2.傷

 1.『傷』

 小野寺葵は半乾きになったスクール水着のまま、ほとんど人が居なくなった更衣室の長いベンチに、頭からバスタオルを被って座っていた。同級生の笑い声や、立て付けの悪いロッカーの扉が閉まる音が段々少なくなっていく。

「葵ぃ、先に行くよぉ」

 親友の朋美が出入り口付近から声を掛けてきた。

「うん、先に行ってて。後から行くから」

 葵が答えると朋美は軽く手を振って他の同級生と一緒に更衣室から出て行った。ガシャンっと扉が硬く閉まる音がして、葵は独りきりになった。

 葵はゆっくりと立ち上がると、重い足取りでシャワールームに入った。入り口の薄いビニールカーテンを閉め、頭から被っていたバスタオルを壁に掛けた。

 右手を伸ばし、壁にある赤いボタンを押した。シャワーヘッドから適温に調整されたお湯が、勢い良く葵の冷えた体に降り注いだ。

 水泳の授業は嫌いだ。選択科目なら絶対に選ばなかっただろう。小学校の頃は、持って生まれた持病の関係でずっと体育は見学だった。楽しそうにボールを追いかける同級生を本当に羨ましく思った。プールの授業もそうだった。家族で海に行く機会が何度もあったが、波打ち際で足首に波が掛かる程度で終わっていた葵にとって、嬌声と水しぶきを上げる同級生をプールサイドで見ているしかない自分の体を呪った。その呪いは3年前に解かれた。過激な負荷が掛かる運動でなければ、体育の授業への参加は可能になった。

 だが、その代償は思春期の少女とって耐え難い『印』として刻まれた。

 葵は右肩から水着を脱ぎ始めた。直接体にお湯が当たる。右手の掌で、膨らみかけた左乳房の下から鳩尾に掛けてなぞる。

 トクンっと鼓動を指に感じる。その『印』は確かにそこにあった。何度も何度も触れても無くならない。命と何不自由なく動ける体を得た代償。

 葵は、その天秤の平衡を未だ客観的に見る事が出来ないでいた。

 今はただ、温かい液体が冷えた体を包んでくれる事に小さな幸せを感じていた。

     ◇

「遅れました」

 葵は息が上がった声を抑えながら、銀色のストレッチリムジン使用のベンツに小走りで近づいて行った。ベンツの後部座席は開け放たれていて、その横に小野寺家の運転手、北岩が立っていた。北岩はがっちりとした体格で、筋肉質な身体はスーツ姿からでも容易に想像できた。その北岩は微笑みながら「大丈夫ですよ」と言い葵が後部座席に滑り込むと、安全を確認し分厚いベンツのドアを閉めた。ストレッチ仕様の車内は普通のベンツより全長が30センチ程長く、後部座席と前席の間は足を投げ出してもまたかなり余裕がある。葵は持っていた鞄と水着が入ったビニールバックを隣の席に行儀悪く放り投げ、急いでシートベルトを引っ張り出し、肩から斜め掛けにして  バックルを差し込む。カチッと硬質な音がする。

 葵の通っている小中高一貫教育の女子校は富裕層の子女が多く通っており、通学の送迎で車を使う生徒も少なくないが、後部座席でシートベルトをしている生徒は皆無だった。クラスメイトと後部座席でシートベルトが必要かと話題になった時、葵はきちんとシートベルトしていると正直に話し、皆に笑われた苦い記憶があった。葵にしてみれば幼い頃からの習慣であり、座席にしっかり固定される一体感とバックルが装着される時の、あの硬質な金属音が好きな事を告げると、また皆に笑われた。

 運転席に北岩が乗り込み、ドンと運転席側のドアが閉められた。

「お嬢様、息が上がっているようですが」

 男はバックミラー越しに葵を見た。同時にエンジンキーを捻りエンジンを始動させた。葵はフゥーっと息を深く吐き、笑顔でバックミラーへ視線を向けた。

「大丈夫です。これくらいは何でもありません」

 男は軽く頷き、ゆっくりとアクセルを踏み込み、車を発車させた。車は学院の駐車場から大通りへ滑らかに進んだ。

「北岩さん、大先生へのご連絡は」

「多少遅れると伝えました。ゆっくり来てくれとの事でした」

「大先生のお身体は大丈夫なのでしょうか」

「声はお元気そうでした。お嬢様に会いたいと仰ってました」

 葵は深呼吸とは違う深いため息を吐いた。

 今日は葵の定期健診の日で、都内でも有数の大規模病院である木田総合病院に行く事になっていた。葵の主治医は、その総合病院の創立者の木田澄夫と言う医師で、歳は80を越えているが、若い頃は日本を代表する外科医だったと、木田の友人でもある自分の祖父から聞かされていた。木田は既に引退していて、病院も息子で同じく医師になった潔に任せていたが、葵の定期検診は木田自ら行っている。葵は息子の潔と区別する為、尊敬を込め澄夫を大先生と呼んでいた。

 木田は数年前から体調を崩し、今年からは自分の病院の最上階にある個室を改装し、そこを住まいとしていた。個室は病室と思えない程豪華な造りで、葵はその個室で名医と言われた木田自らの検診を受けていた。そんな特別扱いを受けているのは葵だけで、それは葵の祖父小野寺秋臣と木田が友人であるだけではなく、葵の出自による所が大きかった。

