メビウスの悪夢
ナカ
introduction
01
突きつけられた銃口の感触をリアルに思い出すことがある。
『もう、これで終わりだから』
目の前には、そう言って哀しそうに笑う男の姿。
その光景を、今でも忘れることは出来ない。
『ごめんな、×××』
この言葉を最後に、世界は闇に閉ざされる。
そう……これが、意識が途切れる直前の出来事。
男が最後に覚えている記憶……その全てだった。
「うわあぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
しん、と静まりかえった室内に響き渡る絶叫。勢いよく上半身を跳ねて起きあがると、男は半ば錯乱しながら頭を抱えその場に蹲る。
「…………あ……あぁ……」
震えながら、怯えるように辺りへと巡らせる視線。未だ上手く覚醒出来ない頭は、依然として混乱に囚われたまま。息を殺し気配を消して、周囲の音だけに耳を澄ませる。始めに聞こえてきたのは煩いくらい強く叩く鼓動の音。嫌な汗が滲み、着ていたシャツが重くなる感覚が気持が悪くて仕方が無い。そうやって、怯え続けてどれくらいの時が経ったのだろう。
現実から切り離されていた意識が少しずつ引き戻されたことで気が付いたのは、部屋の外から聞こえてくる、住人達が起こしたであろう生活の音だ。少しずつ動き出した正常な時。それを掴むことに成功した男の頭は、漸く思考をするということを開始する。
「……ゆ……め……」
先程から聞こえているカラカラと回り続けているもの。それは、付けっぱなしの換気扇から聞こえてくる渇いた音なのだろう。この場所が何処であるかが理解出来たところで感じられる安堵。気が抜けたように深く息を吐き出すと、男はゆっくりと腕を下ろし肩の力を抜いた。
「……ゆめか……」
止まることなく鳴り続ける換気扇の奏でる風の音と、時計の針が刻む規則正しいリズム。それに耳を傾けながら静かに瞼を伏せ、深く吸い込んだ息を時間を掛けて吐き出していく。この深呼吸はいつも以上に時間がかかる。そうやって取り戻すのは落ち着きというものだった。
「また……あの夢……」
嫌な夢を見た。
目覚める直前に見えていたものを思い出し、男は嫌そうに表情を歪める。
未だ鮮明に思い出せるそれはやけに生々しく、消そうと思っても消えてくれない映像として頭にこびり付いている。それが自分の身に実際起こった事ではないと理解しているのに、何故こんなにもストレスを感じ、嫌な思いをしなければならないのだろう。
「…………はぁ」
無意識に吐き出す溜息が随分と重い。それでも、瞼の裏に焼き付いたものを消し去ることが出来ず、男は作った拳を振り上げると、それを勢いよくマットレスの上へと叩きつけた。考えないようにすればするほど、より詳細に思い出してしまう光景。その映像は、男には幼い頃から見続けている夢の一部である。
繰り返し見せられる夢の内容は、自分が死ぬ瞬間のものだ。
それは子供の時から何度も、何度も見せられているため、結末はいつも決まっていた。
幼い頃に見ていたときは、夢の中で見ているものの位置が随分と高く、自信の体格も異なることに違和感を感じていたのは覚えている。まるで他人の体を乗っ取ったような感覚と言えば分かるだろうか。その違和感に酷く戸惑ったこともあったはずなのに、いつしかその違和感すら、気にすることは無くなってしまっていた。それは多分、体が成長するにつれ、夢の中の視点と現実で見えるものの視点の誤差が、薄れてきた事が原因だと思われる。
他人の体を乗っ取る感覚と言いはしたが、不思議なことに、夢の中に在るこの存在が自分自身であると彼はそう確信している。赤の他人である可能性について、一度も疑ったことはないのだ。それでも、姿見で夢の中の自分を確かめることは不可能なため、自身がどのような格好をしているのかという詳細は、残念ながら分からなかった。
