3・アクティブ
1.『アクティブ』
「夏季補講、ちょっと長すぎない? 8月末までって長すぎるぅ。それに毎日制服着用ってこれじゃ普通の授業と一緒じゃないの」
朋美は、夏休みに行われる補講のプログラムが書かれた用紙を右手でひらつかせながら、不満を口にしていた。
「そうね、受験の準備って言われてもまだ先の話だよね」
葵と朋美は、保健室に向かって廊下を歩いていた。夏休み前の短縮授業になり、昼休みが終わった頃には、ほとんどの生徒が下校していた。廊下で数人の教師とすれ違ったが、葵は挨拶を交わしたのに対し、朋美はずっと補講に対する愚痴を言い続けていた。
「葵は良いわよ。ずっとストレートでここの学校だろうけど、私はパパから高校は他に行けって言われているから受験を考えなきゃいけないし。あぁ私も葵の所みたいにお金持ちの家に生まれたかった」
「朋美の家、お金持ちじゃない」
朋美の父親は確か名のある企業の重役だった筈だ。入学式の時に朋美を送ってきた父親の車は、左ハンドルの高級車だったのを覚えている。
「葵の家ほどじゃないよ。ここの学費高いって何時も言っているもん。でもさ、パパが行けって言っている高校も私立だし、学費変わらないと思うんだけど」
「何処なの? 」
葵達の通う学院も、年に数人、有名国公立大や私立大学への現役合格者を出す進学校として地元では知られていたが、朋美はさらに有名大学への現役合格者が多い高校の名前を出した。
「凄い所目指しているんだね」
「私がじゃないよ、パパが。あの人、大学もブランド指向だからね。私じゃなくて葵が行けばいいのに」
「私じゃ無理だよ」朋美は呆れた表情で葵を睨み付けた。
「学院1位の人が言うと厭味にしか聞こえないって。あんたね、謙遜も時と場合って覚えておきなさいよ」
葵は愛想笑いで返した。朋美は遠慮なく自分に意見してくれる。時に年取ったオバサン口調になるのが葵は面白かった。だが成績の事を言われて戸惑いを覚えた。
葵の学力は良くも悪くも無く平均より上程度であったが、最近急激に成績が上昇してきた。先日行われた学期末テストで、遂に葵は同学年での席次1位になった。朋美や葵のクラスメイトは「凄い」を連発し、葵の快挙を騒ぎ立てた。両親や祖父の秋臣も大変喜んでくれたが、当の本人の葵は、喜びよりも不気味さを感じていた。
その原因は、勉強をしなくても答えが分かってしまう事だった。
授業中、教科書を開いて設問を見ただけで答えが頭に浮かぶ。難解だった数学の公式は難なく覚えられ、それを高次元に展開した式も同時に理解できた。英語のテキストは日本語に見え、読めばネイティブの発音になった。化学の授業では、ベンゼン環の立体モデルを使った簡単な分子構造の説明を教師がし始めた時、葵の脳には数百種類の分子構造と式、その化学結合物の名称が一気に浮かび、思わず悲鳴を上げるのを我慢した。
試験の時も、解答用紙にただ頭に浮かんでくる文字と数字を書き入れるだけだった。
どうしてこんな事が起きるのか、葵には到底理解出来なかった。
だがひとつだけ心当たりがあった。それは保健室での天海のカウンセリングが椅子に寝るだけになって以降、成績が急上昇した。
葵は自分の戸惑いを表情に出さず、朋美と並んで歩き続けた。朋美の話題は近郊に出来た大型アウトレットモールに変わっていた。
葵と朋美は廊下を右に曲がった。朋美はずっとお喋りを続けている。ふたりは保健室のドアの前で立ち止まった。
「ほんと最初だけだよ。それも天海先生の許可貰ってからね」
葵は朋美を見て言った。
「分かっているって。ちょっと興味あるだけだからさ」
朋美はニヒっと笑って答えた。
放課後、保健室に行く葵に「カウンセリングを見せてほしい」と朋美が声を掛けてきた。葵は断ったが、何度も手を合わせて頼む親友の依頼に葵は根負けして「天海先生が許してくれるなら」の条件で同行を許した。
「小野寺葵です」
