分が人を殺めてしまったという絶望的な恐怖だった。この全く相反する矛盾したふたつの思念が混ざり合い複雑に絡み合いながら、堰を切った濁流の様に後藤の脳の中枢に流れ込んでくる。

 純粋な殺意は信じられない程の恍惚感を持って、快楽と言う魔物に変身し、性的絶頂やスポーツの達成感以上の、強力なエクスタシーを感じる悪魔的な黒い魅力に満ちていた。

 絶望的な恐怖は、骨を打ち肉が切られる程の痛みを伴い、深海の底に居るかのような孤独が支配していた。この絶望感は身体の細胞ひとつひとつを黒く染め、2度と立ち直る事はないダメージを刻み付ける。

 甘美な殺意と、漆黒の絶望。その境界線上に後藤は居た。もしこのふたつのどちらかに一歩でも踏み出せば、その足元は崩れ自分は奈落の底まで落ちていく。そんな綱渡りな極限の緊張感が、皮肉にも後藤を正気に留まらせていた。だが心と精神は明らかに消耗し、いつまで自分を保てるのか、自信がなくなりつつあった。後藤は更に深呼吸をして、今の自分を確かめた。

 ―行こう。今度は止める。

 決意を固め、自転車のペダルを踏む。ビルを目指し、日差しの降り注ぐ車道を渡った。

     ◇

 後藤がギターのオブジェの下にあるビルの入り口近くに自転車を止め降りた時、スマホが鳴った。後藤はジーンズの後ろポケットからスマホを取り出した。画面には『月岡』が表示されていた。

「建物、見つけました。今から中に入ります」

 通話ボタンを押すなり、後藤は前置き無しに喋った。

「待って、待ってくれ」

 月岡は早口になっていた。

「心電図でも確認した、薬は飲んだかい? モニタリングは続けているけど、まだ正常値に戻っていない」

「飲みました。でももうあんな思いをするのは嫌です。これで終わらせたいんです」

「僕が行くまで待ってくれ。それに君だけで何が出来る? 」

「分かりません。でも手遅れになる前に行かないと」

「落ち着いてくれ。手遅れかどうかはまだ分からない。それにこの前のように事が終わっていたらどうする? 意味が無い」

「でも行かなきゃ分かりません」

「今日警察が僕の所に来た」

「え? 」

「僕の車がイノセン社近くを通ったのが分かったみたいだ。警察の捜査線上に僕等は居る。いや今は僕だけかもしれないが何れは君にも辿りつく筈だ。もし君が……」

 その時、後藤は息を呑んだ

 ――何か来る。

 それは異様な気配だった。視界の片隅に動く白い影を感じ取る。薄暗い廊下の先から、その白い影は異様な圧力を放射していた。

 ――幽霊?

 後藤は最初そう思った。

 白い影はゆっくりと入り口に向かってくる。

 やがてそれは形を成してきた。薄暗い廊下の先から現われたのは、少女だった。

 うつむいた顔は、白いつば広の帽子に隠れて見えなかったが、帽子と合わせた白いワンピース、右手には折畳まれた水色の傘。左手には黒く細長いスポーツバックを持った、確かに少女だった。

 月岡がまだ喋っていたが、後藤のスマホを持った手がだらりと下りた。

 少女は歩みを止める事なく後藤に近づいてきた。

「どいていただけます? 」

 つば広の下から微笑み帯びた綺麗な歯並びが見えた。後藤の体は知らず知らずの内に入り口を塞ぐ立ち位置になっていた。

「あ……ごめんなさい」

 後藤はすぐに身を翻し、道を開けた。同時にスマホの通話ボタンを切った。

 少女はぺこりと頭を下げ、ビルの外に出るとスポーツバックを地面に置き傘を広げた。長い黒髪が細い背中で揺れ、少女は日傘を差した。

 その動作の全てが優雅だと、後藤は感じた。

 次の瞬間、後藤は息が止まる程驚いた。後藤と少女の距離は2m程開いている筈だったが、今少女の体は後藤に寄り添うように立っていて、日傘に隠れてはいるが少女の顔は後藤の胸元にあり、薄紅色の唇と形の良い顎だけが見えた。

