03
「相変わらず、あの悪夢は続いているのか?」
その問いに対する答えは考えなくても分かる。沈黙で返される事でその疑問が間違ではない事に気付くと、バリーは罰が悪そうに視線を逸らしながら冷蔵庫の前に立つ。
以前、ヴァルから聞いたことがある。幼い頃から繰り返し見続けている夢の事を。
その内容は余り気分の良いものでは無く、何度もそれを見せられてしまう状況は実に不幸だと思ったのが正直な話だ。この不調がその夢によるものであるのならば、彼の態度が不安定になるのも頷ける。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーター。ペットボトルのキャップを開封しながらどう言葉をかけるべきかと悩んでいると、ヴァルが何かを察したように頷き、重たい口を開いた。
「ああ。今日も見たよ」
声のトーンが低い。それだけで、彼が精神的に疲弊している事が分かってしまう。
「そうか…………大変だな、お前さんも」
こういう時、自分がどこまでも不器用な人間であると感じてしまう悔しさ。上手い言葉が見つけられず、訪れた沈黙がいつも以上に長いと感じてしまう。気まずさだけが残されたまま、誰も一言も口を開こうとしない。
「悪かったな。余計な気を使わせてしまってよ」
その沈黙に耐えられない、と。先に口を開いたのはヴァルの方だった。
「悪夢に勝手に魘されてんのは俺の問題だし、気持ちの切り替えが上手くいってねぇ事を言い訳するつもりはねぇよ。寧ろ、心配させちまって済まねぇな」
コーヒーメーカーにセットされたたままのガラスポット。中にある黒い液体はすっかり冷めてしまっているのだろう。棚から使い捨てのインサートカップとホルダーを取り出しセットすると、持ち上げたポットの中で軽く液体を揺らし、かき混ぜてから注ぎ入れる。温度の下がってしまった嗜好物はすっかり香りが抜け、味も落ちてしまっているに違いない。それを分かって居て一口だけ口に含んだ後、ヴァルはカップをデスクに置き、ゆっくりと椅子に腰掛けた。
「そうだ。ブラッド」
もう一口。苦みが増し、渋いと感じるコーヒーを飲みながら続ける言葉。
「お前、仕事の内容って聞いてるのか?」
「あ?」
デスクチェアの向きを変えソファの方へと身体を向けると、ソファの上で寝そべるようにしてゲームを楽しんでいたブラッドが面倒臭そうにヴァルを見る。
「まだだ」
「は?」
手の中で音を立てている電子機器。一昔前に流行った内容は、操作方法自体は単純だがクリアする毎に難易度が上がっていくもので、随分とやり込んでいるブラッドの両手は、巧みにボタンキーを叩き、忙しなく動いているのが分かる。一時も画面から目を離したくないからだろうか。こちらに視線を投げたのはほんの一瞬だけ。それ以降は一切ヴァルの方を見ないまま、言葉だけで会話は続く。
「まだなーんにも聞いちゃいねぇよ。だからこうやって待機してんだろ?」
「成る程。まぁ、そりゃあそうか」
確かに、ブラッドの言う事は一理ある。そもそも、緊急の案件ならば依頼の内容を仲介者が持って来るよりも早く、携帯端末が鳴るかメッセージが入るかするはずだ。しかし、本日受信したメッセージはゼロ件。着信も昨日受けたものが最後で、以降は掛かってきた形跡がない。
「平和なのは良い事だ」
背もたれに掛けっぱなしのジャケット。ポケットから煙草を取り出すと、吸っても良いかと一言確認した後で、灰皿を手繰り寄せ不健康なそれに火を点ける。すっかり自分専用になってしまった灰を受けるだけの皿は、最近綺麗にしたばかりだというのに、数日も持たないうち新しい灰を溜めることになってしまった。それでも、それに文句を言われる筋合いは無いと。口に含んでいた煙を勢いよく吐き出し不安定に揺れる灰は皿の上へと、指で軽く叩いて落としてやる。
「………出来れば今日は、何もせずにそのまま帰りてぇなぁ」
本当に、何も。もう一度煙の味を楽しもうと安い紙煙草のフィルターを口に咥えた時だった。
「残念ね。それはどうやら無理の様よ」