葵は保健室のドアをノックしながら言った。返事は無かった。再度ノックしたがやはり返事は無かった。
「お留守かな? 」朋美が呟いた。
「そう……みたい」
「でも部屋の中、電気付いているね」
朋美が下を見ながら言った。葵も視線を下に向けると、ドアの下の隙間から薄暗い廊下へ明かりがこぼれていた。
「入って待っていようか」
そう言うと朋美は、スライドドアの銀色のドアノブに手を掛けた。音も無くスルスルとドアが開き「失礼しまぁす」と言って朋美はひとりで部屋の中に入っていった。
葵は友人の素早い行動に口出す暇が無かった。
「まったく」と言いながら朋美の後を追って保健室の中に入る。ドアからすぐの所には薄いピンク色のカーテンがあり、部屋全体を区切っていた。ドアの両脇には丸椅子が数脚置かれていた。葵の後ろでスライドドアが自動的に閉まっていく。
天海が在室の時は、カーテンが開け放たれているが、診察する生徒がいる時はカーテンが閉じられ、ドアとカーテンで仕切られた空間が簡易的な待合室になった。
今カーテンは閉じられているが、その向こうに人の気配はない。天海はやはり不在の様子だった。朋美はカーテンの前で立ち止まっていたが、軽い声で「失礼しまぁす」と言ってカーテンを開いて先に進んで行った。
「やっぱり天海先生居ないよ」
カーテンの向う側から朋美の声がする。葵は苦笑しながらカーテンを押しのけ部屋に入っていった。
部屋の中は明かりが点いたままだった。部屋に入ってすぐ右側には窓があったがブラインドは閉ざされていて外光は遮られていた。窓際には天海が執務する机が置かれていて、その上には閉じられたノートパソコンと、コードレス電話の子機が置かれていた。そしてもうひとつ、手のひらサイズの薄くて小さな長方形の携帯型音楽プレイヤーがケーブルでノートパソコンと接続されていた。
「これが例の椅子? すっごい上等」
何時の間にか朋美はカウンセリング用の椅子の傍に立っていた。朋美の問い掛けに葵は頷いた。
「ねぇこれに座っていい? 」
朋美は葵も見ずに言って、さらに葵の返事も待たずに既に椅子に座っていた。
「うわっ、すっごいフワフワ。凄い」
朋美が背もたれに体を預けると、背もたれは静かに傾いて行った。
「わ、何? これ自動? 」朋美は驚いて、傾いて行く背もたれから体を離した。
「驚きすぎよ」葵は微笑んだ。
「これに座って天海先生とお話しているの? 」
「そうよ」
朋美は、へぇーっと言って悪戯っぽく笑った。
「つい寝ちゃって天海先生に悪戯されてない? 」
「バカ」葵は顔を赤くした。
「冗談、冗談」
朋美はケラケラと笑って言った。朋美は椅子から勢い付けて立ち上がり、葵を手招きした。葵が椅子を背にして立つと、朋美は葵の両肩を押した。不意に押された葵はバランスを崩して椅子に倒れこむように座らされた。背もたれは朋美が倒していたので、葵は深く椅子に座る事になった。
「今日は私がカウンセラー」
朋美はそう言うと窓際にあった机から椅子を持ってきて葵の正面に座った。
「今日は何の御用ですか? 」朋美は急に真面目な表情になった。
「恋の悩みですか? それなら黙っているのは駄目ですよ。私に何でも話してください」
葵は吹き出しそうになった。朋美はまだ聞いてくる。ファーストキスは何時ですか? 相手は誰? お父さんは異性に入りませんよ、朋美は一方的に喋って葵は笑いを抑えていた。朋美は椅子から立ち上がり左手を腰に当てて歩き始めた。
「小野寺君はあまり本音を言いませんね。先生はそれが心配です」
「もうやめてよ」
葵は笑いながら言った。朋美も笑いながら窓際の机に近づいて行った。
「これ最新型かな? 見た事無い形」
朋美は小声で呟きながら、机の上に置かれていた携帯型音楽プレイヤーを手に取った。プレイヤーは鈍い銀色で、小型の液晶ディスプレイが本体の上半分を占めていて、下半分は何もなく無垢なアルミの筐体だけだった。
