6・敵

 1・『敵』

 イノセン・バイオ・デベロップメントは東京と神奈川の県境にあった。元々は日本の製薬会社の工場だったが、M&A合併買収によりフランスに本社があるイノセン社に買収され現地法人化された。広大な敷地の中には製薬工場と研究棟があり、その研究棟は買収後に建設された全面ガラス張りの正立方体5階建てのモダンな建物だった。

 その4階にある会議室に、緊張した空気が満ちていた。

 部下の読み上げるデータが、目の前のモニタに流れて来る。津田邦夫は長い前髪を人差し指で巻きながらそれを見ていた。背が低く肩まで伸びている髪と童顔から、50の齢の年相応に見えない津田だが、その童顔とは裏腹に苛烈で攻撃的な性格の持ち主で、津田が指で前髪を巻きいじっている時は、津田の苛立ちが爆発寸前まで溜まっているサインだった。それを知っている会議室に居る6名の部下たちは、戦々恐々の思いだった。

「……以上が今日の結果です」

 データを読み終えた部下がそう言ったが、津田はモニタを見つめたまま無言だった。会議室が水を打ったかのように静まり返る。

「培養株の生存率が昨日と変わりないが、対策は取ったのか? 」

 津田が巻髪の指を止め、口を開いた。

「アミノ酸濃度を従来の25mMから50まで段階的に調整し」

「それは前に聞いた、他には」

「TPBを10%添加する培養株と、HEPES液にて培養する試験体を作成しましたが」

「双方合わせて何体作った? 」

「……4体です」

「少ないな」

「細胞の崩壊速度が想定より早く、アクティブの維持時間も確認が困難な状況が続ており」部下の声は震えていた。

「それは既知の事象だろ。それに対応する方法を聞いている」

「……前任者のデータが無い状態では従来の方法を試行錯誤するしかなく」

 絞り出されたその言葉に会議室に不穏な空気が流れた。

 津田はひとつ舌打ちして、前髪から指を解いた。

「言い訳をするな。いなくなった人間は忘れろ。それをどうにかするのが貴様の仕事だ。来週CNRS仏国立科学研究センターからアクティブ維持に成功したHESヒトES細胞が届く。今度は成果を出せ」

 部下は強張こわばった顔で頭を下げた。

 会議を終え、最上階にある自分のオフィスに戻った津田は、革張りの椅子に座り無意識に前髪を指で巻いていた。その時、机の上にあるサブモニタが点滅し『Allen』と表示された。津田はひとつ舌打ちして、そのモニタに人差し指を当てた。

『あまり芳しくないようですね、教授』

 モニタから声が流れる。津田はふんと鼻を鳴らした。

「わざわざ嫌みを言うために電話を掛けて来たのか? 」

『まさか。心より労りの言葉を投げているのです』

「『言葉を掛ける』だ。外人が無理に日本語を使うな、忌々しい」

『失礼しました』

「用件は何だ? 報告会は聞いていた通りだ」

『あの女から提供された生検体の検査結果を教えてください』

 津田はため息を吐き、前髪をいじり始めた。

『教授? 』

「聞こえている。まだ確定はしていない暫定値なら出せる」

『それで構いません、本社と連絡会が待っています』

「80%の確率で佐村のSR生検体と一致した」

『つまりあの能面の少女は佐村であると』

「馬鹿を言え、佐村は3年前に死んでいる。考えられるのはあの能面の娘のアクティブ反応が佐村と酷似している可能性だ。TBアクティブが確認された生検体は佐村のSR体と最初の少女のAM体の2体しかない。サンプル数が2体では比較対象は出来ない。あの娘がアクティブ3例目だとして、その反応がSR体に近いと考えた方が論理的だ」

