タカチホ・ブラッド

ケン・チーロ

1・ジェーン・ドゥ

1・『名前のない女』

 時刻表を見上げる。発車の時刻が近づいていた。

「もう時間よ、立ちなさい」

 私は隣の灰色のロングコートを着た女にそう話しかけ、ベンチから立ち上がった。  深々と冷えている真夜中の駅のホームには、私達以外誰も居なかった。

 ロングコートの女が、下を向いたまま重たい身体をもちあげるようにゆっくりと立ち上がった。顔はコートの襟を立てていて見えないが、茶髪の髪は乱れていて、一目で痛んでいると分かり、足元の赤いパンプスは薄汚れていた。女は両手で小さなボストンバックを前に持ち、足取り重く歩いた。ふたり並んで停車している最終列車に向う。ベンチからその列車までの短い距離の間、隣の女はずっと下を向いていた。

「ここまで来たら大丈夫よ、もうあの男は来ないわ」

 女がビクリと体を震わす。私は開いた扉の前で足を止め、女だけが乗り込んだ。扉の内側で、女は身体の向きを変え私の方を見た。化粧もしていない女の顔の目は窪み、駅の照明が青白いのも相まって、酷く憔悴しているように見える。

「あの……本当に、なんてお礼を言ったら……」

 吐き出される白い息のように、すぐに消えそうな声だった。

「礼は要らないと言ったでしょ。あなたと私は取引をした、それだけ。分かった?」

 女は上目遣いに弱々しく頷いた。

「でも約束は守って。絶対にこの街に戻らない、故郷にも帰らない。そしてあなたは今日から私が用意した別人として生きていく。もしその約束を破れば、私はあの男にあなたの情報を伝えるわ。その時、あなたひとりだけでは済まない事は分かっているわよね」

 私は女の腹部に冷たい視線をやった。

 女は狼狽えた表情になり、バックで腹部を庇った。

「……はい、絶対守ります」

「分かればいいわ。でもそうね、お礼の代わりにあなたの決意、私に見せてくれる? 」

 女の全身が強張ったのが分かる。顔はまた下を向いた。

「そんなに怖がらないでもいいわ。簡単よ。あなたが捨てた名前、聞かせて」

 女の顔が、ゆっくりと上がる。哀れな表情の女の目から涙が零れ落ち、唇が震えている。喉を締め付けるような声で、女はその名前を言った。発車のベルと重なったが、その名前は確かに私の耳に届いた。私が微笑むと同時に、列車の扉が閉まった。  ゆっくりと動き出した列車と女を見送る事なく、私は踵を返して歩き出した。


2.『白い牢獄』

 石澤裕子は、光に満ちた純白な部屋の中で、眼を閉じ座っていた。

 人ひとりがようやくすれ違う程の狭く薄暗い廊下を、何回か直角に曲がりながら進み、辿り着いた先にあったのは、開け放たれた分厚い扉とその向こうにあったこの部屋だった。その時、部屋の中はまだ薄暗かった。

 扉の前で一旦止まり、部屋の中に入る。中に進むと、仄かな明かりに照らし出されているパイプ椅子があった。事前の説明にあった椅子で、指示通り石澤はそこに座った。どこか遠い所でブザーが鳴り、背後で扉の閉まる重い音がする。

 音も無く強烈な白い光が部屋に満ちた。石澤は思わず目を閉じる。どれ位目を閉じていただろうか、瞼を閉じていても感じていた光が、幾分薄らいできた。石澤はうっすらと細く目を開けた。光りは天井からだけではなく、壁や床自体も発光していた。

 ハレーションを起こしている視界の中、自分から数メートル離れた正面に何者かが立っているのを確認した。だが過剰な明るさにまだ慣れていない網膜は痛みを感じ、その人物が立っている事だけを認めると、再び瞼を閉じた。

 そして目を閉じたまま、黒いスーツの胸ポケットに差し込んでいたノック式ボールペンを抜いて手に取り、カチカチとボールペンの頭をノックし始めた。

「お久しぶりです、判決以来ですね」

 男の声が何処かにあるスピーカーから聞こえて来た。ピクリと石澤が反応してノックを止める。

 石澤は目をゆっくりと開ける。ようやく明るさに慣れた目は、無意識に部屋全体を見渡していた。白い光を放っている天井は高く3メートル以上はあり、奥行きもゆうに10メートル近くはある。部屋に窓は無く、天井、床、壁の全てが白かった。一通り部屋の中を見た後、視線は真正面に移動した。