「何しているの? 」葵は背もたれに体を預けたままで聞いた。葵の位置からは朋美の背中しか見えなかった。
「何でもないよぉ」朋美はそう答えながら、何気なく右手の親指で液晶画面の下の、何も無い場所を押した。
トクン
微かな音と振動を葵は感じた。そしてこれも微かではあるが、首筋にチクっと痛みを感じた。
朋美はプレイヤーの液晶画面がパッと点灯したのが分かったが、画面には何も表示されなかった。「故障? 」そう呟きながら親指で再度筐体の真ん中を押した。
ドクン
はっきりとした音が保健室の中に響き渡り、部屋の照明が薄暗くなった。葵は驚いて身体を起こそうとしたが、何故か力が入らなかった。
ドクン ドクン
「何? 」
朋美は驚いてプレイヤーを落としそうになったが、慌てて握りなおした。部屋の明かりがまた一段階落ちる。
ドクン
葵は、椅子の背もたれから突き上げてきた突然の振動と音に、意識が飛びそうになった。
ドクン ドクン
声が出ない。体が動かない。
ドクン ドクン
葵の視線の先には朋美の後姿が見える。が、その姿が段々暗闇に消えていく。
朋美は握り締めたプレイヤーを慌てて机に置こうとしたが、親指が再び真ん中を押した。
ドクン ドクン
保健室に大音量が響き渡った。部屋が震え、明かりが全て消えた。
そして葵の意識も消えた。
ドクン ドクン ドクン ドクン
得体の知れない音が一定のリズムを刻み、大音響で鳴り続けた。
朋美はプレイヤーを放り投げ、咄嗟に葵の方を振り向いた。
朋美は息が止まった。椅子の場所だけが明るい。その場所だけ、天井から指向性強い明かりが放たれていた。黒い椅子とそれに包まれるように座っている葵だけが、闇の中に浮かんで見えた。そして葵は目を開けたまま、無表情で天井を見上げている。
青白く光る肌と、時が停止しかたのような表情。
朋美は葵が死者に見えた。不気味さを超越した恐怖を、朋美は感じた。
「あおいぃぃ」
朋美は叫びながら葵の傍まで駆け寄った。
「葵、あおいぃ」
泣き出しそうな声で朋美は葵の体を揺さぶった。だが葵の表情は変わらず、問いかけにも答えなかった。朋美は葵を揺さぶるのを止めた。
葵の体が脈打っていた。だが、朋美は葵自体が脈動していない事にすぐ気づいた。
椅子が生き物の様に脈動している。椅子の脈動は、一定間隔で鳴り響いている音と同調していた。
「何よ、これ」朋美は泣いた。怖くて泣いていた。
朋美は、無表情で目を見開き、脈動している友達を置き去りにしてこの場から逃げ出したかったが、体は机に向かった。机の上に放り出されたプレイヤーを、震え続けている手で掴んだ。
その間も大音量で音は一定間隔で鳴り続けている。原因はこれだ。これを止めれば音も止まる。朋美はプレイヤーを手に取ったが、止め方が分からない。また誤ってボタンを操作したら状況が悪化するかもしれない。
朋美はプレイヤーとノートパソコンを繋いでいるケーブルを引き抜くことを考えた。これもどうなるか分からない。だが何かしなければいけない。少し躊躇したが、朋美はケーブルを掴んだ。ケーブルを引きちぎるつもりで右手に力を込めた時、その右手を掴む手があった。朋美は叫び声をあげそうになったが、耳元で聞き覚えのある声がした。
「触らないで」
天海が朋美の傍らに立っていた。天海は朋美が持っているプレイヤーを自分の手に取った。同時に鳴り響いていた音が止まり、部屋の照明が戻った。
天海はプレイヤーを静かに机に置くと、床にへたり込んでいる朋美を置き去りにして葵の方へゆっくりと近づいていった。
「思ったより早かったわね」天海は微笑みながら葵の右頬に左手を添えた。
「あ……あの」朋美が震えながら立った。
「篠塚朋美さん、だったわね」
天海は朋美を振り返りもせず、優しい声で尋ねた。朋美はその声に何故か恐ろしさを覚えた。