 ――動きが……見えなかった……

 後藤が背筋に冷たい汗が流れ落ち、言葉を失って呆然としていると、少女の唇が動いた。

「こちらのビルの関係者、ですか? 」

「え? あ……いえ」

 後藤は言葉を選んだ。

「関係者では無いですけど……用事があって」

 そう答えるのがやっとだった。

「そう」日傘が少し横に傾く。

「今は近寄らない方が良いと思います」

「え? 」

 後藤はその言葉に本能的に戦慄を覚えた。

「不思議ですね、あなたには何故か親切にしなければいけない気持ちになりました」

「あの……君は何を……」

 少女はくるりと体を反転させた。

「忠告はしました。それではごきげんよう」

 少女はそう言い残すと後藤から離れて行った。左手には何時の間にか黒いスポーツバックを持っていた。

「ちょっと待って。君は」

 ドクン

 後藤の心臓が大きく波打ち、電流が身体中に走る。

 ―今? なんで? 薬を飲んだのに

 後藤がそう思った瞬間、周りの景色が一気にモノトーンになる。

 だがそれをかき消すほどの強烈な光を後藤は感じた。ついさっきまで薄暗かった廊下の奥から、周辺を焦がす光が迫ってくる。そして後藤はその後、何が起きるかを直感で分かった。身体中の激痛を振り払って駆け出す。

 足がもつれる感覚がもどかしい。後藤がビルの入り口の正面から離れた瞬間、眩い光の洪水がビルの入り口から飛び出してきた。少し遅れて大気を震わす振動が、走っている後藤を襲う。

 ――爆発だ

 後藤の目には衝撃波が水面に広がる波紋の様に見えた。衝撃波の第一波が体に当たり横に飛ばされそうになり後藤は踏ん張った。後藤の後を自転車がスローモーションで飛んでいく。すぐに第2波第3波が来る。大気の激震の中、後藤は走った。衝撃波が体に当たる度、服が千切れ、地肌が裂かれ血が滲む。

 頭上から何かが落ちてくる。後藤はそれを見ないでも感じ取っていた。

 時がゆっくり流れる無音の世界を、後藤は必死に走った。古ぼけたビルを通り過ぎた瞬間、世界が急激に色を取り戻した。足がもつれ後藤は歩道に転がった。

 ゆっくり流れていた時間が一気に元に戻る。凄まじい轟音と爆風、猛烈な粉塵が後藤を襲う。後藤は思わず両手で頭を抱えたが、容赦なく鼻腔と口に粉塵が入り込む。

 嵐の様な轟音は一瞬で過ぎ去ったが、爆風で巻き上がられた粉塵が一帯を覆っていた。

 色を無くしたグレーの視界の中、後藤はゆっくりと立ち上がった。心臓と身体の痛みはなくなっていたが息が出来ず、大きく咳き込んだ。上着もそうだがジーンズも所々切り裂かれ、地肌が露出している場所は細かい切り傷が数多くあり血が流れ出ていた。暫くして霧が晴れるように舞い上がっていて粉塵が切れ、周りの状況がどうにか見られるようになった。爆発のあったビルの2階の窓ガラスは全て吹き飛び紅蓮の炎が噴出していた。時たまビルの中から小さな爆発音が聞こえる。歩道にはギターの看板が叩きつけられ粉々になっている。

 後藤は周りを見回す。見える限りでは歩道には自分以外に居らず、車道にも車は走っていなかった。少し離れた車道にはこの惨事に気づいて停車している車から、唖然とした表情で身を乗り出してこちらを見ている人達が見えた。後藤は巻き込まれた人が居ない事に安堵した。

 ……あの子は?

 自分が走り出した理由を思い出した。爆発があると察知した瞬間、確かにあの少女はビルの前を歩いていた。後藤は少女を助けようと危険を承知で咄嗟に駆け出した。だが少女の姿は消えて無くなっていた。もう一度廻りを見回す。やはり何処にも少女の姿は無かった。

