7・ジャッジメント

 1.『ジャッジメント』

 地下に降りていくエレベーターの中で、白い防護服を着た菱形は腕を組み、目を閉じていた。エレベーターには階数表示が無く、長く続いている不快な軽い浮遊感と防護服の蒸し暑さも相まって、いつ目的の場所に着くか分からない状況に菱形は苛立ちを覚えていた。その苛立ちが頂点に達しようとした時、ガコンとエレベーターが揺れて止まり、やっとドアが開いた。だがそれと同時に腐臭と揮発性の刺激臭が混じった異臭が流れ込んで来た。臭ぇな、と呟き菱形はエレベーターから出た。

 干からびた血痕が白い廊下に点々と続いていて、それが菱形の向かう場所を示していた。菱形はゴキリと首を鳴らすと血の跡を追った。暫く歩き廊下の角を曲がると、マスクとヘアキャップを装着した青い防護服姿の集団がドアの前に立っていた。その中にひとりだけ白い防護服とヘアキャップ、マスク姿の背の高い人物がいた。星野だった。菱形は星野と目を合わせた。

「野郎はここか? 」

「まあ、ここかと言えばここですね。それプラスふたつのご遺体」

 ふん、と鼻を鳴らして菱形がドアの向こうに入ろうとすると、星野がマスクを差し出してきた。

「なんだ? 」

 菱形は眉間が寄った。

「臭いっすよ、中。メンソールもあります。使いますか? 」

「いらねぇよ」

 菱形はマスクを払いのけ、部屋の中に入って行った。

 星野が言ったとおり、澱んだ空気の中の異臭は更に強くなっていた。菱形はまた、ふんっと鼻を鳴らした。

 最初に目に入ったのは、両足が膝の部分で無くなっている痩せた男の死体だった。目は大きく見開かれ口は苦悶で歪んでいる。鼻からは黒い体液が流れ出て枯れた跡があり、既に腐敗が始まっていた。

「ポケットにあったIDから、ここの研究者の坂本信繁さんだと推定されます。今所轄が坂本さんの自宅を家宅捜索中で、遺体の指紋と照合中です」

 星野がメモを見ながら伝えた

「推定って随分悠長だな。遺体発見から何時間経っている? 」

「ここ電波が通らないし、外部と連絡手段があのエレベーターのみなんで情報が来るのが遅いんですよ。それにご覧の様に腐乱死体一歩手前ですから、写真を社員の方々に見せたんですけどね」

 星野はしかめっ面になり、べーっと長い舌を出した。

「情けない野郎たちだな」

「誰でも目を逸らしますよ、こんなんじゃ。それと検分早く済ましてくださいよ、警部の命令で鑑識の人達待っているんですから」

「待たせておけ。それで、あとひとりは」

「あちらですけど、さすがに写真は見せませんでしたよ」

 星野が部屋の奥を指さした。菱形はその方向を見た。

 部屋の奥まで伸びた黒い台の上に、割れたガラス容器が乗っていた。その割れた容器から漏れた液体が台の側面を伝って床まで滴り落ち、台の黒色を艶やかに染めていた。その容器の中には、粘土のような塊が押し込まれていた。

 菱形はそれを一瞥したあと、部屋の奥に視線をやった。そこには白と黒の奇妙な物体があった。それは床に座り込んだ黒い服を着た太った男と、その男を透き通るような白い両腕で後ろから抱きしめている銀髪の男の姿だった。キスをするように銀髪の顔が、紫色に変色し半開きの目の黒服の男の頬に寄り添っていた。そしてその周辺の床にはガラスの破片が散乱していた。

「……野郎は生きているのか? 」

「まさか。近くで見たら分かりますよ。それと手前に居る男性は、ここの会社のCEO兼研究所長の津田栄一郎さんだと推定されます。っていうか津田さんです。この部屋に入るには津田さんと坂本さんの生体IDじゃないと入れなかったし」