 そこには拘束衣の格好で立っている若い男がいた。

 男の両腕は後ろ手に回され、両肩から伸びた鈍り光を放つ銀色の太いベルトが、胸の前でクロスしている。そして床と天井を貫く白い柱に、首、膝、足首の3か所を黒いベルトで縛りつけられていた。

 明かりに慣れた目で見ると、拘束衣は純白ではなく乳白色で、所々薄汚れていた。

 ――佐村了

 それが拘束衣の男の名前だった。髪は銀色で肌の色は透き通る様に白く、筋の通った目鼻立ちは女性的な美貌を備えていた。髪も白い肌も部屋の照明を受け、光輝いていて、古代ギリシャの彫刻像を想像させた。だが佐村は40数名を殺した罪で死刑判決を受けた未決囚で、そしてこの白い部屋は、この男の『牢獄』だった。

 石澤はその異形の男を認めると、またボールペンを押し始めた。再び無機質な空間に、無機質な音が連続して響いた。

「何か話してくださいよ。ここが録画されているのが嫌ですか」

 石澤は答えず男を凝視したまま、ランダムにボールペンをノックし続けていた。

「それとも僕が怖いですか? 大丈夫ですよ。透明で見えないですけど、丈夫なガラスが僕たちの間にありますから。幾ら僕でもこの恰好でこのガラスは破れませんよ」

 佐村の言う通り、分厚いアクリルガラスが部屋を二分する様に設置され、石澤と佐村は物理的に分断されていた。だが石澤は口を真一文字に結び何も答えなかった。

「拘束衣ってこんなデザインしかないんですかね? せめてこの金属ベルト、赤にしたら結構格好良いと思うんです。拘束衣見慣れているあなたならどう思います? 」

 石澤は軽く目を閉じると、初めて口を開いた。

「私は医者じゃないわ。それに今は拘束衣の使用は原則禁止よ」

 石澤はボールペンを素早く2回押した。佐村はにっこり微笑み、一呼吸置いて「それでいい」と小声で言った。

「拘束衣の話をする為に私を呼んだの? 」

「会いたかったから」

 石澤は目を開けた。

「あなたの裁判で負けた弁護士なのに? 」

「誰が弁護しても僕の死刑は変わらない。ただあなただけが僕の弁護を引き受けてくれた」

 佐村は目を細め、嬉しさを隠し切れない様子だった。

「そうね、今更だけど正直に言うわ。本当はあなたの弁護なんて引き受けたくなかった。それに早く死刑になってと望んでいるわ」

 石澤は無表情なまま感情の無い口調で答えた。

 佐村は軽く俯くと、すぐに顔を上げた。そして瞬きひとつした後、細めていた目は鋭い眼光に変わった。

「その言葉、聞きたかった」

 石澤は佐村の眼光から目を逸らさず。真っすぐ男を見ていた。

 ブザーが鳴る。

『面会時間終了です。そのままお待ちください』

 抑揚の無い女の声が流れた。その次の瞬間、音も無く満ちていた光が消え去り、部屋が薄暗くなる。佐村の姿は消え、アクリルガラスがマジックミラーの様に反転し自分の姿を映し出した。鏡の中の自分は、じっと石澤自身を見つめていた。

     ◇

 背後でズズンと扉の閉まる音がした。石澤は長い黒髪を無造作に掻き揚げ、大きなため息を吐き、歩き始めた。再び薄暗い狭い廊下を何度も直角に曲がり、やがて光が差し込む出口が見えて来た。石澤はやっとの事でその迷宮から抜け出た。そこは先ほどの牢獄と同じように白く輝く無機質な廊下だったが、その廊下には鼠色のくたびれたスーツを着た恰幅の良い禿頭の男が立っていた。その男から声を掛けられた。