『言葉を間違えました。つまりTBアクティブは佐村のように凶暴性を発揮する、と言う事ですね』

「私は見解を述べただけだ。そっちがどう解釈しようと知った事か。それより坂本は見つかったか? 」

『現在民間の調査事務所を多数使って調べておりますが、以前行方は掴めておりません』

「3日も経っているのにまだ見つけられないのか」

『まだ3日です』

「危機感が無さすぎる。奴はTBクローン培養液の調合組成レシピキーを持って消えたんだ。お前らのライバル企業に渡ったら取り返しのつかない事になるぞ」

『お前ら、ではなく教授を含め我々の、です』

 チッと津田は聴こえる様に大きく舌打ちをした。

『ですが大きな謎があります。坂本さんは失踪する前にTBに関するデータを全てクラッシュさせた。ライバル社に寝返るつもりならそんな馬鹿な真似はしない筈です』

「私が分かる訳がないだろう。兎も角データが全て無くなったのはお前らの失態だ。それに忘れているかもしれんが、地下室には今までのバックアップがある。だが坂本が居なければそこにも入れない。それが欲しいのなら早く坂本を見つけろ。そうでなければあの能面の娘を私に引き渡せ」

『坂本さんは引き続き捜索致します。そして能面の少女ですが、本社と連絡会は現在対応保留になっています』

「何故だ? 」

 津田の声が大きくなった。

「貴重な3例目のアクティブだぞ。佐村の抜け殻より遥かに価値がある。早く連れて来い」

『その3例目が、佐村同様我々のコントールが効かないのでは困るのです。それにあの女学院は800名近い生徒及び教師が居ます。その中の誰が能面の少女だったのか分かりません』

「ではあの天海とか言う保険医に能面の正体を喋らせろ」

『あの女性は非常にクレーバーです。移動中は必ず人ごみに紛れます。住んでいるマンションもセキュリティが厳重で我々が接触する隙を与えません』

「女学校にテロを仕掛けた奴等が随分と臆病だな」

『殺害より誘拐が簡単だとお考えならば、それは間違いです。それに保留は我々だけではなく、あちら側からの要請でもあります。話合い再開では一致していますので、いずれ近いうちに接触する事になりますからこの問題は解決されます』

「早く再開して私に吉報を持ってこい」

『キッポウ? 』

「グッドニュース、だ」

『畏まりました。努力いたします』

 モニタの画面が暗くなった。津田はまた大きく舌打ちをした。

     ◇

 サブモニタが音も無く点滅した。視界の端でそれを捉えた津田はキーボードを叩く指を止めた。日付が変わろうとしている時刻で、秘書は既に帰っている。何処からだとはモニタを見ると『中央監視室』の文字があった。警備が何の用だと、津田は訝しげにモニタを指で触れた。

「どうした? 」

 津田は仕事を邪魔された事で軽い苛立ちを覚えていた。だが返事は無かった。

「聞こえないのか」

 再度の問い掛けにも返事が返って来ない。津田は舌打ちをして再び指を動かそうとした時、モニタから声がした。

『おひさしぶりです』

 若い女の声だった。津田は眉間に皺を寄せ、モニタを睨んだ。

『相変わらずイライラしていますね』

「……誰だ」

 津田は机の上にあるスマホに手を伸ばした。

『忘れたのですか? そこは電波が遮断されていますよ』

 津田は手を止め、執務室の天井の隅にある監視カメラを睨んだ。

『気付くのが遅いですね』

「能面のガキか」

『半分正解です』

 津田は半分の意味が理解できなかった。

「何の用だ」

『長い話になるのでそちらに行きますね』

 モニタがふっと消えた。

 津田は机の一番下の引き出しを開け、奥に手を入れると緑色の箱を取り出し、机の上に置いた。急いで箱の蓋を開けるとそこにには黒光りする自動拳銃があった。津田は拳銃を手に取り、セーフティを解除し遊底を引き、初弾を装填した。そして立ち上がり扉へと走った。中央監視室は研究棟から200mは離れた製薬工場の3階にある。研究棟の地下の駐車場にある自分の車まで行けば、どうにか逃げ切れるだろう。 それに奴が来る間は監視カメラで自分の動きを見られない。津田はそれに賭けた。

 廊下に飛び出すと津田はエレベーターへ向かった。ボタンを押したが、そのボタンが発光しない。何度も押したが反応がやはりない。津田は舌打ちしてエレベーター横にある非常階段の扉を開けた。非常階段は薄暗く、ぼんやりとした緑色の非常灯の明かりがその中に浮かんでいる。津田は転げ落ちないよう注意しながら、それでも急いで階段を駆け下りていく。津田が踏みつける金属製の階段がカンカンと鳴り響く。急に激しい動きをしたせいで、津田の心拍数は激しく波打っていた。ようやく地下階に着いた時には津田の呼吸を大きく乱れ、吐きそうになっていた。