 秋臣は法務大臣まで務め、政治の世界から身を引いた後も日本弁護士会の最高顧問に収まっている名士で、今も法曹界と政界に睨みがきく重鎮だった。葵の父秋嗣は秋臣から地盤を引き継いだ現職の国会議員で、母親は弁護士という家に葵は生まれた。名士であり良家の子供である事。そして孫の葵を溺愛している秋臣の存在。

 葵はその与えられた生来の特権と愛情を、思春期特有の天邪鬼なのか、それとも持病のせいで幼い頃より腫物扱いされてきた反動なのか、息苦しさに似た閉塞感を感じ始めていた。

「先日の事もあります。秋臣様はまたお嬢様が倒られるような事ががあれば入院させるとまでおっしゃっています。我慢ください」

 バックミラーで葵を見た北岩が、浮かない顔の葵を気遣って声を掛けてきた。

「もう2週間前の事です。お爺様は大げさなんです。今日の水泳の授業も何でもありませんでした」葵は唇を尖らせた。

「お嬢様が昔より遥かに健康であることは良く分かっています。念の為です。いずれは木田先生の診察も不要になります」

 葵はバックミラーに映る北岩に、微笑みを返すと軽く頷いた。だがすぐに視線は後方へ流れていく窓の外の景色に移っていった。

     ◇

 聴診器が露わになった葵の滑らかな背中に当てられる。葵は金属の冷たさを感じるが、それはすぐに消え逆に暖かく感じる。

 木田はそのままじっと動かず、葵の体内から聞こえて来る心音を聞いていた。定期健診と言っても採血もレントゲンもせず、問診と脈を診た後、聴診器を当てられるだけだったが、木田は絶対に葵の裸体の正面ではなく背中に当てる。医者であり白髪の好々爺になっている木田に裸を見られても抵抗は無かったが、それは葵が幼い時から変わらないやり方だった。

「うん、もういいよ」

 木田が言葉を掛けて来た。木田の横に立っていた看護師が葵の制服と下着を葵の前のテーブルに置いた。葵が着替えている間、木田は看護師と短い言葉を交わしていた。看護師が一礼をして部屋から出て行くと、葵は木田と向かい合った。

 木田は白髪をオールバックに撫でつけていて、銀縁の眼鏡を掛けている。白衣姿だが、その下はグレーのポロシャツを着ていた。

「前回と何も変わりないね。夏風邪が流行っているけど、異常は無いし風邪の兆候もない。立派な健康体だ」

 木田は柔和な顔で微笑むと、目尻や口角に年相応の皺が出来る。

「葵ちゃんが学校で倒れたと聞いた時は驚いたけど、もう大丈だね。天海先生の処置が適切だったのだろう」

「はい、天海先生には本当に感謝しています」

 にこやかな顔で殊勝に答えた葵だが、心の中ではみんな大げさに騒ぎすぎだと思っていた。そもそも葵は倒れておらず、授業中に急に胸が痛くなり、気を失いそうになっただけだった。念のため保健室で安静にしていた所、担任が小野寺家に連絡し心配した秋臣が黒岩に命じ木田総合病院に葵を運んだ。

「家には北岩君が居て学校には天海先生が居る。僕もだけど秋臣も安心だろう」

 葵は心の内にある複雑な感情を顔に出さず、口角を上げた。

 天海沙織は葵が通う学院の若い女性の保健医で、葵が中等部へ進学する時期をと同じくして非常勤として赴任してきた。天海は心理カウンセラーの資格もあり、生徒達のメンタルケアも担当していた。

 葵は3年前から見るようになったある『悪夢』が原因で、精神的不安定になりパニック行動を起こす事があった。数か月に一度だった悪夢の頻度は徐々に増えていき、その度、葵は錯乱状態に陥った。その異常事態に小野寺家は木田に助けを求めた。最初は木田の総合病院にある心療内科でのカウンセリングを受けていたが、月に一度の健康診断以外の日に、カウンセリングだけの診察日を設ける事は、還って葵にストレスを与える可能性が高い事から、木田の判断と小野寺家の要請で、学院の保健室での天海によるカウンセリングを受ける事になった。

 学院内での治療行為に戸惑いを感じていた葵だったが、天海と初めて会った日の事を、葵は今でも鮮明に覚えている。

 

 その日、葵は初めて保健室を訪れた。だが保健室は無人だった。部屋を見渡すと、ベッドが2台と窓際の大きな机と椅子。奥の壁には恐らく薬棚であろうキャビネットがあるだけのシンプルな部屋だった。ただキャビネットの横には、何故か能面が掛けられていた。