 また息苦しくなり咳き込む。口の中がジャリジャリしていて息を吸い込むのと同時に気管に細かな粉塵が張り付き、反射的に大きな咳が続く。後藤は肩膝をついた。

 大量の唾液を歩道に吐き出したが、鼻と気管の違和感は収まらなかった。

 その時後藤の肩を掴む手があった。驚いて後藤は振り向く。

「大丈夫か? 後藤君」

 月岡が肩で息をしながら立っていた。顔には大量の汗が噴出していた。

「月岡……先生……」

 後藤はまた咳き込み涙目になりながら月岡を見た。

「薬が切れたのか? 身体の痛みは? 麻酔薬も持ってきたから腕出して」

 月岡は早口でそう言うと上着の内ポケットに手を入れた。

 後藤は掌を広げ拒むジェスチャーをした。

「大丈夫です、まだ効いています。身体ももう痛くは無いです。ちょっと埃を……吸い込んじゃって……」

「本当? 」

 後藤は咳き込みながら大きく頷く。

「とりあえず病院へ行こう。傷の手当もしながら話を聞きたい」

「私達にもその話聞かせて頂きますか」

 月岡の背後から図太い声が響いた。今度は月岡が驚いて背後を振り向いた。

 菱形がそこに居た。星野は少し離れた場所で携帯に向かい喋っていた。月岡は天を仰ぎ、ふぅーっと大きく息を吐いた。

「尾行ですか? 」

 月岡は苦笑いの表情になった。

「安心しましたよ、先生」

 菱形はハンカチで頭の汗を拭きながら言った。

「え? 」

「病院で会った時は感情の無い冷血な医者かと思っていましたが、いやはやどうして。爆発があった時必死な形相で走る先生を見た時は認識を変えましたよ」

 菱形は、にかっと笑った。

「そりゃどうも」

 月岡の苦笑は続いた。

「悪いようにはしません。正直に話してください。あなた達が抱えているモノは多分、素人さんの手に負える代物じゃない」

     ◇

 グラスに着いた水滴が敷かれた布製のコースターに染みが出来ても、菱形はグラスに手を伸ばさず月岡の話をじっと聞いていたが、喉が渇いていた星野は一刻も早くそれを飲み干したかった。

 菱形達は、爆発現場から月岡の勤める病院に戻り、月岡の診察室で事情聴取をする事になった。暫くすると後藤が診察室に入ってきた。上着は月岡から借りた真新しい青白のボーダーのポロシャツに着替えていたが、ジーンズはダメージジーンズの様に所々が切り裂かれていて両腕に包帯が隙間無く巻かれていた。後藤は診察室に入るなり月岡に申し訳なさそうな顔をして、掌に収まる大きさの万歩計の様な物と潰れた銀色の小さな筒を差し出した。

「すいません。モニタと注射器、壊しました」

「正確には、壊れました、だね。君が原因じゃないし、仕方ないさ。それより注射器が問題だ。カプセルもあるから今度から両方出しておくよ。注射器が使えない時はそれを噛んでくれ。内服でも効果が出る時間が多少違うくらいだから、万が一に備えよう」

 ありがとうございます、と後藤は頭を下げた。

「注射器を持ち歩いているんですか? 」

 菱形が聞いた。

「ええ、彼には心電図モニタと注射器を持たせています。まあその理由も後で出てくると思いますけど」

 その話の流れから月岡が物語の語り部として、菱形達が疑っていた事件に関して、自分たちがどのように行動したのかを時系列に順序よく話始めた。後藤はその間、口を開く事無く月岡の傍に座っていた。

「……これが今までの経緯、です」

 菱形は手を禿頭に乗せ数度ペタペタと叩き「ふぅぅむ」と言って黙った。

「まあ信じて貰えるとは最初から思っていませんが」

「俄かに信じ難い、が、こちらも今ちょっと信じ難い事件を抱えていまして。頭っから否定する気も無いんですよ。ちょっと頂きます」

 菱形がグラスに手を伸ばすと、それより早く星野がグラスを手に取りグラスに口を付け、がぶ飲みし始めた。菱形は星野を睨んだが、星野は気にせず飲み続けた。菱形は舌打ちをして、気を取り直して後藤の方に顔を向けた。