 ぜーぜーと荒い呼吸で津田は駐車場に通じる扉を開けた。地下駐車場も薄暗かった。肩で息をしながら津田は自分の車へと急いだ。

 白いBMWのクーペが津田の車だった。津田はその前で立ち止まり、薄暗さに慣れた目で周囲を見渡す。駐車場の奥は暗闇で見通せないが、数10メートルの範囲で人の気配はない。津田は大きく深呼吸を数回して、運転席のドアハンドルに手を掛けた。ピッとロック解除の電子音とハザードが2回点滅した。

「どちらへ」

 背後からの声に、津田は心臓が止まりそうなほど驚き、慌てて振り向いて反射的に拳銃を向けた。

 黄色い物体がそこに立っていた。津田は最初それが何か分からなかったが、やがてそれが黄色いレインコートを頭から深く被った人間だと分かった。身長は低く、俯いているため顔はフードに隠れて見えない。

「危ないじゃないですか」

 若い女の声がそのフードの奥から聞こえた。

「……俺に何の用だ」

 津田の声と銃が震えている。

「あなたに用っていったらひとつしかありません」

 細く白い手がフードを取り去った。薄暗い中に青白く光る肌の顔が浮かび上がる。幼さが残っているが端正で美しい少女の顔だったが、津田には見覚えが無かった。

「ひさしぶりって言っても、わかりませんか」

 この不気味な少女は2度も『ひさしぶり』と言った。津田はザラリと心臓を触られた気がした。馬鹿な、と心の中で思いながらも、口からは別の言葉が出て行った。

「まさか、お前は」

 少女はニッコリと笑みを浮かべると首を傾げた。柔らかい黒髪がサラリと動いた。

「頭の回転だけは早いな」

 少女から聞き覚えのある男の声が聞こえて来た。その声は、津田の脳を混乱させ身体を硬直させるほどの恐怖を生み出した。

「……どうして」

「生き返ったんだよ。そんな事より少し話そうぜ。積もる話もあるし」

 少女がニコリと笑った。

 津田は悲鳴に似た大声を上げながら少女に向け引き金を引いた。フラッシュマズルの閃光と、轟音が地下駐車場に響いたが、それと同時にドンと鈍い音と共に津田の鳩尾に少女の拳がめり込んでいた。

 鋭い衝撃が津田の心臓を突き抜け、津田は呼吸が止まり意識も飛んだ。げええと情けない音が大きく開いた口から洩れ、津田の丸い身体がくの字に折れた。少女が鳩尾から拳を抜くと、津田が前のめりに倒れて行く。少女は身を翻しそれを避けた。津田の顔面が床に激突する寸前、少女は津田の後襟を掴んだ。

「俺の身体がある所へ案内してもらうぞ」

     ◇

「……急いでください。間に合わないかもしれないけど、まだ犯人がいるかもしれません」

「分かっている。それより薬を飲んでくれ」

 月岡は助手席で胸を抑え苦しんでいる後藤に声を掛けた。だが後藤は首を振った。

「飲んだら……見られなくなります」

 二人は月岡の運転する赤いボルボに乗り、イノセン社に向け法定速度を超えるスピードで深夜の国道を走っていた。

 今から一時間程前、眠りに就こうとした月岡の携帯が鳴った。

「イノセン社を知っていますか? 」取ると、切羽詰まった後藤の声が飛び込んで来た。後藤はイノセン社で大量殺戮が行われている映像を見た、と言った。

 後藤は次々と凶刃に倒れて行くガードマンのその胸にある『IBS』のロゴとマークを記憶し、吐き気を抑えながらネットで検索して、凶行が行われている場所がイノセン社だと分かった。イノセン社の場所も分かったが、後藤の住んでいる地域からは遠く、自転車しか移動手段のない後藤は月岡に助けを求めた。

 ほおっておけば単独行動しかねない後藤を案じた月岡は、万が一犯人との接触する事があれば躊躇なく逃げる事を条件に後藤とイノセン社に向かう事にした。

 ――間に合ってくれ。

 そう呟く後藤に、月岡は根拠のない危うさを感じていた。

     ◇

 呼吸が出来ない息苦しさに、津田は意識を取り戻した。目を開けると辺りは明るくなっていた。そして自分が尻を地面に着けたまま後ろに引きづられている事に気付いた。何処だ、と首を巡らそうとしたが、息苦しさは限界になっていた。反射的に身を捩り両足をばたつかせ、首に巻きついている何かを取ろうと両手を首に持って行ったが、肉付きの良い太い首にはスーツの襟が喰い込んでいた。