 薄く細い目と紅い唇の能面は、陰影で笑っている様に見えた。

「小野寺葵さん? 」

 葵は背後から名前を呼ばれ驚き、後ろを振り返った。そこには赤い花柄のアロハの上に白衣を羽織った、ショートヘアの若い女性が立っていた。

「小野寺葵さんでしょ? 保険医の天海です」

 天海がニッコリ微笑み右手を出して来た。葵も右手を出そうとした時、急に天海は葵の眼前に顔を近づけきた。

「君可愛いね。キスしていい? 」

 葵は驚き思わず後ろに退き、手を引っ込めた。

「女の子に興味ある? 性的な意味で」

 天海は矢継ぎ早に聞いてきた。

「あ、ありません」

 葵は顔を赤くして、そう答えるのがやっとだった。

「そう、私も無いんだ。君とは気が合うね」

 天海はそう言うとニッコリ微笑み、右手を伸ばした。つられて葵は自然と天海と握手していた。「さあ話聞こうか。そこのベッドに横になって」

 カウンセリングは既に始まっていた事を、葵は後になって理解した。天海のカウンセリングはシンプルだった。保健室の簡易ベッドに横になった葵の話を聞き、天海はその内容を一字一句間違わずに葵に話し返す。それを繰り返した。

 天海は葵の苦しみを聞く事や、夢の解釈をする事はしなかった。そして終わった後は、お互いに日々あった出来事をお喋りする日々が続いた。葵は何もしない天海のやり方に最初は戸惑ったが、従来のカウンセリングで感じていた重苦しさは徐々に薄れて行き、そして気付けば何も気負う事無く気軽に保健室に足を向けていた、カウンセリングを受けると言うより、天海と気軽にお喋りする為に行く感覚になり、それに伴い、葵を苦しめていた夢の出現頻度は減っていった。

 ショートカットの髪型が性格を現しているのか、天海は活発な性格で、あらゆる学校行事へ積極的に参加し、生徒達より率先して場の盛り上げ役になっていた。良家の子女が通う学院らしく堅苦しく規律に厳しい教師達が多い中、生徒と同じ立場で一緒にはしゃぐ天海の存在は一部の教師達からは疎まれていたが、生徒達からの人気は高く、保健室は、体調不要とは無関係な生徒が休み時間に出入りして賑わい、天海の隠し撮り写真がSNSで拡散していた。

     ◇

「天海先生、面白い人だよね」

 タイミングよく合いの手になった木田の言葉に、葵は思わず噴出しそうになった。

「ん? どうしたの? 」

「いえ、何でもないです。そうですね、天海先生、楽しい方です」

「何でもそうだけど続ける事が大事だよ。ああそうだ、天海先生から報告あったけど、カウンセリングの方法変えたんだね」

 葵は何の事かと首を傾げたが、すぐに思い当たった。

 先週、葵が授業中に突然意識を失ってから最初のカウンセリングの日、保健室に行くと様子が違っていた。

 2台あったベッドは1台になっていて、無くなったベッドの場所に革張りの大きな椅子が設置されていた。マッサージチェアかと思ったが、それよりもひと回りは大きい。

「今日からちょっとやり方変えるわね」

 天海はそう言ってその椅子に葵を座らせた。葵の身体が沈み込むほどの柔らかい座り心地だった。背もたれを軽く倒すと、まるで椅子に抱かれるような感覚に陥る。

「目を閉じて、何も考えないで音だけを聞いて」

 天海の言葉に従い、葵は目を閉じた。すると、どこからか単調な音が聞こえて来た。それはゆっくりと動く電車の通過音にも、拍の遅いメトロノームにも思えた。そのゆったりとした単純な音を、目を閉じて聞かされると、時間の経過が分からなくなり、気がつくと何時の間にか眠っていた事もあった。葵はこれがカウンセリングなのかと思ったが、心から信用している天海に何の疑問を抱かず、保健室でその単調な時間を過ごしていた。

     ◇

「ええ、はい」葵はそれを思い出して木田に頷いた。

「僕が学生だった頃はまだ心療内科って分野が無くてね。カウンセリングって行為自体が医療とは言われてない時代に医者になったものだから、報告書読んでもピンとこないんだけど、上手くいっているのだったらそれでいい」

 葵はにっこり微笑んだ。

「じゃあ今日はここまでにしよう。長い事北岩君を車で待たせるのも悪い」

 はい、と葵は立ち上がった。

「帰りに潔先生にもご挨拶していきます」

「ああ、そうしなさい。今なら院長室に居る筈だ。潔も葵ちゃんに会いたがっていた」

     ◇

 葵は院長室のドアをノックした。中から、どうぞと返事があり葵は院長室に入った。潔はソファに座り書類を見ていた。

「おお、葵ちゃん久しぶり」

 難しい顔で書類を見ていた潔が破顔一笑になった。潔は澄夫に似てほっそりとした体形で、顔も皺が増えれば澄夫と良く似ていた。幼い頃、家より病室に居る事が多かった葵の遊び相手が潔だった。葵にとって潔は、歳の離れた兄のような存在だった。