「ここから出ていきなさい。小野寺さんはもう大丈夫だから。でもこの事は誰にも口外しては駄目よ。もしあなたがこの事を話したと分かったら」
天海が振り返り、穏やかに微笑みながら言った。
「この世から消すわよ」
◇
葵が保健室で気を失った時と同じ頃、遠く離れた場所にいた後藤の身にも異変が起きていた。
◇
その時、後藤はバイト先の学習塾の控え室に数人の講師と一緒にいた。来週から始まる夏期講座に向けての会議をしている時だった。
ドクン
後藤の心臓が激しく波打った。
前触れなしの突然の激痛。後藤は息を呑んだ。周りの風景は変わらない。音も普通に聞こえる。だが大きく波打つ心臓の鼓動と痛みが後藤の体の自由を奪う。
後藤の隣に座っていた女性の講師が、後藤の異変に気づいた。
「後藤さん? 」
女性講師が後藤に声を掛けた。後藤の顔には脂汗が吹き出していた。後藤は必死に声を出そうとした。その瞬間、心臓を中心に全身に破壊的な激痛が走った。
辛うじて残っていた後藤の意識が一瞬で飛んだ。
「後藤さん! 」女性講師の金切り声が後藤の耳に届いた時には、その体は椅子から滑り落ち、床に転がっていた。
◇
葵は目を開けた。
背中に柔らかい感触がある。葵は自分が床に寝ている事が分かる。
天井が無い。ぽっかりと開いた白い空間だけが見える。
葵はゆっくりと起き上がった。自分の体だが強い違和感があった。起き上がろうとする意思からワンテンポ遅れて体が動く。
自分の意識が遠くにあり、体を操っている。そんな感覚だった。
葵は周りを見回した。
やはりあの『白い部屋』だ。葵は認識する。その認識も霧に包まれていた。
白い部屋。夢で見ていた部屋。
最初の頃は怖くて必死に逃げ出そうとした空間。
でも今は怖くない。
眠い。もう一度床に寝そべりたい。そんな気持ちになったのは初めてだ。
……不思議。どうしたんだろう?
葵は思い出そうとする。
……誰かが居た。
この部屋を『安全な所』と言ってくれた人が居た。確か女の人だった。だが思い出せない。白い霧が脳の中に染込んでいるようだ。
――カチャ
音がした。葵の後ろからだった。葵は振り返る。扉が開いている。
……扉?
扉はゆっくりと開いていく。
……誰?
人影が見えた。扉の向こうから人が部屋に入ってきた。葵は目を凝らした。
……男の人だ
急に眠気が襲ってくる。瞼が重く感じる。体も起きているのが億劫になってくる。男はゆっくりと葵に近づいてくる。
……この人、知っている
葵は段々消え行く視界の中で、銀髪の男が微笑んでいるのが見えた。
◇
「起きた? 」
男の声が聞こえた。聞き覚えがある声だと後藤は思った。
「よくよく君とは縁があるね」
後藤はゆっくりと横を向いた。月岡がパイプ椅子に座って、バインダを見ていた。後藤は既視感だ、と思った。
「もし君が美貌の女性でこんな偶然が2回も続いたら、僕は運命の女性として君に求婚しただろうね。でも残念な事に君は男で、僕が君の傍に座っているのは、君が万が一の際にと僕の名刺と電話番号をアルバイト先の塾に教えていたからだ」
目覚めたばかりで部屋の明かりが眩しい後藤は再び目を閉じたが、口には笑みが浮かんでいた。
「迷惑掛けました」後藤は目を閉じたまま、ゆっくり話した。
「今回は前のとは違うみたいだね。呼吸はあるけど君が運び込まれた時の血圧も脈拍も異常だ。変な言い方だけど今回は正常な異常事態だね。何があったの? 」
月岡はバインダから目を離して後藤を見た。
「起きていいですか? 」後藤は目を開けた。
「大丈夫だよ」
後藤は上体を起こした。簡易ベッドの周りは薄いカーテンで締め切られていて、カーテン越しに外の雑踏が聞こえてきた。
「心臓が破裂したかと思いました」
「前のとは違った? 」
後藤は首を振った。「今日のやつは突然来ました。突然心臓が痛くなって身体中に電流が走って。声出そうと思っても、全然出せなかったです」
「前触れは? 」
「無かったです」
