第44話 玲香・笑顔

「おはよ、玲香!」

「山田さん、おはよう」


多目的室に入ると、一足先に練習を始めていた沙月と古戸さんが声をかけてくれた。


「おっはよー!」


私も元気な挨拶を返す。


今日、本当は学校に来ようか迷った。


――明日また呼ぶからちゃんと謝れよ。


昨日のサックスの先輩の声が反響する。

またあんなことをされて家で兄弟に心配をかけるのか。嫌だ。


嫌なのは兄弟に迷惑がかかることだけではない。正直私自身もとても怖い。

幼い記憶がフラッシュバックして、うっと息が詰まる。

大丈夫。もうあのときの私じゃない。

あのときの私じゃない、「元気で明るい玲香」なんだから。

――でも。

なんで今もこんな痛みを味わわないといけないんだろう?


「玲香?どうしたの?今日は静かだね」

「あっううん、なんでもないよー!」


危ない、「元気で明るい玲香」じゃなくなっていた。

沙月にまで迷惑かけてどうするんだ。

私はいつものように乾いた笑顔を浮かべた。

あー、なんだかバカみたい。


「早く練習しないとね!」


私は威勢のいい声とともに、フルートをケースから取り出した。

かがみこむと、ポニーテールがさらりと肩に落ちる。


「あれ?玲香、髪ゴムいつもと違うね。似合うよ」

「ほんと可愛いわ、流行りのゴムよね?私買いに行ったら売り切れてたの」


二人が新しい髪ゴムを褒めてくれた。

普通に嬉しい。


「へへん。これ、るきがくれたんだー!可愛いでしょ」


たかが髪ゴムだけど、くるっとターンしてみる。

沙月の笑顔が心なしか少し強張る。

どうしたんだろう?


「「るき」って、美術部の山中君のことかしら?」

「うん!るきは、私の、とっても大切な人なんだ!」


だって生き別れた兄弟なんだもん……なんてことは言えないが。

私はにっこりと笑った。

沙月が少し下を向いた。


「ところで玲香、フリーズドライに山中君のことについて何か聞かれなかった?」


沙月が小さな声で言う。

前にもそんなことを沙月に言われたような……


「ううん、何も聞かれてないけど」


正直に答える。


「うーん、そっか……仕事が遅すぎるぞ、あいつ」


仕事?リズ姉の「仕事」ってなんだろう?

聞こうと思って口を開きかけると、沙月がすくっと立ち上がった。


「ちょっと私、フリーズドライに用があるから文芸部行ってくる。今日って文芸部あるよね?」

「あると思うけど」

「じゃあ行ってくるから二人で練習しててよ。先輩が来たら私が文芸部にいるって伝えて」


沙月はそう言って廊下に消えていった。

なんなんだ?ほんとに。


「山脇さんの「仕事」ってなんなんだという顔をしているわね、山田さん」

「よくわかったね」


急に心を読まれたからびっくりしたが、そういえば古戸さんって謎の〈フルートの神様〉だったっけと思って納得する。


「私も気になって今沙月さんの心の中を読んだら、『山田さんと山中君が付き合っておらず、山中君が山田さんに好意を持っていないことを確かめること』が山脇さんの役目らしいわよ」


ほえー。

沙月ったら私とるき兄が付き合ってたと思ったのか。

友達の好きな人と付き合うわけないのに。しかも兄弟だし。


……そういえば今朝からリズ姉とるき兄の様子がおかしい。

なんだかお互い気まずく思っているような感じがする。

昨日の夜は普通だったのにな。

もしや私が寝ている間に何かあったんだろうか。

帰ったら聞いてみよう。


「山田さん、とにかくそろそろ練習を始めましょ」

「うん。楽器庫に荷物置いてくるね」

「わかったわ。じゃあ、その間に私は自主練しておくわね」


私は古戸さんに手を振って外に出た。

楽器庫はサックスの練習場所の近くだ。

私はフルートのケースを握りしめた。


しばらく廊下を歩くと、廊下の奥に誰かがいることに気づいた。

人影は壁にもたれて何かの様子を窺っているように見える。

誰だ??

亜理紗が待ち伏せしているとか?ううん、それならもっと堂々としているはず。

茉優先輩とか?いや、そうだったらなんであそこにいるの?意味ないじゃん。っていうことは違うな。

沙月かな?そんなことないや、リズ姉を探しに行ったんだから。リズ姉があそこにいるとは思えな――


って、あの人もしかしてリズ姉?!


目をじっと凝らすと、ツヤツヤのボブヘアと丸メガネが見えた。

なんであそこにいるんだ?私とサックスパートとのいざこざがリズ姉にバレたのか?

冷や汗が流れるのを感じた。

ヤバい。知られたくない。

……でもそんなわけないか。このことを知っているのはサックスパートの人と私だけだし、亜理紗やサックスの先輩が言いふらすとは思えない。


知らないとはいえ、今会ったら「大丈夫?」とかいろいろ聞かれそうで怖い。

私は気づかれないようにそろりそろりと足を動かした。


----------


楽器庫に荷物を置いて外に出ると、リズ姉は廊下のもっと奥に移動していた。

気づかれないように楽器庫とリズ姉から離れる。


ところで沙月、きっと文芸部でリズ姉のこと探してるんだろうな。

リズ姉は部室Bの近くだよって伝えに行ったほうがいいよね。

私を待っている古戸さんにちょっと申し訳ないけど、伝えに行こうっと。

私は階段へと向かった。


文芸部室は一つ下の階にある。

私は暗い階段をタンタンと降りた。

途中で男子生徒とすれ違い、柔軟剤のいい香りで肺が満たされる。


……って、あれ?

なんで男子が最上階に行くんだろう。

最上階には吹奏楽部とESSと科学部しかないし、今日活動している吹奏楽部とESSには女子しかいないはずだ。

だから男子が最上階に行くのはおかしい。

でも、まぁいいか!

とにかく沙月に会おう。

『文芸部』と明朝体で書かれたシンプルなプレートを見て、私はそのドアを開けた。


「失礼しまーす」

「あっ、玲香。どうしたの?」


中にいた二人の人がこちらに顔を向ける。

沙月ともう一人は知らない人だ。


「沙月ちゃん、この人だれ?」

「あ、えっと、私の友達の玲香です」

「ふーん……私、文芸部の柚本文。よろしくね」


柚本先輩が微笑む。

私も会釈を返した。


「沙月、リンスが部室Bの近くにいたよ」

「ほんと?」

「うん。行ってきなよ」

「ありがと。じゃあ私行ってくる」


沙月はそう言って走っていった。


私も行かなきゃ。サックスの先輩が呼びに来るかもだし。


私は無理に笑顔を繕ったまま、文芸部を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る