部屋の入り口から聞こえてきたのは、耳に馴染む聞き慣れた女性の声。
「エレナ?」
首だけを動かし振り返ると、背後に立つ女性の姿が目に止まる。
「まだ私も内容の詳細を確認してる訳じゃないけれど、どうやらのんびりしている余裕は無さそうな雰囲気ではあるわ」
現れた女性の名前はエレナ・ヴァレンタイン。暗めのワインレッドのスーツを上品に着こなしている彼女は、いかにも仕事が出来る女といった雰囲気を持っている。プラチナに近いブロンドの髪をアップにまとめ、細いシルバーフレームの眼鏡の奥には切れ長のアイスブルーの瞳。化粧は控えめだが紅い口紅のせいで少しだけ派手な印象があり、芳醇な胸は歩く度にゆったりとゆれるせいか、どうしても一度は其処に目が行ってしまう。そんな彼女だが、一見すると冷淡な女性というイメージを覚えるものの、その表情は見た目に反してとても穏やかであり、思った以上にさっぱりとした性格が幸いして周りから倦厭されることなく、とても親しまれ、頼られていたりもする。余計な詮索をしてこない所は実に付き合いやすい。ヴァルに限らず、ブラッド自身もエレナの事は割と気に入っていたりするのだが、それを言葉にすることはしたことがない。
「お早う、ヴァル」
「はいはい、お早うさん」
エレナの手でゆらゆらと揺れている一冊のファイル。それを目敏く見つけ吐いたのは盛大な溜息だ。
「その様子だと、何を言われるのか分かっている……って感じね?」
言われた言葉から漂うのは嫌な予感。なるべくそのファイルをを見ないようにしながらヴァルは軽く手を振って応える。
「粗方。大体の予想は付くさ」
嫌な予感というのは、どうしてこうも期待を裏切らないのだろうか。
「そう。相変わらず察しが良くて助かっちゃうわね」
どうやら予感は的中したらしい。ほんの僅かに陰るのは、その言葉を受けた相手の表情。それに気付きながらも敢えて見ぬ振りをしたエレナが、にっこり微笑んでこう告げる。
「宜しい。ヴァル、ブラッド。早速で悪いけれど、ちょっとこれを見て貰えないかしら」
指名された人間は二人。互いに面倒臭いと目で言葉を交わした後、エレナに促されるようにして場所を変える。応接セットの向こう側とこちら側。向かい合う様にして二人がソファに腰を下ろした事を確認した後で、エレナはテーブルの上に持って居た資料を広げ始めた。
「……刑務所?」
テーブルの上に並べられていくのは、とある施設に関する報告書のようだ。
「正しくは収容所ね」
そう言って彼女は笑うが、ヴァルの目に飛び込んできたのは【刑務所】という言葉の方で、意味が分からないと首を傾げてみせる。
「資料には刑務所と書かれているが、気のせいか?」
未だに煙を揺らす煙草を咥えたまま、資料を掴み目を通していく。何度見ても変わる事のない言葉にどういう事だと目で訴えると、エレナは面倒臭そうに首を振った後で、別の資料を指差しながらこう言葉を返した。
「この刑務所は現在、刑務所として機能はしていないわ」
「それってどういう……」
「別の施設として運用されているってことよ」
この施設は【ワケアリ】である。彼女が言いたいのはそう言うことだろう。取りあえず話の先をと促すと、エレナは小さく頷き言葉を続ける。
「元々は受刑者を服役させる為に建設された施設だから、刑務所であったことは間違いないんだけどね。今は刑務所とは異なる用途で運営されているため【収容所】となっているみたい。実体はまぁ、ブラック中のブラック。勿論クリーンな施設運用の可能性なんて限り無くゼロよ。中に居るのも犯罪に手を染めた経験のある人間の方が圧倒的に多と思われるわ」
差し出された資料を受け取り目を通すと、確かに彼女の言う通り、刑期を全うするための公正施設というよりは、全く異なる理由で運営されているという実体が記載されていることに気が付く。それが必要かどうかはさておき、関わらなければ遠い世界の出来事で終わる内容だなと、口に含んだ煙を吐き出しながらヴァルはそんなことを考えていた。