「気付いたか」

 頭上から聞き覚えのある佐村の声がした。

「はな……はなして、くれ」

「もう少しだ、我慢しろ」

 津田の意識がまた遠のいていく。大きく開いている口から舌が無意識に飛び出し、少しでも酸素を吸おうと足掻いたが無駄だった。意識が漆黒に落ちる寸前、津田は狂暴な力で後ろに引っ張られたかと思うと、放り投げられ宙を舞い背中から壁に激突した。

 ゲェェェと蛙の様な音が解放された気道から漏れ、津田は呼吸を再開した。口からはヨダレが垂れ、目から涙が止めどなく流れて来る。津田は床に突っ伏し身を丸めて深呼吸を繰り返していた。

「おい、起きろ」

 冷酷な声だった。津田は床に額を着け、顔を上げなかった。

「そのまま頭を踏みつぶすぞ」

 津田は恐る恐る顔を上げた。黄色いレインコートを着た少女がやはりそこに立っていた。その傍にはかなり大きな黒いスポーツバッグがある。

「汚ねぇ面が余計汚くなってるじゃねぇか」

 少女の薄い唇の口角が上がる。津田はやはり悪夢を見ていると思った。あどけない少女の口から佐村の声が聞こえて来る。その状況が全く理解出来ず津田は心底恐怖を覚えた。

「立って後ろの扉開けろ」

 少女は顎をしゃくった。津田は後ろを振り向いた。そこには見慣れた扉があった。津田は驚いて少女を見た。

「どうして……ここを」

 津田が這いつくばっているこの場所は、地下駐車場より更に地下にある。電力・通信共に外部とは完全に遮断されたスタンドアローンで運用できるよう設計された空間だった。

「いいから立て」

「……駄目だ。私だけではここは開かない」

 津田は扉の両横にあるタッチパネルに目をやった。この扉を開けるには、そのタッチパネルに自分の右掌底を当て、更にパネル上部にあるカメラに両目の網膜を認識させないといけない。だがタッチパネルは2基ある。その別の1基に、3日前から行方不明になっている坂本の右掌底と両網膜を当てなければ扉は開かない。

「相棒ならここにいるぜ」

 少女は足元にあったスポーツバッグの取っ手を掴むと、軽々と放り投げた。

 バッグはドスンと重い音を立て津田の横に落ちた。バッグのファスナーが開いていて中から黒い塊が見えた。その塊がゴソゴソと動いた。津田はヒュと息を吸った。それは猿轡が噛まされたヒトの生首だった。その生首がバッグから這い出して来た。津田は強張った顔で生首を見た。そして再びヒュっと息を吸った。

 生首は胴体と繋がっていて、そしてそれは行方不明になっている坂本だった。坂本は津田と目が合うとブルブルと首を振り、ウーウーと呻いている。坂本は身を捩りバッグの中から片手を出した。だがそこで力尽きたように動きが止まり、首がガクリと落ちた。

「無理すんなよ、死ぬだろ」

 少女が坂本の元に近づき、バッグの端を踏みつけ、坂本の髪を掴むとそのまま上に持ち上げた。坂本の身体がズルリとバッグから出て来た。坂本の目は大きく見開ぎ、表情は苦痛に歪んでいた。だが津田は強い違和感を覚えていた。坂本の身体の大きさが小さくなっている。痩躯の坂本は180近い長身だが、顔の位置が小柄な少女の顔と同じ所になる。津田の視線が自然と下に動く。津田はみたび息を大きく吸った。

 坂本の両膝から下が無かった。カーキ色のズボンは膝の場所で切断され、その上部の太ももには細いロープがきつく縛られていた。そこからポタリポタリと血が滴り落ちている。少女は置物のように、坂本の髪を掴んだまま切断した両膝を下にして床に着け、立たせた。

「昔バッグに入る芸人をテレビで観た事あるからやってみたが、こいつ結構大きくてな」少女は唸り声を上げている坂本の猿轡を解いた。血の気の無い顔色の坂本の、紫色の唇が動いた。