「お久しぶりです」葵は頭を下げた。

「先月は学会で会えなかったからな。この前倒れたって聞いたけど、大丈夫? 」

 潔はソファから立ち上がった。

「はい」

「それは良かった。何せ親父は葵ちゃんのカルテを絶対に見せてくれないしさ。せめてレントゲンだけでもって親父に言ったけど許可してくれないしさ」

 潔は苦笑いを浮かべていた。

「ご心配かけました。もう大丈夫です。今日の体育の授業で遠泳をしましたが全く息苦しさもありませんでした」

「そうか、そうか」潔は嬉しそうに頷いた。

「紅茶飲むかい? 美味しい茶葉、手に入ったんだよ」

「ありがとうございます。ですが黒岩さんを待たせているので今度ゆっくり頂きます」

「そうかぁ」潔は本当に悔しそうな顔になった。葵は心の内がすぐ顔に出る潔を見て笑いそうになると同時に、羨ましいと思った。

     ◇

 葵は目を開ける。薄モヤが掛かった視界が晴れていく。

 あぁまたこの場所だと、葵は思う。

 白い。見える視界の範囲全てが白い場所に葵は立っていた。

 自分が着ている服も白い。いつも白く薄くて軽いシルクの様な光沢を持つワンピースを纏っている。床も白い。素足の足裏からは床の冷たさと、硬質感が伝わってくる。

 葵は歩き始めた。数歩歩いた所で突然白い壁が現われる。葵には壁が現われる事は分かっていた。もう何度もこの場所に来た事があるからだ。

 右手で壁に触れる。足裏と同じ感覚が伝わってくる。壁に指を触れたまま歩き始める。時間経過の感覚は無い。どれくらい歩いたのだろうか、壁は突き当たりまた目の前に壁が現われた。

 そのまま左を向いて歩き始める。暫く歩くと右指に変化を感じる。

 溝がある。ほんの少しの溝。葵はそこで壁から離れる。

 溝は白い壁に人ひとりが通れる程の長方形になっていた。

 ――扉。 葵はそう思う。

 だが何処にもドアノブや取手らしきものが無い。一度だけ押した事があるが、扉は動かない。葵はまた壁に沿って歩き始めた。また壁が現われる。葵はそれに沿ってまた歩く。次に何が現われるか、葵にはもう分かっている。

 歩みを止める。右手の壁はまだ先に続いている。だがこれ以上先に進めない。

 葵の目の前には透明な壁があった。葵はその透明な壁に掌を押し付けた。

 ガラスであれば自身の体温で温かく感じるであろうが、掌からは全く温度を感じなかった。熱くも冷たくも無い。

 葵は透明な壁から離れた。この空間は三方が白い壁で、一方は透明の壁で区切られている『部屋』である事を葵は再認識した。

 葵は、部屋のほぼ真ん中であろう場所に立った。

 上を見上げる。天井は無い。白い空間が何処までも続いていた。

 葵の頬に何かが当たる感覚があった。

 葵は目を閉じないで上を見つめている。白い空間から、何かが落ちてくる。

 赤い小さな点がポツリポツリと降ってくる。やがて赤い小さな点は赤い細い長い線になり雨になった。葵は見上げるのを止め、下を向いた。

 髪が濡れる。髪先から赤い液体が落ちる。だが雨音は聞こえない。

 床に当たる雨音も自分の体に当たる雨音も聞こえない。無音の中、葵の身体は濡れていく感覚に包まれる。白い床に段々赤い液体が広がっていく。赤い液体。血の赤。

 心臓の鼓動が早まる。

 トクン、トクン、トクン。

 赤い雨は徐々に激しくなっていく。

 赤黒く染まったワンピースが葵の素肌にまとわりつく。

 葵は目を閉じる。大きく息を吸い込み、深く吐く。

 落ち着いて。葵は心の中で強く思った

 トクン  トクン

 自分の心臓の鼓動が聞こえる。それは早くない。

 ドクン  ドクン ドクン

 別の鼓動も聞こえてくる。ゆっくりと拍を刻んでいる。葵はこの鼓動に聞き覚えがあった。

 カウンセリングの椅子で聞かされているあの鼓動とよく似ていた。

 ――大丈夫。ここは安全な場所

 自分の声なのか、思いが声になっているのか分からないが、葵の頭の中で声がする。別々の鼓動は徐々に重なって行き、遂には重なりひとつになった。

 ドクンと強く心臓が脈を打った。

 一瞬で濡れた感覚が無くなる。

 目を開ける。白い床だけが見える。赤い液体は何処にも無い。赤く染まったワンピースは、また白くなっていた。

 前を向く。部屋は白い空間のままだった。

 最初にこの血まみれになる悪夢を見た時、葵は目が醒めてもまだ夢の中なのか、現実世界に戻って来たのか判断出来なかった。

 葵はベッドを飛び出すと浴室へ飛び込み、パジャマを着たままシャワーを浴びた。そして叫び声を上げながら、気が狂ったように体を洗った。異変に気づいた母親が浴室で葵を制止するまで葵は爪を立て、柔肌から血がにじみ出るまで掻き毟っていた。

 葵はその時の事を思い出す度に息をしていない自分に気づく。

 大丈夫だから、と意識的に呼吸をする事に集中する。

     ◆

「私が何をしているか、分かる? 」

 何回目のカウンセリングの終わりに、天海が葵に質問した事がある。ベッドに横になっていた葵は素直に「分かりません」と答えた。

「あなたは夢と現実の区別がつかない状態になっている。何故だが分かる? 」

 葵は首を横に振った。

「あなたがひとりだけだからよ。孤独の中、訳の分からない空間に居る。その不安感が心を迷わせている」

 葵は体を起こし、ベッドの横でデスクチェアに座っている天海の目を凝視した。

 天海も真剣な表情で話している。あのキスを迫った時のふざけた様な顔では無い。

「私に話す事で、あなたは私に話したと言う記憶が刻まれる。そして私が同じ話をする事でその記憶が深く刻み込まれる。記憶のメカニズムは複雑で単純じゃないから絶対にこの記憶が残るって保証は無いわ。でもこれを繰り返す事で記憶は強化される。専門用語になるけど『随伴性同調記憶』って言うの。ひとりで遊んだ時より友達と遊んだ時の記憶が残るでしょ? それと一緒」