その夢の中で、男は必死に【何か】闘っていた。
【何か】とは一人の人間で、そいつを殺さなければいけないということだけは、本能的に悟っていたように思う。
自分が生きる為にと、容赦なく繰り出される攻撃。しかし、相手も黙って殺されることを望んでいるはずはなく、手加減はしないと言うように男に向けて様々な武器を操り、攻撃を仕掛けてくる。それ以外の行動は一切無い。そんな不思議な状況が常にあった。
この夢はいつも決まって、どちらかが攻撃を繰り出すところから始まっている。
決定打の無いまま生傷だけが増えていく状態が続く。中々勝敗が決まらないため、体力だけが削られ上がっていく息。自分に向かって投げられたナイフを器用に躱すと、直ぐに体制を立て直し構える。しかし、こちらが攻撃に転ずるより早く相手の方が素早く動くのだ。相手の手の中に収まった機械。それが乾いた音を立てて火を噴いた。
次の瞬間、自分の身体に感じたのは微量な熱だ。暫くしてそこを起点に鈍い痛みがじわりと広がり始める。焼けた肉の匂いと溢れ出す血液の感触。そのことが許せないと感じ、目の前が怒りで真っ赤に染まる。
辺りに響く獣のような咆哮。
それが己の口から発せられた事に驚く暇も無く、相手に向かって伸ばされた右腕が空を切る。こちらの攻撃がすんでの所で躱された事に舌打ちが零れるが、次の瞬間、相手の衣服が裂け赤く付けられた傷口から鮮血が吹き出した。苦痛に歪む相手の表情に覚える恍惚のせいか、口元が嬉しそうに弧を描き歪む。武器を持たないはずの自分がどうやって相手の体に傷を付けたのかを考えると、何てことはない。己の影が鋭い刃となり【それ】の身体に痕を付けるように抉ったのだという事に気が付いた。
そんなことが、淡々と繰り返されている。その光景はまるで、流れる音楽に併せて踏むステップようで、中々掴めない相手の影を捉えようと必死に動き藻掻き続ける。
いつまでそれは続くのだろう。
状況が変わるのは、なかなか終わらない攻防に嫌気が刺し始めた頃である。大きな衝撃が腹に入り自分の身体が後方へと吹き飛ばされたのだ。
「がっ……はっ…」
背中に伝わる衝撃で壁に叩きつけられたと言うことを理解すると同時に、口の中に広がる鉄錆の味。大きく開いた口から目の前に飛び出す赤が地面へと落ち、赤黒い染みを作る。腹に腕を回すと指先に伝わるのは生温い感触。遅れて腹部にじんわりと熱が宿り、その熱さに思わず顔を顰める。
『頼むから、抵抗しないでくれ』
顔を持ち上げると、眼の前に迫る使い込まれたハンドガンの銃口が視界に入る。それは既に己の眉間に突きつけられていた。
『もう、これで終わりだから』
そう言って哀しそうに笑う男の顔に思わず目を見開いて固まる。
『ごめんな、×××』
額の皮膚に触れる微妙な温かさのある鉄の感触に、急いでコイツを殺さなければと腕を振り上げるが、男の指がトリガーを引くのが僅かに早い。次の瞬間、頭蓋に衝撃が走り目の前に火花が散った。耳に届く、くぐもった音は、後頭部の骨が砕けたことを伝えるもので。その中に収まっていたはずのものが外へと弾き出し飛び散っていく感覚がリアルに伝わることに、無意識に溢れ出してしまう涙で視界が歪んでいく。
『嫌だ! まだ死にたくない!!』
そう思い腕を伸ばすのに、男の身体に指一本触れられぬ儘、自分の身体は大きく傾き、飛散して汚れた自分の一部だったものの上へと音を立てて倒れ込んだ。
『……ぁ…ぁ……』
口から零れる声にならない声。接続の途切れた神経の先。身体を構成するパーツが、自分の意思に反して勝手に機能を停止し始めていくのが分かる。