「……教授、こいつ……佐村です」

 津田は怯える目で少女を見た。

「坂本さんが死ぬ前に早く開けてくださいね。もし坂本さんが死んだら津田さんを生きたまま足の指から切り刻んでいきますから」

 少女は、可愛いらしい声でそう言うと、ニッコリと微笑んだ。

     ◇

 扉が音も無く開くと、下腿が無い坂本が扉の向こうに投げ込まれた。坂本の身体が白濁色の床の上に血飛沫を撒き散らしながら転がって行き、奥の壁にぶつかって止まった。

 次に肩で息をしている津田が部屋に入り、その後ろに少女が続いた。部屋は奥行、幅共に10m程で、天井は3mを優に超えていた。津田は扉の正面にあるキーボードが乗っている台の前で止まった。

 部屋の右の壁際にはドラフトチャンバーなどの大型の実験機器が並んでいるが左の壁には何もなかった。

 少女はその左の壁に向って立った。

「開けろ」

 津田はビクっと身体が震えた後、キーボードを叩いた。ブンと軽い音がして、左の壁が静かに上昇し天井に消えていく。壁が上がっていくが、壁の向こうは暗闇だった。壁が完全に天井に吸い込まれた瞬間、照明が点いた。

 明かりが満ちた空間には、腰ほどの高さのある黒い台が数10メートル先の奥の壁まで続いていた。その台の上に、高さ50cm程のガラスの容器が等間隔で置かれていた。その容器の中に何か浮いていた。少女はすぐ近くにある容器を見た。

 そこには『pancreas膵臓』のラベルが貼られていた。

 透明な溶液で満たされた容器の中に、人間の臓器が浮かんでいた。

 少女は台に沿って奥の壁に向って歩き始めた。

 肺、腎臓、胃……博物館で展示品を見るように、少女は台の上の容器に納められている臓器を眺めながらゆっくり歩き、部屋の奥の壁の前で止まった。

「坂本から聞いている。ここも開けろ」

 津田は呻きにも似たため息を吐きながらキーボードを叩いた。

 行き止まりの壁に長方形の薄い線が浮かび、横にスライドした。

 壁が無くなるとそこには直径2m近い透明な円筒があり、その中に裸体の銀髪の若い男性が浮いていた。肌は透き通るまでに白い目を閉じたままの男性の身体には、首元や胸の2箇所、そして臍の近くからホースが差し込まれていて、そのホースは円筒の下に伸びていた。そして胴体には喉元から鳩尾を通り下腹部まで黒い線が真っすぐ引かれていた。その線の両側は皮膚が少し盛り上がっていた。

 少女は暫くその骸を見上げていた。

 津田は顔に多くの汗を浮かべ、黄色い少女の後ろ姿を見ながらある行動を起こすか逡巡していた。まだキーボードに指は乗っている。そこに素早くあるコマンドを打ち込めば天井から壁が一瞬で降りてきてあの少女の姿をした佐村を閉じ込める事が出来る。

 津田は横目でちらりと床に転がっている坂本を見た。切断された両下肢から血が流れ出て、ズボンを黒く染め床に流れ始めている。うつ伏せの顔は見えないが、もう助からないだろう。

 津田はその姿に、自分の死を見た気がした。意を決し、指を動かそうとした瞬間、佐村の低い声が地下の部屋に響いた。

「指を切り飛ばされたくなかったら動くな」

 津田の身体がビクッと跳ね、指が硬直したまま固まった。少女は男の骸の前から離れ、またゆっくりと台に沿って、津田の方に歩いて来た。津田の顔から汗が滴り落ち、呼吸が荒くなった。

 少女は津田の近くで立ち止まった。

「相変わらず秘密主義の様だな。坂本に聞いても何も知らなかったからお前に幾つか質問がある。こっち向け」

 津田は恐る恐る少女を見た。

「俺のクローン作製が当初計画から変更した理由はなんだ? 」

 津田は額から流れ落ちて来る汗を袖で拭った。

「お前の遺体が」

 津田は言葉に詰まった。それを見て少女はにっこりと微笑んだ。

「続けてください、おじさま」

 津田は背中に冷たい汗が流れるのが分かった。

「……献体が私の手元に来た時でも献体の中の造血幹細胞は、僅かだがアクティブのTBを作り続けていた。だがら当初切開痕は切り傷程度だったが、数日後には切開痕が復活していった」