「じゃあ時間が止まったり、妙な力が湧いてきたりとかは? 」
「それを感じる事すら無いってのが、正直なところです」
ふーんと呟き、月岡はバインダに挟まっている紙に、ボールペンで文字を書き込んだ。「今回は本当に一時的な心筋梗塞だったのかな? でもCKの値は正常値だし、何処かに今までのストレスが溜まっていたのか……」
月岡は小声で独り言を呟いていた。
「他に何か変わった事は無かった? 時は止まらなかったけど、逆に早送りみたいになったとか」
後藤は首を横に振った。そう、と一言言って月岡は黙った。カーテン越しに、診察に呼ばれる人の名前が聞こえてくる。
「でも……」先に後藤が口を開いた。
「何でもいいよ」
「気を失う前に……変な風景を見ました」
「どんな? 」
「倒れた部屋と全く違う部屋の……風景って言うか」
「例の白い部屋じゃなくて? 」
「そこじゃありません。何処かの……学校の何処かの、部屋でした」
月岡は首を少し右に傾けた。
「質問、いい? 」
「はい」
「どうして学校って分かるの? 」
後藤は思い出しながら答えた。
「セーラー服着た……中学生くらいの女の子が、その部屋に居ました」
◇
天海はコードレス電話を手に取り、記憶していた11桁の電話番号を押した。数回のコールで相手が出る。
「北岩さんでいらっしゃいますか? 」
学院内で葵の体調に異変があった時に備え、保健医の天海には小野寺家への緊急連絡先が渡されていた。その緊急連絡先の上位には、小野寺家の電話でも葵の両親の携帯番号では無く、運転手の北岩の携帯番号が記されていた。
「お久しぶりです、天海です。実はですね、先ほど葵さんが体調不良を訴えられまして。恐らく貧血だと思うのですが」
天海の耳に、落ち着いてはいるが緊張感のある声が聞こえてきた。
「はい、いえ、それには及びません。今は落ち着いていますので、もう暫く保健室で休ませたいと思います」
天海は電話を持ったまま窓際に近づき、閉じられているブラインドに人差し指を突っ込み、軽く下に下げた。その隙間から校門近くの駐車場が見える。そこには銀色のベンツが停まっていた。
「意識もはっきりしていますから、木田先生への連絡は大丈夫と思いますが、念のためにもう暫くしてから下校させたいと思います。もし宜しければ私の車で葵さんをご自宅まで送りたいと思いますが。はい? ……はい。分かりました。ではまたこちらからご連絡します。では失礼します」
天海は通話を切った。
「ほんと忠実な番犬ね」
天海は笑いながらコードレス電話を充電スタンドに差込み、そのまま葵がいる黒革の椅子に近づいていった。
葵はヘッドフォンを両耳に装着し、リクライニングした椅子に深く沈みこむ様に座っていた。葵の膝の上にはノートパソコンが置かれ、左腕には点滴が打たれていた。
ノートパソコンの画面には心電図のオシロスコープがコンピュータグラフィックスで再現されていた。無音の中、ピークとフラットの波形が定期的に現われては消えていく。
天海は右側の肘掛に腰を落とし、スキニージーンズを履いた細い足をクロスした。そしてそのまま自分の顔を葵の顔に近づけていった。
葵 は目を見開いたまま、無表情でノートパソコンの画面を見つめていた。天海は赤縁の眼鏡を取り、葵の右頬に唇をそっと当てる。葵の白く柔らかい頬にうっすら天海の紅が付いた。
「会いたかったわ」
天海はヘッドフォンを外し、葵の耳元で呟く。葵の表情に変化は無い。
「もうすぐね。次のイベント、楽しみにしていてね」
葵の唇が微かに動く。天海は微笑みながら、人差し指でゆっくり葵の唇をなぞった。
◇
「こんな部屋かな? 」月岡が部屋の間取りと、室内が描かれた紙を後藤に見せた。後藤はそれをじっと見て頷いた。
「大体こんな感じです。一瞬だったから見える範囲だけですけど」
ふーん、と鼻を鳴らして月岡は後藤に見せた紙を手元に戻すと、バインダに挟み、ボールペンで何かを描きはじめた。