「後藤君、先生の言っている『殺人現場が見えてしまう』と言うのは本当の事か?」

「はい」

 後藤は短く答えた。

「犯人の視線になって、殺人現場が見えてくる? 」

「言葉にするのは、ちょっと難しいんですけど」

 後藤は言葉を切り、間を空けた。

「例えるなら『僕自身が人を殺すのを強くイメージ』している……それが一番近い答えだと思います」

「そのイメージはリアルタイムで頭に飛び込んで来るものなのかい? 」

 次に星野が聞いた。

「それとはちょっと違う……と思います」

「と言うと? 」

「何て言うか、リアルタイムに見える時もあるんですけど、殺人を行っている時は直接見ているんじゃなくて……上手く表現出来ないけど……」

「いいよ、君の言葉で」

 後藤は月岡の方を思わず見た。月岡は軽く頷いた。今は『絶望感』の事は黙っていようと思った。後藤自身それが何処から生まれる感情なのか分からなかった。

 後藤はふぅーっと息を吐いた。

「僕の頭に送り込まれてくるのは犯人の意思だと思います。『殺意』と言った方が近いです。それには……今から殺すやり方とか、どうやったら……楽しんで……殺せるとか……」

 菱形の表情が険しくなった。

「相手が苦しむ……苦しみながら死んでいく方法とか……」

「映像と一緒に殺すやり方も送り込まれて来るんだね」

 星野の問いに、後藤は頷いた。

「そりゃ見たくもなくなるな」

 菱形がぼそっと呟いた。

「今回は何が見えたの? 」

 星野が聞いた。

「今回のは……爆発があったビルとライブハウス。それに殺される……人です」

 菱形は星野に目配せした。星野の手には既にタブレットが用意されていた。

「君の頭の中を覗くことは出来ないから、少し質問させて貰うよ」

 後藤は頷いた。

「君は今回のビルに以前来たことはある? 」

「いえ、無いです」

「何故このビルの場所が分かった? 」

「以前この街に来た時にこのギターの看板に覚えがあって。ビルの中には入った事はないですけど」

「じゃあさっきライブハウスって言ったけど、どうして分かった? 」

「舞台があって、そこにドラムが置かれていたので」

 後藤は申し訳なさそうに小声で付け加えた。

 菱形は星野を見た。星野は指を素早くタブレット上で動かし、首肯した。

「長崎憲次、それが死んだ男の名前ですが聞いたことは? 」

「いいえ」

「念の為、先生はどうです? 」

「知らない名前です」

 グラスに口を付けながら、月岡は素っ気無く答えた。

「後藤君、長崎は見えた? 」

「はい」

「後藤君、この写真の中から長崎を選べるかい? 」

 星野はタブレットを後藤の前の机に差し出した。タブレットの画面には8名の顔写真が映し出されていて、全員お互いに良く似た顔立ちをしていた。後藤は一瞥すると、迷う事無くひとりの顔写真を指差した。

「この人です」

 星野は「当たり」と小声で呟き、菱形は難しい顔になった。

「最後にあまり素人さんにする質問じゃないが、重要だから正確に答えて欲しい」

 後藤は頷いた。

「長崎はどんな殺され方をした? 」

 後藤は黙り、暫くして口を開いた。

「最後の方は……見えませんでした。だけど多分日本刀の様な長い刀で殺したと思います」

「見えなかった? 」

 菱形は怪訝な表情になった。

「そこまで見えているのに? 」

 後藤は申し訳なさそうに首を横に振った。

「そこは、私から説明します。宜しいですか? 」

 月岡が軽く手を挙げた。

「お願いします」

「後藤君はアベザンジアと言う薬を処方されて持っています。これは血管縮小と心臓の動きを一時的に抑える作用がある薬で、発作が襲ってきた時に使用するよう彼に指示しています。彼は他人から強烈なイメージが送り込まれてくるのと同時に、心筋梗塞に似た発作が出ます。そのイメージは、この発作の時だけ見えるようです」