「石澤先生」

 石澤は少し驚いたような表情を浮かべたが、男は人懐っこい笑顔で語り掛けて来た。

「石澤先生でいらっしゃいますよね」

「あ、はい……申し訳ありませんが……」

「警視庁の菱形です。公判で2度ほどお会いしましたが、お忘れですか? 」

 石澤は菱形と名乗った男の顔を改めて見て、ああと呟いた。

「思い出していただけましたか? 」

 菱形は禿げ上がった頭を左手でぺちっと叩いた。

「すいません、ええ思い出しました。あの菱形さんも……」

「ええ、野郎に呼ばれましてね」

 菱形は、左手で禿げた頭を撫で回しながら言った。

「長いこと刑事やっていますが、死刑囚から面会希望があったのは初めてですよ。差し支えなければ野郎と、佐村と、何を話したか教えてくれますか? 」

「話と言っても……」

「石澤先生を呼んだ理由、言っていませんでしたか?」

 石澤は間を置いてから答えた。

「『弁護を引き受けたくなかった』と言う私の本音を聞きたかったそうです」

 ハハッと菱形は大きく笑った。

「でも気持ちは分かります。あの時あなたに対する世間の誹謗中傷は目に余るものがありましたし、拘留中あなたとの接見も記録される異常事態でしたから」

「あの佐村ですから、致し方ありません」

 石澤は力なく微笑んだ。

「石澤先生はラボ時代の佐村にも会った事あるんですよね」

「ええ、何度か。あの頃所属していた弁護士事務所がラボと法務契約していましたから。それが縁で、佐村から私を指名してきました」

「ラボの時と今の佐村は変わっていますか? 」

 石澤は首を横に振った。

「わかりません、会ったと言っても今日みたいにガラス越しでの接見ですし、私は主任弁護士の補佐役で直接会話した事は無かったですから」

「ひとつ教えてくれませんか」菱形の声のトーンが変わった。

「どうぞ」

タカチホブラッドTBが、奴の凶行に影響を与えたと思いますか?」

「心理学者による鑑定調書では、間接的要因として『YES』です。証拠採用はされませんでしたけど」

 石澤はふっと笑った。

「TBのせいで彼は幼児期から人とは違う扱いを受けてきました。それが彼の精神形成や思考思想の根本になったと推察されます」

「自分は特別な存在、ですか」

 石澤は頷いた。

「誰もが持っているその自意識を世間が追認した。そして不幸にも、超人的な能力を佐村は持ってしまった。ですがあくまでもTBは間接的要因です」

 石澤は淡々と話した。

「仰っている意味、理解できます」

 その時スピーカーを通して女性の声が聞こえてきた。

『菱形警部補、ゲート前までお進みください』

 菱形は天井を見回して、仕方ないと言った表情で石澤を見た。

「呼ばれましたね。もう少しお話したかったのですが」

「私からも質問よいですか?」

「なんでしょう? 」

「ご自身が呼ばれた心当たり、何かありますか?」

「さあ。捕まえた刑事に辞世の句でも聞かせたいんですかね? さっきも言いましたが、こんな事初めてでね。よく上層部が許可したと思いますよ」

 菱形はにっこり笑った。

「お時間とらせました。それでは」

 菱形は右手を軽く挙げて、くるりと背を向け、石澤が通ってきた狭い迷宮に消えていった。石澤は菱形の背中を目で追っていたが、菱形が最初の角を曲がり姿が見えなくなると、すっと体の向きを変え、白い通路を歩き始めた。

     ◇

 ドスっと音が鳴る勢いで、菱形は薄いクッションの椅子に腰を落とした。

「星野ぉぉ」

 座ると同時に、ぶっきらぼうに部屋の奥に居た、ひょろりと背が高い痩せた茶髪の男を呼んだ。「ホットコーヒーですね、砂糖どうします? 入れます? 」

 菱形は面白くないと言う表情で指2本立てた。星野と呼ばれた茶髪は、席を立つと部屋から出て行き、暫くして湯気の立っている赤いマグカップを持ってきた。

「佐村、どうでした? 」

 星野は菱形の前にマグカップを置きながら聞いた。

「どうって、何が? 」

「何がって、会ってきたんでしょ? 」

「会ってきたが、だからなんだ? 」

「怒っています? 」

「怒ってねぇよ」

 菱形はマグカップに口を付け、まだ湯気が立っている黒い液体をグビっと飲み込んだ。「あぁ石澤先生にも会ったぞ」

「石澤? あぁあの美人弁護士」

 菱形は、ふんっと鼻を鳴らした。

「呼ばれたの、ふたりだけでしたね。石澤先生は佐村と何話したんですかね? 何か言っていました? 」

「お前には教えねぇよ」

「それで佐村、どうでした? 」

 星野はすげない返事も気にせず、また同じ質問をした。

「お前はオウムか? 」

「教えてくださいよ。あの佐村ですよ、俺だけじゃなくて一課全員警部補殿の話、聞きたがっていますよ」

 菱形は部屋を見回した。警視庁に帰ってきてから、自分に向けられている視線が多々ある事には薄々気づいていた。それが自分の本来の居場所である一課に入ってから、更に増えた。菱形と目が合った同僚達は、モニタに隠れたり、電話を取る振りをしたりして菱形と視線を交わらないようにしていた。