自分の中から流れ出ていくもの。それは付けられた傷の大きさの分だけ溢れ出し、我先にと溶けて消えていってしまう。そうやって飲み込まれるのは、ぱっくりと口を開けて待ち構える奈落。死神の命を刈り取る鎌の刃先は、既に自分の喉元へと宛がわれているのだろう。
死神が、少しでも力を込めれば終わってしまう命。余りにも一瞬で、余りにも呆気ない幕切れに、様々な感情が駆け巡る。だが、それもほんの僅かな事でしか無く、消えていく命の残りは殆ど残されていない事に絶望が大きくのし掛かる。
途切れた意識の先にある物は【無】というものなのだろう。
何もない。何も感じない。完全な喪失に覚える不安。
それを自覚した瞬間、言いようのない恐怖に囚われ目を見開く。何か行動を起こさなければ。何故かそう感じ、喉を掻き毟り声を出そうと口を大きく開き肺へと強制的に空気を送り込む。
「っっっっっっっっっ!!」
取り込んだ酸素を音にして、大きな音を無理矢理吐き出す。内側と外側で同時に響く絶叫により起こるハウリング。不快な不協和音に視界を閉ざし、耳を塞いだ瞬間、世界が大きく動き自分という存在だけが外側へと弾き飛ばされた。
そうなると、今まで起こっていた事が逆再生される映像のように恐ろしいスピードで背後から目の前に向けて駆け抜けていくのだ。その映像が終わるとゆっくりと浮上していく体。相手によって付けられた傷はいつの間にか癒え、痛みも全く感じない。ゆっくりと、時間をかけて接続される夢の世界と現実という時間。もう少しで目覚める。
これで終わるのだ。
いつもそうやって胸を撫で下ろすのだが、本当の恐怖はここから始まる。漸く悪夢から解放されると喜んだ瞬間、たたき落とされる絶望。背後から伸びる両腕に囚われた途端、己の体がバラバラに裂け、一瞬にして目の前が真っ黒に染まる。
「うわあぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
それは多分、無意識に取った行動なのだろう。何かに縋るように伸ばされた右腕が、何も無い空間を何度も行き来する。
こうやって、今日もまた一人。終わらない悪夢に怯え、未だ生きているという事実に安堵し、くすんだ世界へと呼び戻されるのだ。
「……何なんだよ…もう…」
幼い頃からずっと繰り返されるこの、後味の悪い夢は、一体いつになったら見る事を止められるのだろう。その答えを未だ見つける事が出来ず、男はやりきれない思いを抱えながら顔を顰める。
それから暫くは、ベッドの上で何をするわけでもなく、ただぼんやりと外から聞こえてくる音を聞いていた。
いつから聞こえていたのだろう。煩く響く携帯端末のアラーム。それにより漸く覚醒した頭を抱えながら、男はやっとベッドから抜け出すことを決意する。そのまま洗面所に向かい蛇口を捻ると洗面台に頭を突っ込んで水を被る。霞掛かった思考がクリアになっていく感覚。冷静さを取り戻した段階で洗面台から頭を引き抜くと目の前の鏡に、もう一人の男の姿が現れた。
「…………うっわ……すんげぇ酷でぇ顔」
薄い硝子の向こう側。目の下に隈を作り、無精髭を好き放題に伸ばしたぼさぼさ頭の男が一人。卑屈な笑いを浮かべがながら此方側をじっと見て立って居る。
「これじゃあ、まともに外にも出れねぇや」
先ずはこの髭から何とかしなければ。シェービングクリームと剃刀を用意すると洗面台に湯を溜めクリームを泡立てる。器用に剃刀を操りながら消していく伸びてしまった髭。それが無くなっただけでも随分さっぱりとするものだ。
「……はぁ……」
それでもまだ、気分が完全に晴れたわけではない。使った道具を手早く片付けた後、男はふらつく足取りでシャワールームへと向かった。
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