「上手いですね、絵」
描かれた室内の絵は、パースが正確で見易かった。
「ん? ああ、まあね」月岡は適当に相槌を打ちながら手を動かしていた。
「学生の頃、演劇サークルにいてね。まあ素人の集まりだし、劇団員も少なかったからひとりで何役もやっていたんだけど、段々役者と裏方の両方やるようになって」
後藤は目を丸くした。感情の起伏が無い月岡が演劇をやっていた事に、本当に驚いていた。
「そしたら意外と絵を描くセンスがあるって気付いてね。最初は大道具だけだったのに、衣装まで任されてね。それからはずっと役者と裏方の二足の草鞋だったよ」
「……劇ってどんな劇ですか? 」
「シェークスピア。古典中の古典だけどね」
後藤は月岡が自分を担いでいるんじゃないかと疑ったが、真剣な表情で筆を走らせている月岡の姿に、その言葉を信用した。
「凄いじゃないですか、シェークスピアって」
「凄くないよ、別に。やっていただけ。やるだけだったら、誰でも出来る」
月岡は表情変えず、しらっと言った。
「あと最大の手掛りはこれか……こんな感じの制服? 」
月岡はバインダをクルリと廻し、後藤に見せた。そこには部屋の間取りの横に、セーラー服のイラストが見事に描かれていた。
「はい」後藤は頷いた。
「襟は紺で白の3本線、スカーフは赤? 」
月岡はバインダを再び自分に向け制服の各部位から引き出し線を伸ばし、その部位の色を文字で書き込んでいった。
「それでスカーフ留めは黄色……紺色のスカートっと」
月岡はボールペンを細かく動かした。
「これでどう? 」
月岡はバインダごと後藤に渡した。後藤は自分の記憶の中に見たセーラー服が、正確に描かれていたのを確認して大きく頷き無言でバインダを返した。
「となると、この制服の学校が本当にこの世にあるか、だな」
「面白くなってきたんじゃない? 」
後藤は微笑みながら肩を竦めた。
◇
夕日を背中に受け、ゆっくりとした足取りで葵が銀色のベンツに近づいてきた。赤レンガが敷き詰められた地面に、葵の長い影が伸びている。
「お嬢様」
北岩が小走りに駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? 」
葵は初対面の人から声を掛けられたかの表情で、背の高い北岩を見上げた。
「お嬢様? 」
北岩は訝しげに葵を見つめたが、葵は無表情に近く目には力がなかった。
「……北岩さん……ご心配掛けました」か細い声が北岩の耳に届く。
「本当に大丈夫ですか? 病院へ向かいましょうか? 大先生からは何かあれば遠慮せず来てもいいと仰せつかっています」
「いえ、大丈夫です。ちょっとお薬が効いているみたいで。お家で休めば元に戻ります」
「お嬢様……」
葵は力無く微笑むと軽く会釈して「帰りましょうか」と言い、ベンツの後部ドア近くに立った。北岩は素早く葵の横に立つと後部ドアを開け、葵が後部座席に座るのを確認するとひと呼吸置いて、分厚いドアを閉めた。北岩は普段より素早い動きで運転席に滑り込むと慎重にドアを閉めた。シートベルトを装着し、エンジンキーに手を掛けながらバックミラーで、後部座席の葵を見た。北岩は違和感を覚えた。
「お嬢様。シートベルト、お付けにならないのですか? 」
意思の光を放たない目で窓の外を見つめていた葵は、北岩の問い掛けにすぐには答えなかった。葵はゆっくりと視線をバックミラーに向けた。
「シートベルト? 」
北岩は返答に困り黙って頷いた。
「ああ……そうですね。シートベルト。すいません、今……します」
葵は緩慢な動きでシートベルトを引っ張り出し、バックルに差し込んだ。硬質な金属音がしてシートベルトが葵の体を拘束した。
その瞬間、葵は反射的にバックルを解除し、ベルトを慌てて振り払った。大きく振り払われたバックルが窓ガラスに当たり、カン高い金属音がした。