 天海はちょっと表情を崩した。

「ここまでで何か質問ある? 」

「質問では無いんですけど……」

 葵は遠慮がちに天海を見た。

「何でも良いわ。何? 」

「『随伴性同調記憶』で刻まれた記憶を、私はあの部屋で思い出して、その場所を夢だと認識すればよいのですか? 」

 天海は嬉しそうな顔になり「さすが賢いわね」と呟いた。

「その認識で構わないわ。でもそこで重要なのは『思い出さない事』よ」

「え? 」思わず葵は声を出した。天海はにっこり笑った。

「さっきも言ったけど記憶のメカニズムって複雑でまだ解明されてないの。それに思い出すって行為は凄く脳に負担を掛けているのよ。もしそんな時に思い出せなかったらどうなると思う? 余計パニックに陥るわ」

 葵は困惑した表情になった。

「そんな顔しなさんな」

 天海は葵の頭に右手を軽く乗せ撫でた。

「だからこのカウンセリングをしているの。何回も繰り返される行為が無意識下に刻み込まれる。今はそれだけでいいの。焦らないで今に勝手にスイッチが入るようになるから。これは夢だ、現実じゃないって。ここは安全な場所だって。分かった? 」

 葵は素直に頷いた。

「ほんとあなた可愛いわ」

 天海は葵に抱きついた。

「キスしましょ」

 葵は、顔を真っ赤にして「ちょっっちょっと」と必死にもがいた。キスを迫る天海の顔面を右掌で防ぎ、セーラー服の下から侵入してくる天海の右手を乳房に触れられる寸前で掴み、力ずくでセーラー服の中から出そうとした。天海達はもつれ合いベッドから落ちて、ようやく葵は天海から離れることが出来た。

 天海はケラケラと高笑いして「ほんと私が男だったらモノにしているわ」と、尻を床に着けたまま、ずれた赤縁眼鏡をかけ直し、笑顔で言い放った。

     ◇

 葵は再び目を閉じ、ふっと笑う。あれほど破天荒な人は今まで自分の周りに居なかった。最初は戸惑ったが、今は完全に信頼している。この夢が現われても、徐々に対応出来るようになったのは天海のお陰だ。何の前触れもなく現われる白い部屋の悪夢に慣れた訳では無いが、その中でも自分を保つことができるようになった。

 夢を見ない日が来るのだろうか? でも今は考えないでおこう。

 葵は意識を深く集中させた。強い心臓の鼓動を感じるが、痛みはない。すると何処からか、また声が聞こえた。

 ――大丈夫、力を抜いて、そして今は眠って。

 葵はその言葉に素直に従い、全身の力を抜いた。葵の意識は黒い闇の中に吸い込まれていき、体の感覚は無くなった。そして葵は眠りの中に落ちていった。


 2.『胎動』

「眼底に異常はないね。網膜剥離の兆候もない。うん、心配はないね」机の上に置かれたモニタを見ながら、眼科医の奥山が満足そうに頷いた。

「はぁ……」奥山の向かいに座っている後藤奏斗は、気のない言葉を返した。

「何か気になる事あるの? 」奥山はそう問い掛けたが、後藤は無言だった。

「以前言っていた変な夢の事? 」

 それでも後藤は答えず視線をモニタに向けた。そこには蜘蛛の巣の様に血管が張り巡らせている、自分の網膜の拡大画像があった。

「僕が紹介した精神科医……じゃなくて心療内科の所へは行ってみた? 」

「はい、行きました」後藤は答えた後、また黙った。

「それで何か分かった? 」

 後藤はすぐには答えず、今度は奥山の目を見たまま黙った。

「あのね……」痺れを切らした奥山が、何か言おうとした時、後藤が口を開いた。

「手術の時のトラウマじゃないかって。不眠症なら薬出すって言われましたけど、あまり薬好きじゃないし断りました。実生活に影響が出る位深刻になったらまた来てくださいとだけ言われて。それだけです」

「ああそう」

 奥山はため息を吐いた。「まあ君の場合は小さい時から……」と言いかけた奥山は言葉を止めて、ちらっと後藤の表情を伺ったが、感情の薄い表情は変わらなかった。

「……何回も目の検査とか、ほら色々と受けているからね。トラウマになっているのも道理だ。でも今の君の目は健全だよ。それだけは僕が保証する」

 奥山は無理矢理造った笑顔を後藤に向けた。後藤は無表情のままで軽く会釈する様に頭を下げた。奥山はまたため息を吐いた。

「じゃあ次の検診は半年後にしようか。次回は視力検査が主になるから時間は取らせないよ」

     ◇

 支払いを終えた後藤は、正面玄関から出て、駐車場の横にある自転車置き場へ向かった。玄関前はピロティ形式になっていて、車寄せを兼ねた広いスペースがあった。雨や直射日光が当たらず、風通しもいいが、今日は特に強い風が通り抜けていた。