 チッと舌打ちして、菱形は再びマグカップに口を付けた。そしてすぐ渋面になる。

「おい、砂糖入ってねぇじゃねぇか」

「はいどうぞ」

 星野は、にっこり笑って胸のポケットからスティックシュガーを2本取り出し、菱形に差し出した。菱形は星野からそれをぶん捕ると、2本同時に袋を破りマグカップに砂糖を投入した。

「ほとんど喋ってねぇよ」

 空になったスティックシュガーの紙袋をマドラー代わりに、コーヒーを掻き回しながら言った。

「あっちから呼び出したのに?」

「まあ色々話しかけられても困ったがな。面会室に入ったらお互いずっと睨み合いよ。相も変わらずイラつく野郎だ」

「ずっと睨み合いですか? 」

「5分くらいか。先に視線外したら負けだからな」

「中学生レベルですね」

「あ?」

「何でもありません」

 菱形は残っていたコーヒーを一気に飲み干し、そのまま動きを止めた。暫く星野は傍らに立っていたが、菱形に何も言わない雰囲気に諦め顔でその場から離れようとした時、菱形が呟いた。

「そうこうしている内に、ようやく奴から話しかけてきてな」

 星野は立ち止まり菱形の方を向いた。菱形は赤いマグカップを見つめたまま黙っていた。

「何言ってきたんですか? 恨み節ですか? 」

 菱形はまだ黙っていた。痺れを切らした星野が何か言いかけた時菱形の口が開いた。星野は出て来る言葉を待っていた。

「……また会いましょう」

「え? 」星野は驚くと言うより呆れた表情で菱形を見た。

「言っとくが聞き違いじゃねぇぞ」

 聞き直そうとする星野を制し、菱形は睨みながら空になったマグカップを星野の腹にドンとぶつけた。星野は小さな呻き声を上げ、マグカップを受け取った。

 菱形は渋い顔の星野に目配せし、小声で聞いた。

「頼んだ事、調べたか? 」

「とりあえず、の段階ですが」

 星野は不満げな顔のまま、腰を屈め前のめりになって菱形に近づき、小声で答えた。「結論から言って死刑回避の可能性もありました。国内外から極秘の死刑回避要請があった事は確かです」

「『誰』が要請したんだ? 」

「世界中の研究者及び支援者、そして権力者達」

「やはりタカチホブラッドか? 」

「恐らく。法治主義の維持より佐村を失う損失の方が大きいと考えたんでしょうね。それに犠牲者達はほぼ全員ラボの関係者。ラボの奴等が佐村をモルモット扱いしていたのがネットにリークされてから、佐村擁護論まで出て終身刑に近い無期懲役も噂に上がっていましたしね」

 菱形は椅子の背もたれに背中を深く預けた。

「ラボの連中以外にも野郎が関わった殺人もあるだろうが」

「そこがまた微妙ですよね。結局警察はそれらの事件で佐村を検挙できなかった。佐村が罪に問われたのはラボの事件だけだし」

「馬鹿野郎、お前だってその警察だろうが」

「僕が入庁する前の話です」おどけたポーズで星野は敬礼をし、それを見た菱形が身を乗り出して右フックをボディに繰り出したが、星野はさっと腰を引き、長身を器用に曲げそれを躱した。

 けっと菱形は悪態をついて椅子に腰を降ろした。

「それが余計にムカつく。だが無期になっても状況は変わるまい。どうせまた研究施設に何だかんだ言って収容されるがオチだ」

「控訴を取り下げたのは佐村自身ですよね」

 菱形はふんと鼻を鳴らし、左手を禿げ上がった頭頂部に載せて撫で回した。

「佐村を生かし続けたい連中は大勢いるが、当の本人は13階段を望んだ」

「佐村はモルモット人生に悲観して自ら死刑を望んだんですかね? 」

「そんな訳ねぇ」菱形は即座に否定した。

「将来を悲観して死を選ぶタマか。野郎にしてみりゃラボの警備なんざザルだ。何時でも逃げられたのに、そうはしなかった」

「確かにそうですね」

「自分より下等な連中にどうこうされたって野郎は何とも思っちゃいねぇよ。それより世間の煩わしさから離れられるし、身の回りの世話は全部ラボの連中がやってくれる。野郎にとっても悪くない環境だったろうさ」