「では、そのアベン何とかって言う薬を使うと……」

「もうその後は見えなくなります」

 後藤が月岡の言葉を追って説明した。

 菱形は、ふーっと息を吐くとソファの低い背もたれに体を預けた。

「でもこれは仕方の無い事です。発作を放置すると後藤君の生命が危うくなります」

「ああ気にせんでください。そういった意味では無い」

 菱形は後頭部に左手を当てた。

「後藤君、さっき先生から聞いたがもう一度確認したい。君には多少辛い質問になるかも知れないが刑事としてはどうしても確認しなければいけない事だ。いいかい? 」

 後藤は、菱形から向けられた鋭い視線から目を逸らさずに頷いた。

「まずは最初に『見た』殺人現場の様子から詳細に話してくれ」

     ◇

 月岡は空になった4つのグラスに、よく冷えた麦茶を注いだ。だがそれを手にする者は居なかった。

 後藤は時間を掛け自分が『見た』惨劇の様子を菱形達に詳細に話した。途中、殺人に酔いしれる感覚に陥り、自分自身が消失しそうになるのを必死に抑えた。

 菱形は何も喋らず、時たま星野に目配せし、星野はタブレットを操作しながら、タブレットと交互に菱形に目で合図を送っていた。

 後藤は今日起きた事件を含めた全ての事件の詳細を全て語り終えると「以上です」と言い、深いため息を吐いて椅子に深く座りなおした。

「お疲れ様」

 少しやつれた表情の後藤を見て菱形が言った。

「辛い思いもさせたようだね。すまなかった」

「……いえ」

 脱力したように後藤は答えた。

「後藤君が見えなかった部分は仕方ないですけど、殺害方法や被害者の外傷位置など報道されていない事を含め、現場検証の結果と後藤君の証言はほぼ一致しています」

 星野は言い終えるとグラスを取り、冷えた麦茶を飲み干した。

「まさかと思ったが、女学校の事件からとはな」

「学院です警部」

「うるせぇ、小娘と同じ事言うな」

 菱形は星野を睨んだ。

「不思議なのはその『死体から心臓を取り出す手術』の映像だな。全く一連の事件の流れとは毛色が違う」

「『手術』じゃなくて『処置』ですよ」

 星野が懲りずにタブレットを操作しながら言った。

「一々うるせぇ奴だな。先生、何か心当たりありますか? 」

「まるで」

 月岡は肩をすくめた。

「あれから色々考えているんですが、全く見当がつきません」

「ここ一ヶ月間、警視庁管内での心臓が取り出された猟奇的な事件はありません。念の為カルト教団の動きも探ってみましたが特に何にも出てきませんでした」

「お前、公安に潜ったな」

 菱形が星野を睨んだが星野は何処吹く風だった。

「涌井警視正のプレゼント、さいこー」

 菱形は後藤達が居なかったら星野の頭を殴りたかったが、ふたりの手前それを我慢した。心の中で振り上げた拳を、現実には汗ばんだ禿頭に右手をペチっと置いた。

「ふぅむ、まあそれは追々考えて行く事にしましょう。それ以外、学校内での殺害方法とかは我々の見立てとほぼ一致しているが、まさかこんな『目撃者』が居るとは……」

「裁判では通用しませんね」

 星野が上機嫌な顔でそう言ったが、視線はタブレットに向いたままだった。ふんっと菱形は鼻を鳴らした。

「我々は君の話を信じるしかない。君が犯人じゃない限りな」

 菱形は微笑みながら言った。 菱形はグラスを取り、冷えた液体を一気に飲み干し、ふぅぅと息を吐いた。

「今から話す事は他言無用で願います。警官としては道を外れるがこの異常な事態ではもうそんな事も言ってられないだろう」

 月岡と後藤は神妙な顔で頷いた。

「今回殺された長崎は我々の間でも有名人でね、奴の表向きはライブスタジオの経営者だが本当の職業は裏社会の『何でも屋』だ。違法ドラッグ密売とそのルート確立、密入国者の手助け、マネーロンダリング、あらゆる武器の密売。違法で金になるモノはほとんど扱っていた。それ絡みの事件が起こると必ず奴の名前が捜査線上に浮かぶが、奴は頭が良くてな。中々証拠が掴めずにいた。数年前やっと大麻の不法所持で検挙したくらいでそれも不起訴に終わった」

 菱形はひと呼吸置いた。

「だが、我々が強い関心を寄せたのがある人物との繋がりが浮上したからだ」

 菱形は月岡と後藤を交互に見た。

「佐村了。タカチホブラッドの持ち主で大量殺人犯、ご存知ですね」

 月岡の表情は変わらなかったが、後藤は視線を床に落とした。

「佐村は、ラボと呼ばれるタカチホブラッドの研究施設での大量殺人を起こす以前にも、我々が認識している限りで8件の殺人事件に関与している。残念な事に、その全件が証拠不十分で佐村まで届かなかったが、俺は野郎がホンボシだと確信している」

