case01:刑務所

02

 時刻は丁度、正午を少し過ぎた頃。

 本日の天気は快晴。頭上に広がる青空には、白い雲の一つも見当たらず、眩しいほどその存在を強く主張する太陽だけが浮かんでいる。

「…………暑い」

 被っていたフルフェイスのヘルメットから、解放された事で感じる心地よさ。それでもなかなか消えてくれないのは、蒸れることによって感じられる不快感だ。そのことに舌打ちを零しつつ、羽織っていたジャケットを脱ぐと、男はバイクから降りロックをかける。

 汗で湿り気を帯びてしまったアッシュブラウンの癖毛。それを手櫛で軽く梳かし空気を通しながら零す溜息。ついでに欠伸が出た事に、彼はだらしなく笑った後、目的地へと歩き出す。

 彼の名前は、ヴァル・ウィルキンソン。西洋人特有の彫りの深い顔で、目鼻立ちは整っている方の人間だろう。薄く灰色がかった青の瞳は、光の角度によって薄く緑がかった色のようにも見えるのが印象的だ。先程脱いだ革のジャケットは今、左手の人差し指に襟の部分を引っかけ、彼の肩に被さるようにして掛けられている。量産品の安い七分丈のシャツは随分と皺が寄り、だらしない印象を見る者に与えるだろう。それでも、親から譲り受けた体格の良さと身長の高さのお陰か、そんなデメリットですら特に注意されることはない。その証拠にヴィンテージもののジーンズに包まれた足は長く、履き馴らしされたダークグレーのエンジニアブーツが実に様になっている。そんな彼の空いた右手の指には、愛車や部屋の鍵がぶら下がったキーホルダーが引っかかり、先程からそれは半時計回りに一定の速度で回転していた。

 彼がこの場所に来たのは、とある場所に訪れる事が目的。駐輪場から出て向かう先にあるのは一つの建物である。

 それは、古ぼけた見た目のレトロな雰囲気が漂うビルだった。

 随分と年季の入った赤レンガ作りの建物は、周りの雰囲気から取り残されたように存在自体が浮いてしまっている。それでも、ここの管理者はこの外観が気に入っているようで、建物を新しく建て直すや取り壊すという話を彼の口から聞いたことは無い。「その必要は無い」というのが持ち主の口癖なのだが、その理由はこの建物の前に立つことで漸く理解出来る。

「ったく。何でこういうギミックが好きなんだか」

 建物の内側へと続くための扉。その脇に取り付けられている電子パネルに感じる違和感。しかし、そのことについて文句を言っても仕方が無いし、この扉が開く訳でもない。この扉にはドアノブというものはない。それだけではなく、ドア自体を施錠するためのシリンダー錠すら見あたらない。その代わりに取り付けられているのがこの如何にも意味がありますと言う雰囲気を放つ電子パネル。手を翳すことでスリープ状態に切り替わっていた端末を起動させ、慣れた手つきでパネルを操作しながら必要な情報を入力していく。

「相変わらず、見た目とのギャップが酷でぇんだよな、この建物はさぁ」

 建物の向こう側から聞こえてくる解錠音。男は扉の中央に手を当てると、軽く力を入れることで扉全体を奥へと押し、建物の中へと足を踏み入れた。

「おっと!」

 男の身体が完全に建物の中へと入ったところで勝手に閉まる扉。間髪入れずに聞こえてくるのは、建物の扉が施錠されたことを示す音だ。

 この建物の内部は意外とシンプルで、外観の雰囲気からは想像出来ない程、人の気配を感じにくい。ただ、これは建物に入って直ぐの印象でしかないのだが。

 エントランス部分だけはやけに綺麗な印象を与えてはいる。しかし、扉一枚挟むと部屋毎にスタイルが違うという点も実にユニークではある。悪い意味で統一性がない。そう言ったところだろう。

「お早うございます」

 入って直ぐのオフィスから、ひょっこりと顔を出したのはミリア・スミスと言う女の子だった。

「応、お早う、ミリア」

 そう言って軽く手を上げて答えれば、彼女は可愛らしい笑顔を見せて小さく頭を下げる。

「今日、学校は?」

「今日は創立記念日でお休みなの」

 普段見慣れている制服とは異なり、アイボリー色のワンピースに上から薄めのパステルオレンジのアウターを着ているのはそう言うことかと理解し、ヴァルは頷く。

「今日は随分と可愛らしいコーディネートなんだな」

 そうはいったものの、全体的に淡い色でまとめているかと思えばそうでもなく、ワンピースの下には落ち着いたダークブラウンのレギンスで色のトーンを締めてはいる。真新しいパンプスは大人の女性が履くようなシャープな印象を与えるものとは異なり、全体的に丸く若い女性が好みそうなカジュアルなデザインのものだ。

「この前、お母さんと一緒にショッピングに行ったときに買ったの」

 どう? 似合うでしょ? くるりと一回転した後に裾を摘んで軽くポーズを取ってみせる。

「おお。可愛い、可愛い」

 このやりとりは比較的よく交わされるものの一つで、からかうように彼女の頭を撫でると、それが不満だとミリアは頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。

「何だよ。褒めてやったのに不満なのか?」

 その問いに対して返されるであろう答えは想定済み。

「何でいつも素直に褒めてくれないかなぁ! ヴァルは!」

 振り上げられた拳から繰り出されるストレートを受け止め、ゴメンと両手を合わせて謝れば、彼女は盛大な溜息を吐いた後、仕方無いなぁと口を尖らせながら呟いた。

『素直に褒めても照れてそっぽ向いちまうクセに』

 その言葉は口に出すことはせず、心の中で呟いて終わる。とはいえ、その反応をされることが嫌だと感じている訳では無く、妹のような存在である彼女がこうやって自分に甘えてくれるのは素直に嬉しいと感じてはいるのだ。