 星野は少し首を横に傾けた。

「でもやはり矛盾していませんか? 」

 星野の言わんとしている事は菱形も分かっていた。確かに矛盾している。佐村は全く必要の無い大量殺人を行い、死刑判決を受けた。死刑から逃れる事も出来たのに自らその道を絶った。自死を司直の手に任せる歪んだ自殺願望が佐村にあるとは思えない。

 そしてあの白い牢獄で自分に言った、また会いましょう。

 ……分からねぇ。

 菱形は星野を睨んで顎を振った。何処か行け、と言う無言の命令だった。星野は肩を竦め、菱形から離れていった。

「タカチホブラッド……全く理解できねぇな」独りになった菱形は低い声で唸った。

     ◇

 石澤と菱形が佐村と面会した7日後、佐村への刑が執行された。

 そしてその日から3年後、物語は動き始める。

     ◆

『タカチホ・レポートⅠ』

 今から15年前、宮崎県高千穂町の深夜の国道に、雷鳴のような轟音が轟いた。信号無視で交差点に進入した大型貨物車と、高千穂町在住の一家4人が乗った軽自動車が出会い頭に衝突した。運転手の父親、秋川章一と後部座席に乗っていた母洋子、5歳の長男太一は即死。助手席にいた当時9歳の長女恵はシートベルトとエアバックにより一命を取り止めたが、意識不明のまま救急病院に緊急搬送されたが、その容態は予断を許さない状態だった。

 強度の全身打撲による内蔵破裂と共に、身体の至るところの部位の骨は骨折していて、特に頭部のダメージは深刻で、脳挫傷による急性硬膜下血腫と診断され、すぐに開頭手術の準備が進められた。だがその時、医師達は今まで経験しなかった異常事態に遭遇した。

 この少女の血液が人類未知の血液だった。

 死亡した秋川家の血液型は全員Rh+(プラス)Aだったが、恵の血液はABO式血液型のどの種類にも該当せず、あらゆる抗原分類による血液型判定にも反応が無かった。病院は『稀血』の可能性があるとして赤十字社にこの血液の照合を依頼したが、赤十字社も少女の血液型を特定できなかった。その間にも刻々と時間は過ぎて行き、少女の容態は悪化していった。ある医師が、A型の血液を少女から採取した血液に混ぜたが、瞬時に凝集溶血した。

 輸血が出来なければメスを入れる事すらできない。医師達は治療を断念し、少女の死を見守る事にした。だがその数時間後、人類史に残る歴史的事件が起きた。

少女が蘇生した。

 最初に気付いたのは看護師だった。静かに死を待っているだけの少女に取り付けられた各種モニタからのバイタルデータが異常な値を示した。心拍数は過激な全身運動をした様に激しく波打ち、血圧も異常なまでに上昇していた。脳に重篤な外傷を負っている昏睡状態の人間に起こる筈のない現象だった。看護師は最初モニタの故障を疑ったが、ベッドに横たわる少女の開く筈の無い目が開き、動く筈の無い手が動いたのを確認すると、すぐに当直医の元へ走った。そして事故から2日後、少女はベッドから身を起こせるまでに回復した。驚いた医師達はすぐに少女の全身を検査した。驚く事に骨折していた骨はほぼ全て繋がっており、深刻な傷を負っていた内蔵と脳は、全治まではいかなかったが、それでも損傷部分は縮小していて、機能が回復に向かっていた。

 自然の摂理に反した少女の噂は、すぐにネットに流れ日本中に広まった。多くの人は、それは一過性のオカルト情報としてすぐに消費されると思われたが、数日後少女を検査した医師達がその超常現象を認める会見を行い、政府に対し国家レベルでの特別調査を求める緊急声明を行い、世界に衝撃を与えた。

当初は事の真偽を計りかねていた政府だったが、日本医師会からの正式な要請を受け、緊急声明から3日後、少女を国が管理する施設への転院を決定した。その頃には世界中のマスコミが、少女が入院している病院へ殺到しており、大混乱の中、自衛隊のヘリを使い空路で国内のとある施設へ少女を移送した。

 政府は急遽この問題に対する特別調査委員会を設置し、調査を開始すると共に、高まる情報公開の声と不確かな情報が錯綜し社会的混乱が起きている事を受け、詳細な調査結果を必ず公表すると会見を行った。それからおよそ半年後、後に『タカチホ・レポート』と呼ばれる調査報告書が出された。そのレポートの中で、少女の奇跡的な回復は紛れもない事実であり、この現象を起こしたのは、少女の体を流れている人類未知の血液が関与している可能性が大きいと示唆された。

 血液は発見された地名にちなみ『タカチホブラッドTB』と名付けられた。




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