後部座席の異変に気づいた北岩が思わず振り返る。
「どうなされました? 」
冷や汗が額に滲んだ葵が、自分でも驚いたと言う表情で北岩を見た。
「あ……いえ。ちょっと……」葵は口篭りながら返答に困っていた。「今日は少し気分が悪いので……シートベルトは……」
北岩は葵の意を汲み、正面を向いた。
「それでは動きます」
北岩は何時もより慎重にアクセルを踏み込んだ。葵を乗せたベンツはゆっくりと学院の駐車場から表通りに出た。
後部座席で葵は、焦点の定まらない目で窓の外を見ていた。葵の目に夕日を浴びた学院の校舎が映る。白い外壁の校舎が赤く染まっている。
「赤い……」
葵は無意識に呟く。何か大きな出来事があった。葵はそれを思い出せないでいた。
眠い……眠りたい……
葵は意識を失うように、暗い闇の中に落ちていった。
◆
『タカチホ・レポートⅡ』
15年前、世界で初めて『タカチホブラッド』が確認された少女は、厳重に秘匿された国の研究施設に移送され、徹底的な検査を受けた。そして半年後、研究者達はこの血液の特異点を特定した。
血液型は通常赤血球の表面にある抗原の種類によりABO式に分類される。その抗原は数種類の糖が鎖状に連なっている「糖鎖」と呼ばれる分子の配列の違いが血液型を決定していた。「糖鎖」は赤血球だけではなく普通の細胞にも存在し、その名の通り鎖状になって細胞表面から無数の触手の様に伸びている。だがタカチホブラッドはその「糖鎖」を構成している「糖」の一部に「未知の分子」が加わる事で「鎖」が外れお互いを結び付けあう「円環状」になる事が判明した。研究者達はその「未知の分子」を『
この違いは、収容後の少女の回復経過観察により発見された。収容時、少女の回復は目覚ましいものではあったが、全治には至っておらず、その期間彼女のTB因子はアクティブの状態だった。だが時間の経過と少女の回復と共にTB因子の円環状の形態は徐々に減少し、数か月後には全血液の8割のTB因子はインアクティブになった。そして、もうひとつアクティブになった少女に驚くべき変化が起きていた。身体の回復に伴い行われた視聴覚の検査で、少女の感覚が異常なまでに向上していた事が確認された。聴覚はヒトの可聴域を遥かに超え超音波域まで感知し、視覚はハイスピードカメラの様に高速で動く物体を明確に捉える事が出来た。また脳波測定においても、脳全体が発火していると思われる程のシナプス活動が確認された。この事からタカチホブラッドの持ち主が生命の危機に瀕した時のように、何らかの条件が重なった時にTB因子がアクティブ、活性状態になり、超常の力を発揮するとの仮説が立てられた。その発生原理も、不可思議な力を生み出す理屈も全く謎ではあったが、「糖鎖」は人間の体のあらゆる細胞に存在し、免疫システムや体内タンパク質の生成、エネルギー代謝にも深く関係している事が最近の研究で判明しており、その関連性を指摘する研究者が多数だった。
少女が研究施設に移送されてから1年後、研究者たちは赤血球にあるTB因子判別法を確立。血液検査でタカチホブラッド保有者と非保有者を区別できる事になった。それを受け国は労働安全衛生法を改正し全国民を対象に血液検査の実施、もしくは検査結果の国への報告を義務付けた。TB因子がインアクティブの時は通常の血液と何ら変わりはないが、アクティブになった場合は他者の血液と同型であっても凝固凝集が起きる事は確認されていた。「未知の血液と知らずに輸血や献血をした場合を考慮し国民の健康と生命を守る為の予防措置」とされたが、それは全国民の中からTB因子を持つ人間を探し出すスクリーニング検査の建前である事は周知の事実だった。そして、似たような動きは公式にも非公式にも全世界へ広がっていった。不死力と超能力を備えたタカチホブラッドの存在は、医学や薬学の分野における『ヒューマンリソース』としての価値だけではなく、超生命進化と言うべき人類のパラダイムシフトが起きる鍵であると考えられていた。