 その風に逆らいながら、後藤は駐車場に向っていた。車寄せには数台の車が停車していて、その中の1台の車の後部座席のドアが開き、赤ちゃんを抱えた若い女性が降りてきた。大きなバックを肘に掛けて持ち、その手には、風で激しくなびいている数枚の紙を掴んでいた。強風で閉まりそうなドアを身体で押さえながら、車内に何かひと言言ってドアから離れたが、風に押されたドアが勢いよく閉まり大きな音が鳴った。 

 その音はピロティの屋根に反響し、大きく響く。

 その場に差し掛かっていた後藤は、想像以上の音の大きさに驚いたが、赤ちゃんを抱えた女性も背後で鳴った音に驚いた表情になり、持っていた紙を離してしまった。

 バッと紙が宙に舞い、その中の1枚が風に乗り後藤に向って飛んできた。後藤は反射的にそれを捕まえようとした。

 その瞬間、後藤の左目の奥に突然焼けつくような痛みが走り、心臓がドクンと大きく脈打った。後藤は顔を顰めて俯き、咄嗟に左手で目を抑えた。

 その時、後藤は異変に気付いた。

 さっきまで煩く聞こえていた風切り音が、突然聞こえなくなった。風が止んだのとは違う、違和感のある静寂だった。後藤は顔を上げた。そしてもっと大きな異変に気付いた。

 見えるもの全てから色が消え失せ、モノクロの世界になっている。そして、全てのものが止まっていた。

 捕まえようとした紙が、後藤の数センチ先の空間で止まっている。他の数枚の紙も、中空に浮いたまま止まっていた。

 その奥では書類を手放してしたまった女性が、片手を伸ばし、口を開けたままで動かずにいた。

 後藤は首を巡らした。病院へ入ろうとする人、出て来た人、車寄せに入って来るタクシー、別のタクシーから降りようとする人。

 全てがその瞬間を切り取った写真のように停止していた。

 後藤は咄嗟にはこの状況が理解できず、呆然として動けなかった。後藤は恐る恐る手を伸ばし、宙に止まったままの紙を掴んだ。普通の紙の感触が指から伝わって来る。意を決し、それを手元に引き寄せる。両手で持つと、当たり前のように紙で、曲げようとすると堅い感触は全くなく、普通に折れ曲がった。

 足を動かし前に出た。何も異常な感じはない。数歩歩き、中空に舞ったままの紙を手に取ったが、やはり普通の紙だった。

 ――何が……起きている?

 後藤は困惑した。だが急に息苦しさが襲ってきた。まるで自分の顔の周りから空気が無くなったように感じた。意識して大きく息を吸うが、空気が入ってこない。

 何の前兆もなく、心臓が大きく脈動しはじめた。それは至近距離から殴られたような強い衝撃を伴っていた。後藤は思わず胸を抑え前屈みになる。だが痛みは治まらず、逆に心臓を中心に電撃の様な激痛が全身を貫いて行く。後藤は堪らずよろめきながら数歩歩いた所で両膝を床に着き、胸を抱えたままその場で蹲った。意識が薄れていく。手に持っていた紙がぐしゃぐしゃになる程に握りつぶされていた。

 だがもうひとつ、理解しがたい現象が後藤の中で起きていた。

 見ているモノクロの世界とは別に、後藤の脳の中では膨大な光が大瀑布のように降り注ぎ、全身には途方もない力が漲っていった。その力は身体の奥底より無尽蔵に噴き出してきた。

 だが後藤が感じたのはそれだけでない。

 その光と力は、強烈な破壊衝動と万能感を伴っていて、自分が万物の頂点に立ったかのような恍惚感と快感に満ちていた。

 息が出来ず心臓も破裂しそうなのに、それと矛盾する現象が同時進行する状況に、後藤の混乱は極限に達した。

 ――死ぬのか?

 後藤が死を意識したその時、モノクロの世界の中、目の前に白い影がふたつ現れた。ひとつは髪の先から足元まで全身が白い人間だった。顔は俯いて見えないが、後藤は何故かそれが男だと分かった。その男の隣にぼんやりとした白い煙が浮かんでいる。その煙は震える様に形を変えながら徐々に人の形になっていく。それは白い男より線が細くひと回り小さかった。

 ――女の子?

 突然轟音が後藤の耳を襲った。世界が一気に色を取り戻し、恍惚感は消え失せ大量の空気が後藤の肺に流れ込んでくる。

 だが、全身の痛みは加速していき白い影は突然消えた。

 赤ちゃんを抱いていた女性の叫び声が後藤の耳に届く前に、後藤の身体はコンクリートの床に前のめりに倒れて行った。

     ◇

「目が醒めた? 」

 男性の声が、まだぼうっとしている後藤の頭に響いた。白い天井が見える。声は聞こえたが、意識はまだ覚醒していなかった。後藤は自分がベッドの上に横になって、チェック柄の毛布が掛けられているのに、暫くして気がついた。