 少女の眉根に軽く皺が寄った。

「アクティブ状態ではそれはあり得ない現象だった。私は献体の脹脛(ふくらはぎ)の一部を切り取り調べた。脹脛はすぐに再生し始めたが、2時間後には壊疽が起き始めた。だが切り取った肉片はTBがインアクティブになるまでの数日間、生きていた」

「どういうことだ? 」

「わからん。だがそれぞれの細胞のヘンフリック限界を調べたが、どちらも限界を既に超えていた。特に再生した部分は切り取ってから数時間後には限界に達していたと思われる痕跡があった」津田は続けて何か言いかけて、口籠った。

「全部話せといった筈だ」少女が津田に鋭い視線を浴びせた。

「……TBの驚異的な治癒力は損傷を受けた組織や細胞を瞬時に復活させる事だが、TBが細胞内の糖鎖配列だけでなく、細胞分裂回数を自由に変動させるトリガーの可能性がある」

 津田は息を深く吐いた。

「クローンが成功した臓器はアポトーシスと再生が同時に進行していた。癌化した細胞は消失するが正常細胞もやがて崩壊し、すぐに再生する。だがヘンフリック限界を超えた後は、細胞は再生を繰り返すだけで損傷部の復活も機能の回復もなかった」

「ただのタンパク質の塊って事か」

 津田は目を伏せて頷いた。

「アクティブ時の体細胞クローン作製は最初の少女の頃から成功していたが、そのクローンで無限再生は発生しなかった。無限再生の発生原因を探るには、アポトーシスと再生が拮抗する培養液が必要だった」

「結果は? 」

「坂本の培養液を使えば、ある程度抑制された反応を起こしていた。だがやはりアクティブが続く限りヘンフリック限界を超えて再生を繰り返し、インアクティブになれば細胞は崩壊する。あそこに並んでいるクローンはもう再生は不可能だ」

「なるほどな、やはり俺は不老不死って訳じゃないんだな」

 津田は頭を振った。

「それは分からない。ヘンフリック限界を超えたと思われる細胞組織は献体でも確認できたが、それでも生前のお前は」

 そこまで言って津田は違和感を覚え話すのを止めた。何か不可思議な事を少女が言った様に感じた。

「……今、やはりと言ったのか? お前はこの事を知って……」

 少女は首を少し傾げると満面の笑みに変わった。

「やはり頭脳だけは明晰な方ですね。でも大変参考になりました。ありがとうございます」

 少女は大げさに上半身を前に倒し礼を言った。黄色いレインコートのフードがつられて大きく動く。上半身を戻した少女の頭にそのフードがスッポリはまり、顔が隠れた。

「用事はこれで全部済みましたが、あなたには罰を受けて貰います」

 津田の全身がガクガクと震え始めた。

「先ほど『最初の少女が』と言っていましたが、その少女がアクティブになるように実験と称して拷問まがいの虐待をしていましたね」

「ち……違う、私はあのプロジェクトには参加していない」

「その少女の次に、今度は私を麻酔薬で意識を失わせ同じ事をしていた。だけどその時に坂本さんと一緒に私の身体をオモチャにして愉しんでいましたね。なんて破廉恥でおぞましい」

 少女は人差し指を前に出し、メトロノームのように数回振った。

「私が意識を失う程の麻酔薬となるとテラフェンタニルでも使いましたか。でもそのデータがあったから私も寝ている間に死刑になったので感謝はしていますが、一歩間違えればラボで私は死んでいたかもですね」