そして大規模なスクリーニングの結果、TB因子が確実に確認できた人間が国内で10数名発見された。
彼らは『TB観察対象者(Genuine:クラスG)』と呼ばれた。次にクラスGとの判定が困難であるが、TB因子の疑いのある人間が1万人近く発見された。彼らは『準観察対象者(Associate:クラスA)』と呼ばれ、そのクラスはTB因子の不確定度が低い順、つまり『クラスG』に限りなく近い順に『A1』から『A5』までの5段階に分けられた。それを受け、政府は法律を改正し、彼らの血液が誤って輸血や献血をしないようカルテや身分証明書にクラスを記載する事を義務化した。
彼らの個人情報は公にされる事は無かったが、情報は何処からか漏れ、世間の好奇な目や差別、功名を得ようと先走った学者達に追い回されるなど一時的ではあるが平穏な生活を送れない状態が続いた。国は彼らの保護と幾ばくかの報酬の見返りに、タカチホブラッドの研究対象として検査や追跡調査に協力する事を求め、ほぼ全員がその調査に同意した。
その中に『クラスG』判定を受けた当時8歳だった佐村了がいた。
タカチホブラッド保有者は、一概に高い知性や運動に長けた者達が多く、それはクラスGに近い者ほど多い傾向が見られた。
佐村にもその特徴が顕著に見られた。驚異的な運動能力と明晰な頭脳を持ち、佐村自身の容姿の良さも相まって、匿名が求められる身でありながら、佐村の姿と行動はネットを中心に多くの耳目を集め、タカチホブラッドのアイコンになっていた。
そして天変地異がTBと人類の歴史を大きく狂わせた。タカチホブラッドが世に知られてから5年後、群馬県北部に存在する「深谷断層帯」を震源とするマグニチュード7.8の活断層型地震が発生。東京北部を含め北関東エリアに被害が及ぶ大規模な地震だった。
後に北関東地震と呼ばれたこの震災は、過疎化が進んだ人口密度が比較的低い山間部が震源であった事から、人的被害は過去の大震災と比べ少なかったが、それでも各地で大規模な山崩れや地滑りなどで数多くの町や村が壊滅状態になり、交通インフラの大断絶も多数発生した。
その時奥多摩山中のとある施設も、この大震災により壊滅的な被害を受けた。このある施設は後に『人類特殊進化研究所』通称『人特研』だと正式に発表された。そこはタカチホブラッドの最初の少女、秋川恵が移送されていた施設だった。
山崩れと共に多くの施設が倒壊。同時に発生した火災により倒壊を免れた施設も大きな被害を受けた。国はすぐに救助隊を派遣したが、研究所に向かう道路や橋が壊滅的被害を受けていて、またヘリによる空中からの救助も、急峻な地形の山間部では着陸地点を設定できず、その施設に辿り着くのに数日を要し、被害の全容を把握するのに数週間要した。
施設の倒壊と救援の遅れにより、20人いた研究者達は全員死亡し貴重な研究成果の大半も失われた。だが何よりの大きな損失は、少女が行方不明になった事だった。貴重な研究素材である少女の捜索は最優先で行われたが、遺体の一部すら見つからなかった。この想定外の震災により、タカチホブラッドの研究は残された10名ほどのクラスGのタカチホブラッドの持ち主、特にインアクティブながら異常な能力を発揮している佐村へその比重を移していった。
一方、国は震災復興へ緊急財政出動を余儀なくされ、人特研の再建は後廻しになりタカチホブラッド研究の停滞が懸念された。そこで民間資本力を活用して特殊法人『タカチホブラッド・リサーチ・ラボラトリ』通称『ラボ』を設立。タカチホブラッド研究の本丸として再稼働した。同年、そのラボにて佐村のアクティブを確認。
佐村了12歳、世界で2例目のTB因子の活性確認だった。
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