 ベッドの横に白衣を着た若い男性がパイプ椅子に座っていた。後藤が起き上がろうとすると「無理しなくて良いよ。まだ寝ていて」と、白衣の男性が言ってきた。

「寝たままで良いから質問に答えてくれる? 」

 後藤は「はい」と小声で答え、再びベッドに横になった。

「名前、言える? 」

「後藤……奏斗です」

「歳は? 」

「今年で20歳になります」

 うん、うんと白衣の男性は頷きながら手に持ったタブレットを見ながら質問を続けた。「今日は此処に何しに来たの? 」

「眼科の定期健診です」

「何の定期健診? 」

「以前、ここで目の手術受けました。その経過観察です」

「今日は何曜日? 」白衣の男はタブレットを見つめたまま急に質問を変えた。

「火曜日です」

 後藤は聞き返す事無く即答した。

「豆腐の原材料は? 」

「……大豆です」

「ボウリングで3回連続ストライクの事を何て言う? 」

「ターキーです」

「車が3つ集まった漢字は何て読む? 」

「とどろき、です」

「4日前は何曜日? 」

「金曜日です」

 うん、と声を出しながら大きく頷くと、タブレットを脇に抱え、起きていいよと言った。

 後藤は上半身を起こした。後藤は周りを見回した。普通の診察室ではなく、入院病棟の個室らしき部屋に居る事が分かった。大きな窓があったがブラインドが降ろされ外は見えなかった。

「初めまして月岡です。この病院で循環器系の医者やっています」

 月岡の自己紹介に、後藤は軽い会釈で返した。月岡は銀縁の眼鏡を掛け、見た目は自分とさほど歳は変わらないように見えた。胸には顔写真入りのIDがぶら下がっている。

「何でここに寝ているか分かる? 」月岡が聞いた。

「ピロティで急に気分が悪くなって」

「それだけ? 」

 後藤は黙った。咄嗟に月岡に対して警戒心を抱いた。それは過去に負った後藤のトラウマ由来の防御姿勢だった。

「君が倒れてからひと騒動あってね。まあ病院の敷地で倒れたからすぐに応急措置が取られたんだけど、君、覚えあるかな? 」

 後藤は質問の意味が分からなかった。

「まあ覚えているかって質問も適切じゃないな」

 月岡は言葉を切って、暫く間を置いた。

「君ね、半分死んでいたよ」

 後藤は表情が変わらないよう務めた。

「まあ死んでいたって表現も違うな。なにせ前例がない異常事態だから適当な言葉が見つからない」

 月岡はタブレットに目をやった。

「直接僕が立ち会った訳じゃないから俄かには信じられないんだけど、問題なのは君が意識を失っていた時間と、その時の状態なんだよ」

 月岡は後藤を見たが、後藤は意識的に視線を外した。

「記録では自発呼吸停止が3分間続いている。これはICUに運ばれてからの記録だから、実際には君が裏口で倒れてからだと少なく見積もっても5分は無呼吸状態だった」

 月岡はじっと後藤を見ていた。後藤は無表情を装った。

「でもね一番異常だったのは心臓。呼吸は止まっているのに心臓だけは動いていた。それだけでも不可思議なのにその脈が恐ろしく大きいんだよ。こんなの見た事ない」

 後藤は無言のままだった。月岡はそれを全く意に介さない表情で話を続けた。

「心臓の件も異常なんだけどね、それ以上にこれだけ長い間呼吸停止だったら脳にかなりのダメージが残るんだよ。血液は脳に送り込まれていても、その血中には酸素がないからね。でも意識を取り戻してからの君は何事もなかったかのように振る舞っている。全て異常な現象だよ」

 後藤は何も答えずにいた。

「さっきのランダムな質問への答えも即答している。それも通常の人よりも反応速度が速い。呼吸停止から復活直後の人間とは思えないよ。一体君の身に何が起きていたんだい」

 後藤は答えなかった。

「資料によると、君はタカチホブラッド、TBだね。しかもクラスG。長い事医者やっているけどクラスGには初めて会ったよ。しかもインアクティブでもRh-(マイナス)ABか、面倒な血液を持って生まれて来たね」

 後藤は下を向き、チェック柄の毛布を見つめた。

「気を悪くしたなら謝るよ。でも僕の質問に答えてくれないかな」

 後藤は黙ったまま、下を向いて動かなかった。

「正直に言うと病院側の都合なんだよ。さっき言ったみたいに常識では考えられない状況だから、心電図や他の機械が故障していたのか、それともTBが原因なのか調べてくれって、上から言われてさ。暇だと思われている僕にお鉢が廻って来たと言う訳。全く迷惑な話だ。当然だけど僕は機械の故障って報告する。TB因子は非活性だしそれで丸く収まるからね」

 月岡は肩を竦めた。

「でもね、ちょっとこれを見て欲しんだ」

 月岡がタブレットの画面を後藤に向けた。後藤はちらっとそれを見た。荒い画質だがタブレットに映っている映像が何なのか、後藤はすぐに分かった。

「分かるよね、君が倒れた時のピロティの防犯カメラだよ。君も興味あるだろ」

 月岡はそう言って、画面を人差し指でタップした。

 ピロティ下の通路を、斜め上から映している映像が動き始めた。数人が通り過ぎた後、後姿の後藤が画面下から現れ、画面上に向って歩いている。その方向にはは赤ちゃんを抱えた女性が車から降りようとしていた。その後藤の動きが止まった。