「ん? じゃあ」

 菱形はそこで言葉を止めた。何故地下室に入れたのかと聞こうとしたが、どうせ宮島と涌井絡みだろうと推察した。

 菱形は無言で奥に向って歩き始めた。星野はその後ろに着いて行った。パシャっと音がして菱形は床を見た。透明で気付かなかったが、床に液体が広がっていた。そして腐臭混じりの刺激臭はそこから立ち昇ってきていた。

 菱形は水音を立てながらふたつの遺体に近づいて行った。津田の遺体に接近し、菱形はその異様さに気付いた。男は黒い服を着ているのではなく、白いワイシャツが血で赤黒く染まっていた。そしてそのワイシャツは臍の辺りで真横にまっすぐ切られていて、体内から腸の一部がズルリとはみ出し床に垂れていた。

「さっき鑑識が確認しました。津田さんの四肢の関節は全て破壊されていて首の骨も折れているようですが、致命傷になったのは腹部を切り裂かれた事による失血死だそうです」

 菱形は腰を降ろし、切り裂かれた津田の腹部をじっくりと見た。そこは躊躇いもなく定規で引かれたように一直線に切開されていた。血糊の隙間から見えた津田の厚く白い皮下脂肪は、滑らかで綺麗な断面を見せていた。

 菱形は顔を上げ、銀髪の男の顔を見て、チッと舌打ちをした。

 3年前、白い牢獄で見た時と何も変わっていない佐村の顔だった。目は閉じているが、口はどこか満足げに笑みを浮かべている様に見えた。菱形は立ち上がり、佐村と津田の後ろに回り込んだ。

 菱形は渋面になった。佐村の上半身と下半身が分離していた。正確には腹部周りは大きくそぎ落とされ、破れたカーテンの様に皮膚が上半身から垂れている。そして背骨が上半身と下半身を繋いでいるだけだった。

「見ての通りですよ。こっちは内蔵がほとんどないそうです。動かすとどっちも千切れるようなので、とりあえず警部殿の検分が終わってから分離して回収する段取りです」

 菱形は腕を組み、より一層渋面になった。

     ◇

 主が居なくなった津田の執務室で、菱形は険しい表情で津田が使っていた革張りの椅子に座り、両脚を机に投げ出し腕を組んでいた。

「行儀悪いですよ」星野が傍に歩み寄って来たが、菱形は微動だにせずムスッとした表情のままだった。

「報告と連絡があります。報告は現時点での捜査本部からの最新情報で、連絡は宮島警視長から警部殿にお知らせがあるそうです。どっちから聞きますか? 」

「小娘のは後回しだ。本部から聞かせろ」

「ちょっとは仲良くしてくださいよ、まったく」

 星野はあきらめ顔で片手に持っていたタブレットを操作し始めた。

「やはり中央監視室のサーバデータ及び地下室にあったコンピュータのデータは全て消去されていました。科捜研で復元を試みていますが犯行時の監視映像は期待しない方がいいでしょうね。そして追加情報です。保安施設だけでなく、製薬データを含む全てのサーバもクラッキングを受け吹き飛んでいました。更に社内ネットワークを通じて国内の支社だけではなく、フランスのイノセン本社にも侵入し重要なデータの殆どが消されているとの事です。こりゃ損害は天文学的な金額になりそうです。警部、聞いています? 」

 菱形は難儀そうに頷いた。

「じゃあ続けますよ。本日発見された地下室の遺体を含めこれでイノセン社の被害者は22名になりました。ほとんどが監視室にいた警備員たちで死亡解剖の結果、刺殺13、撲殺4、死因不明が5です。5人の中でも津田さんと坂本さんは発見が2日遅れていて腐敗が始まっていたので特定は難しいとの事です」

「派手に殺したもんだな」

「殺し過ぎですけど、イノセン社の警備体制にも問題ありですよ。ここはイノセン本社による自社警備なんですけど、殺された警備員たちは違法のテーザー銃やガス銃を携帯していたし、駐車場で見つかった拳銃はどうやら津田さんが所持していた可能性があるので、今外事1課と外務省がイノセン本社に説明を求めています」