「単純に名前を変えただけだから内部のシステムは、刑務所の頃とそんなに変わりがないみたいだけど」
「ふぅん」
なかなか話の核が見えてこない事に感じる苛立ち。
「で、この場所が何なんだ?」
溜まった灰を灰皿に落としながら、これ以上の雑談は無用だと促すのは次の言葉だ。
「…………どうやらね……居るらしいのよ、混じり者が」
エレナが発した一言で場の空気が変わる。先程までの穏やかな雰囲気は一変、凍り付いたような空気に支配された室内に漂う緊張感。ファイルに目を通していたヴァルとブラッドの表情が、一瞬だけ真剣なものへと変化した後、嫌そうに歪んでいく。
「これを見て頂戴」
そういって差し出されたのは別のファイル。頁を捲り取り出した一枚の写真を二人に見える様に提示しながらエレナは見て欲しいと指示を出す。
「……うーわぁ……げろげろっ! まぁーじ、最悪だなっっ! これっっ!!」
その写真に先に反応を示したのはブラッドの方だった。
「場所は便所っぽいけど、どうやったらこんな風になんだよ?」
撮影場所はブラッドが言う通りトイレらしいことは分かる。しかし、そこに切り取られていた画は、普通のトイレの光景とは明らかに異なっているのだ。その事について、ブラッドは舌を出しながら皮肉を零している。
「下に横たわっているのは死体か?」
「そうね。確かにそれは生きている時は【人】だったものよ」
ブラッドの手の中にある写真を、ヴァルの指が摘み上げる。たった一枚の印画紙に写された画像。男性用のトイレという空間に在るのは、個室の扉と様式の便器。そこまでは常識的な範囲の話だが、そこに加わった有り得無いものがこの光景が異常であることを訴えている。白い色を塗りつぶすように飛び散ったおびただしい量の血液の中にあるのは、原型を止める事の出来ない程に食い散らかされた肉片と引き裂かれた衣服。中には食い残されたように人だった事の分かる欠片がこびりついた骨のようなものも散らばっているようだ。
「猟奇殺人って訳じゃねぇの?」
出来る事なら関わり合いは持ちたくない。そんな態度でそう答えれば、エレナは残念そうに首を横に振りながらその言葉を否定した。
「残念ながら、DNA鑑定の結果、人間とは思えない遺伝子の型が検出されたの。それに、遺体には人のものとは思えない歯形が残されていたらしいわ」
俄には信じられない話。冗談だろうともう一度訴えようと口を開いた瞬間、言葉を遮られ発言のタイミングを失ってしまう。
「殺された時の凶器は何なんだよ?」
今まで黙って聞いていたブラッドが、横から口を挟む。珍しいこともあるもんだと。ブラッドが自ら興味を示したことに驚いたヴァルは、これ以上の反論を止め大人しく引き下がることにし、エレナからの解答を待つため黙って耳を傾け瞼を伏せる。
「それは見つかっていないの。遺体の一部は直接手で引き千切られた様な傷跡も残されていたようよ」
そう言いながらエレナが右の手で自分の左肩を切る様なジェスチャを見せる。要するにその部分が引き千切られていたと、彼女は言いたいらしい。
「死因はショック死。出血性のものか、急激なストレスによる心肺停止なのか、詳しい事は聞いていないわ」
「ふぅん」
エレナの言葉を聞くと、ブラッドは何かを考えるようにソファへと深く腰掛け黙り込んでしまった。こうなると、この後彼が口を開くことは期待出来ない。
「……で、俺達は何をすればいいんだ?」
仕方なしにヴァルは自ら口を開き、エレナにそう問いかける。聞いた内容は愚問だろう。それでも、出来る事ならこの後に続く言葉は聞きたくないと。そんな願いを込めながら口に出したそんな言葉。然し、この願いは虚しく、次の一言により短かった平穏は呆気なく奪われてしまう。
「当然、貴方たちには此処に入って貰いたいの。この獣を始末するために、ね」
今日一番の笑顔。エレナは口角を吊り上げ形の良い唇で綺麗な弧を描くと、とても嬉しそうな表情を見せながらそう二人に告げたのだった。
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