 次の瞬間、後藤の姿が忽然と消え、そして女性の前で倒れていた。1枚の白い紙が画面の上から下に飛んで行く。月岡はタブレットを後藤の前に置いた。映像が何度もリピートしている。

 客観的に自分に起きた現象を見た後藤は、改めてこの異常な現象に驚愕したが、その心の動きを顔に出さないよう必死に抑えていた。

「さっき現場に行って簡単に測ってきたけど、君が消えた所から倒れていた所まで大体10m弱。このビデオのフレームレートが30fpsで、パソコンで解析したら君が消えてから現れるまでのフレームが約12。コンマ5秒もない。しかもそのフレームに君が動ている影すら映っていなかった。瞬間移動だよ、正に」

 後藤はタブレットから目を逸らし、横を向いた。

「君が僕みたいに白衣を着た人間に良くない印象を持っているのは良くわかるよ。TBを持った人間が世間にどんな扱いされてきたかを僕は知らない訳じゃない。」

 後藤は振り向き月岡を睨みたかったが、その怒りも抑え込んだ。

「僕は嘘を言ってないよ。何故なら僕もTBだからね」

 後藤は驚き、顔を上げ思わず月岡を見た。

「やっと僕を見てくれたね。僕がTBと言うのは本当だ。と言ってもボーダー判定だから『準観察対象者アソシエイト』なんだけどね。それでも小さい頃から医者や学者にあれこれ調べられてウンザリしていたけど、何の因果かその医者になってしまったよ」

 月岡は意外にも人懐っこい笑顔を浮かべたが、それはすぐに消え真顔になった。そして胸のIDを取り外すと裏返しにして後藤に見せた。

『BloodType:B+ TB:CLASS A1』と赤文字で印字されていた。

「面倒な人生を背負った者同士、話さないか。さっきも言った通り、僕は機器の故障として報告する。防犯カメラの映像は僕しか知らないしメインサーバから削除しておいた。この事を外部に公表する気もない。TB因子がインアクティブなのに君の様な状態になるって分かったら、政府は大騒ぎして君だけじゃなくまた僕や他のTBを持つ人たちを執拗に調べるかもしれない。そんなのは嫌だからね、今は僕と君だけの話で終わらせたい。だから協力してくれるかい? 」

 後藤はしっかりと月岡の目を見た。月岡は真剣な眼差しで後藤を見ていた。

 後藤はふぅっと息を吐き、意を決し、全てを話した。

 左目の痛みから始まり、身体を貫く灼熱感と、破裂しそうな心臓の鼓動が突然襲ってきた事。見える世界から色が消え、全てのものが止まり、その中で自分だけが動けた事、そして強烈な光と共に沸き上がってきた不思議な感覚を正直に話した。

「確かに不思議だね」

 月岡は全て話を聞いた後、呟く様に言った。

「恍惚感は死の恐怖を和らげる生物の本能とも言えなくないけど、それよりも自分の周りがゆっくり動く様に感じるのはタキサイキア現象って言って、それも命の危機に陥った時の脳内で起きる防御反応のひとつだけど、主観的現象だからね。ビデオを見る限りは物理的現象だし、どちらかと言えば島村ジョーみたいだね」

「……誰ですか? 」

「知らない? サイボーグ009の島村ジョーだよ、加速装置の」

 後藤は困惑した表情を浮かべ、それを見た月岡は話を変えた。

「今までこんな状態になった事は? 」

「左目が急に痛み出した事は何回かありますけど、すぐに収まったし、手術した所だからそれでかなと思います」

「最近の事かい? その時胸の痛みは? 」

「最初は2年前で、最近だと半年くらい前です。心臓も痛かった気がしますけど、すぐ痛みは消えたので」

 後藤は思い出すように言った。月岡は腕を組んだまま、じっと何かを考えていた。

「あの……タカチホブラッドと関係していると思いますか? 」

 月岡は、うーんと唸った。

「正直分からない。あるとすればアクティブになった場合だろう。超能力みたいなことが出来るみたいだし、想像できない現象も起こせるだろう。でも君がICUに運ばれた時簡易検査したけどTBはインアクティブだった。もし君がアクティブだと判明したら病院は当局に連絡する義務があるからね。そうなれば君は最初の少女とあの佐村に続き3人目のTBアクティブだったね」

 後藤は佐村の名前を聞いて表情が曇った。佐村の悪行のせいで、落ち着きかけていた後藤に対する世間の好奇の目が、一時的に再燃してしまった時があったからだ。

「『タカチホ・レポート』では一度アクティブになったTBは一定時間活性状態になっている筈だから、それも考えにくい。前例がふたりしかいないから何とも言えないが、判断基準はそれしかない。それに国内には確かTB保有者が準観察者を含めれば1万人近く居るはずだ。もしその内の数人に君みたいな現象が起きていたら、何らかの事例報告があった筈だけど、そんな報告を聞いた事がない。現時点ではTBとは無関係と考えた方がいいね」

 月岡は両手を上げ、お手上げの恰好を見せた。

「そういえば奥山先生から聞いたけど、最近同じ夢を見ているんだって? 今日みたいな夢なの? 」

 月岡は思い出したように行った。後藤は軽く首を振った。

「部屋に閉じ込められている夢です」

「部屋? どんな部屋なの 」

「壁とか床が全部真っ白な『白い部屋』です」


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