「それにしても……」

 拗ねるのはこれでお終い。そう決めたらしいミリアが、シュシュでツインテールにまとめた、オレンジブラウンの髪を揺らしながら首を傾げる。

「今日は随分来るのが遅かったみたいだけど、寝坊したの?」

 持って居た携帯端末のディスプレイに表示されたデジタル数字。それをヴァルの方に見せながら、彼女は思った疑問を口にする。

「少し調子が悪かったんだよ」

 それに対し、肩を竦めて戯けた態度で答えてみせれば、ミリアは少し考えるようなジェスチャをした後、納得したように頷いてこう返事を返た。

「クマさん。真っ黒に付いちゃってるよ? お疲れ様だね〜」

 ミリアの言葉通り、男の目元にはがっつりとしたクマが出来ている。そのことは、洗顔時に鏡を見た際、気が付いていることで、彼女がヴァルをからかうために言った訳ではないことは判っては居た。

「最近、良く眠れねぇんだよ」

「ふぅん」

 こちらの返答をどう解釈したのかは分からない。それ以上会話をすることも無く、ミリアは出てきた部屋へと戻っていく。

「入らないの?」

 閉まろうとする扉を押さえながらミリアが声をかける。

「ああ。入るよ」

 彼女がストッパーを務めてくれていた扉のドアノブを掴むと、男は部屋の中へと足を踏み入れる。

「ん?」

 中からは鼻孔を擽る芳醇な香り。淹れ立てのコーヒーの良い香りに思わず反応すると、部屋の手前に置かれたソファの上から、皮肉混じりの低い声が聞こえてきた。

「随分と遅いじゃねぇか。社長出勤かぁ?」

「ブラッド……」

 よぉ。そう言って手を挙げるのは同僚のブラッド・ファーガスンという男である。

「昨日は早く帰ってただろう? 女の所にでも行ってたのかよ? ヴァル」

 中途半端に伸びた黒髪は大した手入れをしていないようで、見た目が悪くない程度に押さえられてはいるものの、よく見ると寝癖が付いているのが分かる。背に大きな髑髏の描かれている黒のパーカーに、真っ赤な生地に黒のインクで血を象ったデザインのプリントされたシャツ。膝の部分を故意的に破いたダメージジーンズと重たい印象を与える黒のブーツという格好の彼は、噛んでいたチューインガムに空気を吹き込み、風船を大きくしている。彼が身体を動かす度に、腰に付けた三本の銀色のチェーンが擦れて音を立てる。そんな彼は、今日もゲームをすることに忙しそうで、軽く手を上げはしたものの、直ぐに手に持った携帯ゲーム機に視線を移し忙しく指を動かし始めてしまっていた。

「違げぇって。寝付きが悪くて眠れなかったんだ。ついでに言えば、昔から見ている悪夢を見ちまって、寝起きも最悪でよ」

 そんな彼の脇を素通りすると、ひらひらと手を動かしながらジャケットを椅子に掛けたヴァルが、一度冷蔵庫の前に立ちその扉を開く。

「コーヒーはポットに残ってるってさ」

「りょーかい」

 普段なら迷わずポットの中にあるコーヒーに手を付けるのだが、今日は別のものを選択する。常備されている栄養ドリンクを一本掴み取り出すと、ヴァルは勢いよくその蓋を捻って封を開けた。

「オイオイ……随分と年寄り臭いな、お前」

 普段とは異なる状況に思わず出た悪態。ゲーム機から顔を上げることなくブラッドは呆れたような言葉でそんなことを呟く。

「煩い。疲れて居るんだから、仕方ねぇだろう?」

 それを適当に受け流すと、ヴァルは瓶の中身を一気に煽って空にした瓶を、備え付けてあったダストボックスに放り込んだ。

「相変わらず不味いのな。これの味って」

「栄養ドリンクだから、仕方無ねぇんじゃねぇの?」

「……まぁな」

 口の中に広がる何とも言えない微妙な味。身体にいいのか悪いのか判断しにくいそれは、何度飲んでも美味いと感じる事は無い。

「もう少し味に改良を加えた方が、絶対売れると思うんだけどなぁ」

 そんなことは言ったところでどうしようもない。分かって居てもつい口にしてしまった言葉に自嘲が零れたときだった。

「人のモノを勝手に飲んでおいて、大層な物言いだな。お前さんは」

 不意に背後から話掛けられ振り返ると、数歩離れた場所に立っていた中年男性と目が合う。

「お早うさん、ヴァル」

「ああ、お早う。バリー」

 汚れたグローブを外しながら笑うこの男性はバリー・スミス。短く借り揃えた赤毛の大男で、大雑把に手入れされている顎髭は見るからに格好に無頓着であることを相手に伝えている。顔の割にぱっちりとした目が特徴的のせいか、顔だけならば年齢よりも幼く見える事も少なくはない。くすんだダークブルーの繋ぎを身に纏い、履いている靴は安全靴。いかにも技術者という格好をしている彼はというと、先程ヴァルに話しかけてきたミリアの父親である。

「随分と遅かったじゃあないか」

 脱いだグローブをズボンのポケットに突っ込むと、バリーは一度、首に掛けていたタオルで汗を拭いながら冷蔵庫を開ける。

「起きれなかったんでな」

 ヴァルは苦笑を浮かべながら肩を竦めそう言葉を返した。

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