 あぁなるほど、と月岡は呟いた。

「佐村がラボに収容された時、警察の手から逃げる為だと噂がありましたが、それは本当だったんですね」

「当たらずといえどもも遠からず、です。野郎は殺人事件以外にもかなりの暴力事件を起こしていますが、ほぼ全て示談になっています。何故だが分かりますか? 」

 月岡は首を振った。

「野郎にはスポンサーが居るんです。それも日本だけではなく世界中に。そいつらが金と圧力で被害者を黙らせる。それに野郎は当時15歳未満だった。当時の少年法では野郎は法の庇護下にあって我々もおいそれと手出しできない。だが佐村だって歳を取る。15になる前に野郎はラボに入るのを口実に世間から消えた。それが真実です」

 月岡が珍しく、大きくため息をついた。

「佐村と長崎が何時頃から繋がっていたのか判明してないが、偶然別事件で長崎をマークしていた警察関係者が、佐村と長崎が接触しているのを数回確認している。それに長崎が扱っていた武器が佐村の事件でも使用されている。これは俺の勘だが今回の長崎の殺しと爆発事件は佐村が絡んでいる。更に言えば後藤君が『見た』一連の猟奇的な事件の犯人は、佐村だ」

 今まで気にしなかった消毒液の匂いを、後藤は何故か強く感じた。

「確か、佐村は死刑になったんじゃないですか? 」

「ええ3年前に刑が執行されています。言いたい事は分かります。が、こんな事をやってのける人間は、佐村以外にこの世に居ない」

「犯人が佐村だとして、警部はタカチホブラッドがこの事件の原因だと思いますか? 」

 月岡は単刀直入に聞いた。後藤はまだ床を見たままだった。

 菱形はじっと月岡を見たのち、軽く頷いた。

「確かにそれは関係するでしょう」

 後藤は目を閉じ、下を向いた。

「だが原因とは思っていない。佐村はそんなのに関係なく真の殺人鬼だ。不幸にもそれにタカチホブラッドの能力が使われた。こればっかりは神様とやらを恨みますよ」

 月岡は頷くと、まだ下を向いている後藤に声を掛けた。

「後藤君、警部には君がタカチホブラッドだと伝えている。だが君は佐村とは違う。恥じる行動は何ひとつしていない。胸を張り、顔を上げなさい」

 月岡の言葉は強かった。

 ―確かにそうだ。

 後藤は月岡の言葉に促されるように顔を上げ、菱形を向いた。

「菱形警部……お話があります」

「あぁ、何かな? 」

「伝えるかどうか、迷ったんですけど、あそこに……」

 後藤は息を吸った。

 菱形は腕を組みなおし、星野もタブレットの操作を止め、後藤を見つめた。

 後藤はチラッと横目で月岡を見た。月岡は軽く頷いた。後藤はそれを確認して、大きく息を吐いた。

「あの現場に、女の子がいました」

 はっきりした口調だった。菱形の目が鋭くなった。

「僕があのビルに着いた時に、ビルの中から出てきました」

「『女性』ではなく『女の子』なのか? 成人ではないと言う意味か? 」

 後藤は頷いた。

「何歳くらいで容姿は? 」畳み掛けるように菱形が問い掛けた。

「歳は、多分中学生くらいで、白いワンピースを着た長髪の女の子でした」

「顔は? 顔は分かるかい? 」

 後藤は静かに首を横に振った。

「鍔の広い帽子で、傘で顔が隠れていて……」

 菱形は唸った。心の中で、また中学生かと思わず呟いていた。

「現場封鎖後の一斉検問では、該当する少女は現在の所目撃されていません」

 タブレット画面上を星野の指が素早く動く。

「周辺の監視カメラへの解析、急がせます」

「急げ、何か事情を知っているかもしれん」

 その時、後藤が意外な言葉を発した。

「多分、映っていないと思います」

 眉間に皺を寄せ、驚いた表情で思わず菱形は身を乗り出した。

「どうして? 」

「彼女は……タカチホブラッドが、アクティブです」

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