 人差し指が止まった。

「決まりました。殺人未遂及び強制性交の罪で死刑です」

 だらりと下げた少女のレインコートの左袖から、スッと何かが滑り出して来た。

 黒光りするそれが津田の見た最後の光景だった。

     ◇

 天海は高い白い壁に背もたれ、微かに星が瞬いている夜空に向かい、タバコの煙を吐いた。うっすらとした紫煙が暗闇に消えていく。

 ザサっと草が擦れる音が右手の方から聞こえた。天海は横目でその方を見る。黄色い物体が薄墨の闇の中から現れた。

「どうだった? 」

 天海はタバコを携帯灰皿に捻じ込みながら言った。紫煙が天海に纏わり付く。

「やはり左の距離感がまだ甘いな」

 葵はフードを取りながら言った。

「だが活動時間は確実に伸びている。若い身体はいいねぇ」

「そうじゃないわよ」

 天海は呆れ口調で壁から離れ、歩きだした。

 並んで歩く先に、白い軽自動車が現れた。天海は運転席側に回り込み、葵は助手席のドアを開けるとレインコートを脱いだ。

 葵は薄いピンク色のパジャマを着ていた。葵はレインコートを丸め後部座席に放り投げ、ふたりは同時に車に乗り込みドアを閉めた。

「お姉さまの言っていた通りでした。はい、これ」

 葵はパジャマの胸ポケットからSDカードを取り出した。

「この手のスキルはお姉さまには敵いません。今度教えてくださいね」

「その声やめて。じゃあ、あっちとの交渉を再開するわよ」

 天海はSDを受け取り、シートベルトをすると、ゆっくりと車を発進させた。

「そうだな、早めに次の物件を抑えておく必要がある」

 走行音が砂利道から舗装道路に変わった。

「安物のナイフも飽きた。近いうち預けてあったエモノ取って来る」

「前にも言ったけど平日の昼間は一緒に動けないわよ。私には本業あるんですからね」

「分かってるって、心配しなさんな。ちゃんと後始末もしてくる」

「心配なんかしてないわよ、でもこれだけ大きく動いたら警察だって馬鹿じゃないわ。慎重に行動して」

「そうだな。あのハゲの刑事が出てくれば楽しめるけどな」

「まだ拘っているの? 」

「ん? ああ、また会おうって約束したし。男同士の約束」

「ほんと馬鹿じゃないの? 」天海は呆れた声を出した。葵はニヒヒと笑った。

「それよりシートベルトしなさいよ、見つかったら面倒よ」

「それは勘弁。拘束衣思い出す」葵は助手席を大きく倒した。

「それよりNシステムに引っかかるなよ」

「あんなものに引っかかると思っているの? 」

「それは失礼しました、お姉さま」

「それと家帰ったらシャワーくらい浴びなさいよ、汗臭いわ」

「それはもっと勘弁」

 葵はまたニヒヒと笑った。

     ◇

 赤いボルボは早朝のコンビニの駐車場に止まっていた。缶コーヒー二つを月岡がレジに置いた時、サイレンを鳴らしたパトカーと救急車が、コンビニ前の道を猛スピードで走って行った。

「何か大きな事故があったんですかね」コーヒーにバーコードリーダを当てていたレジの若い店員が隣に居た年配の店員に聞いた。

「十台近く行っているからなぁ」年配の店員は心配そうに言った。

 月岡はコンビニを出て車内に乗り込み、運転席側のドリンクホルダに一つ置いた。

「コーヒー買って来たよ、飲むかい」

 助手席を倒し、右腕で目を隠している後藤は反応しなかった。月岡は何も言わずに助手席側のホルダにコーヒーを置いた。

 再びサイレンを鳴らし赤色ランプを廻しながら数台のパトカーが走り去っていく。

 月岡と後藤はイノセン社まで辿り着いたが、イノセン社の入口ゲートは当然閉まっていて、中に入る事は出来なかった。道沿いに並ぶ、広大な敷地を囲う白い高い壁も後 藤達の進入を拒んでいる。

 分かり切った事だったが、諦めきれない後藤は月岡にもう少しだけこの場に留まる事を願った。夜の明けていない闇の中のイノセン社は外から見ているだけでは静かに眠っている様に思えたが、後藤の話では中では大量殺戮が行わていて、更にもっとおぞましい殺人があった筈だ。

 何も出来ずイノセン社周辺の道を何度も往復していると、遠くからサイレンの音が聞こえて来た。何か言いたそうな後藤を無視し、月岡はその場から離れた。

「君が気にする事はない。どうしようもないじゃないか」

 月岡は顔を隠している後藤に声を掛けたが、後藤からの返事はなかった。月岡は小さな溜息を吐いてコーヒー缶を手に取り、プルトップを起こした。その時、後藤の呟きを聞いた。

「今度は……止めます」

 月岡は何も言わず甘ったるいコーヒーを一口飲んだ。

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