 菱形は黙って聞いていた。

「武器で思い出しましたけど、地下室にあったナイフが凶器と断定されました」

 菱形の眉根が寄った。

「……佐村のあれは確かに野郎か? 」

「聞かれると思っていました。それも確認済みです。科捜研に保存されていたDNAが一致しています。紛れもなく佐村です」

 菱形はそれを聞くと目を閉じた。

 2日前の早朝、交替勤務でイノセン社に出勤した警備員が、中央監視室が沈黙している事に気づき複数名で敷地内に入った所、廊下や屋外で絶命した警備員を発見し、更に中央監視室に辿り着くとそこは凄惨な血の海だった。警視庁はテロ組織が製薬工場を襲いBC兵器の原材料を強奪した可能性があるとして大規模な捜査を開始した。またイノセン社の日本における実質的な最高責任者の津田と上級研究員の坂本の所在が不明な事から、事件に巻き込まれたとみてその行方を追っていた。

 その裏で、事件の一報を受けた宮島と涌井は独自にイノセン社の調査を開始し、過去に佐村と関係している事を突き止め、菱形達に特別な現場指揮権を与え、捜査を依頼した。遺体を検分した菱形は、残されていた致命傷の痕跡に見覚えがあった。

 そして昨日、涌井がイノセン社の設計図面から地下駐車場の更に地下に用途不明な空間がある事を突き止めた。警視庁は非常階段の踊り場の壁に巧妙に隠されていた扉を物理的に破壊し、地下に通じるエレベーターを発見した。昇降システムのプログラムはロックが掛かっていたが涌井がそれをハッキングし使用可能にしていた。

 警官隊が地下の隠し部屋でふたつの遺体と佐村の亡骸を発見したのはつい数時間前だった。

「もうひとつ、これは朗報です。この会社で保管されている劇物やその他諸々の危ない薬品は現時点で外部に持ち出された形跡はないそうです。データがぶっ飛んでいるんで社員総出で全数量確認している途中ですが、とりあえず保管庫のロックは健全だったそうです」

「野郎の目的はクスリじゃねぇよ」

「……野郎って佐村ですか? 」

 菱形は答えず、また険しい顔になった。星野はやれやれと言った表情でタブレットを菱形に差し出した。

「なんだ? 」

「報告は以上です。あとは宮島警視長と直接話してください」

「このオモチャ、小娘から貰ったのか? 」

「湧井警視正からです」

 星野はあっけらかんとして答えた。菱形は苦々しくタブレットを受け取った。

「下の『宮島警視長』のアイコンをタッチしてください」

 画面の下には『宮島警視長』と表記のある、目の大きな女の子のアニメキャラアイコンがあった。

「押せばいいのか? 」

 そう言って菱形はアイコンを押した。瞬時に画面が切り替わり、宮島の顔がタブレットに映し出された。

「暑い中、現場検証ご苦労様です」宮島がにこやかな表情で頭を軽く下げた。

「生憎こっちはクーラーの効いた部屋だ」

「私、エアコン苦手なんです」

「俺もだ奇遇だな、若い娘が体を冷やすなよ」

「ご心配ありがとうございます」

 菱形はけっと、小声で呟いた。

「連絡があるって話だが、新しいネタでも出たか? 」

「Nシステムの解析で、イノセン社付近を徘徊する不審な車両が確認されました」

 菱形の目が鋭くなる。

「登録上の所有者は都内に住む医師」

「医者? 」

「はい。但し殺害時刻、この場合は推定犯行時刻も含みますが、その後にしか出現していません。それに犯行現場からの逃走では無く、繰り返しますが現場周辺を何度も徘徊する車両です」

 菱形は禿頭に右手を当てた。汗ばんだ頭から、ペタっと音がする。

「警部はどう思われます? 」宮島の問いに菱形はすぐには答えなかった。

「……その医者の所までここからどれ位だ? 」

「ナビデータを転送します」

 画面が切り替わり、電子地図とルート図が表示された。

「警部の現在地から約30分です」

 菱形は星野に目配せした。星野は頷いた。

「おい」菱形がぶっきらぼうに話しかけると画面が切り替わった。

「なんでしょうか」

「佐村の亡骸がここにあった事を知っていたのか? 」

「正直に申し上げて承知しておりませんでした」

「じゃあ佐村とイノセン社との繋がりってなんだ? 」

「佐村は死刑執行後の自分の遺体の献体を希望していました」

「献体?」

「はい。内蔵を含め自分の亡骸を自由に使っていいと承諾書を生前に残して居ます。実際、遺体は医療機関にて腑分けが行われ国内の複数の研究施設や医療機関に送られた事が確認されています。そのひとつがイノセン社でしたが、まさか献体自体があるとは思いませんでした」

「お前でも知らない事があるんだな」

「佐村の死刑は確実に執行されました。その後の経緯は無意味です。逆に警部にお聞きしますが、死んだ佐村に関心がありますか? 」

 宮島の問いに菱形は答えなかった。

「私からもうひとつご報告あります」

「何だ」

「女学院の関係者に襲撃犯に結びつく人物は居ませんでした」

「女学校の出入り業者もか? 」

「『学院』です、警部」

「どっちも同じだ」

「出入り業者は全部で15社。その全てが学院に通うご息女のご父兄の関連会社ですが、あの場所に爆発物を仕掛ける事が出来る可能性がある業者は限られています。それらの身辺調査終了は明日の見込みです」

「お前さんの見込みは?」

「空振りでしょうね」

 菱形は、ふんっと鼻を鳴らして笑った。

「ご苦労なこったな」

「捜査の基本ですわ、潰せるモノから潰す。警部の教えを守っております」

「じゃあやはり教師連中と生徒達になるな」

「ええ、そこが問題ですの。下手に動けば時間が余計掛かるので慎重にやっています」

「まさかとは思うが、圧力が掛かるのか? 」

「愚問ですわ、警部」

 宮島は微笑んだ。

「話変わりますがそちらの事件の犯人、目ぼしはつきました? 」

 菱形はしばしの沈黙の後、口を開いた。

「佐村だ」

 星野は軽く驚いた表情になった。

「よろしければ理由をお聞かせ願います? 」

「遺体の切断面、見たか」

「ええ、とても綺麗な切断面でしたわ」

「安物ナイフ1本であの切れ味だ。それに内蔵破裂で即死の遺体もあった。人間業じゃねぇ。ガタイ見りゃ分かるが、ここの警備員は何らかの格闘技経験者だ。武装しているそいつらが何の反撃もせずやられているし最初に手首を切り飛ばして頸動脈を狙うやり方も一緒だ。ラボ以前の犯行とも酷似している」

「つまり女学院同様、佐村並みのTBアクティブ者の犯行だと」

 菱形は腕を組んだまま、それに答えなかった。佐村の無残な亡骸を実際に見てもなお、菱形は佐村の存在を強く感じていた。

 だが違和感もあった。それは遺体に残されたナイフの進入角度だった。その多くは下方からの斬撃で、菱形の知っている佐村なら水平か上から下の斬撃。逆だ。打撃痕も頭部直撃は少なく鳩尾から下の下半身に集中。以前の佐村とは違っていた。

 菱形自身、頭の整理がついていなかった。

「あとで報告書を出す」

 そう言って菱形は足を机から降ろし、立ちあがった。

「今からその医者の所に行って事情聴取してくる」

「了解しました。道中お気をつけて」宮島が画面から消えると、菱形はタブレットを星野に放り投げた。星野は慌ててタブレットをキャッチした。

「あぁ壊れたらどうするんですか? 」

「そん時はまた貰え。どうせあっちの備品だ」

 星野は何かブチブチと口を動かしていたが、声には出さず、ズカズカと大股で執務室から出て行く菱形の後を追った。

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