家庭教師なお姉さんは実は初心で甘えたがり

久野真一

家庭教師なお姉さんは実は初心で甘えたがり

「うーん……」


 ド・モルガンの法則。

 集合上の演算について成り立つ基本法則だ。


 X`をXの補集合とした時に:

 (A∪B)`=A`∩B`

 (A∩B)`=A`∪B`


 が成り立つという、その法則について復習をしていた。

 たとえば、全体集合を{1, 2, 3, 4}とする。

 また、A = {3, 4}, B = {2, 3} とおくと。


 (A∪B)`=({3, 4}∪{2, 3})`={2, 3, 4}`={1}

 となる。また、

 (A`∩B`)=({3, 4}`∩{2, 3}`)={1, 2}∩{1,4}={1}

 となって、確かに等しい。二番目の式についても同様。


 なんだけど。


「なんかしっくり来ない……」


 確かに法則として暗記してしまえばそれまでなんだろう。

 しかし、なんでこの法則が成り立つのかがわからない。


「どの辺りがしっくり来ないの?」


 隣の椅子に座って黙って様子を見守っていた春音さん。

 俺が悩んでいるのを見かねたらしい。


「えーとさ。こう言うと、俺がなんもわかってないみたいなんだけど……」


 凄い初歩的な疑問なのではないだろうかと自信がなくなる。


「そういう時のために、私が家庭教師やってるんだから、遠慮なく、ね?」


 それもそうか。


「じゃあさ。聞きたいんだけど。ド・モルガンの法則ってなんで成り立つの?」

「……あー。うん。そういう疑問かー……」


 途端に何やら考え込み始めてしまった。

 初歩的過ぎて呆れられてしまった?


「あまりに初歩的だった?」

「逆、逆。発展的な疑問だったからね。ちょっと言い方に迷ってるの」

「そうなの?」

「本当なら大学数学でやることだし。確か、公理系の話はちょっとやったよね?」

「ああ。数学教師が、受験ではあんまり使わないけど、とか言ってたけど」


 数学には公理と定理があること。

 公理はごく少数の「誰でも正しい」と認める基本法則の事を。

 定理は公理から導き出せる事で。

 これまで暗記して来たほとんどの定理も実は公理から証明出来るらしい。


「じゃあ、ちょっと脇道にそれるけど。集合論の初歩をちょっとやってみようか」


 春音さんは教える事にとても熱心で。

 こんな風に本題から脱線して新たな講義をしてくれることもよくある。

 公理的集合論という言葉。ZF公理系というものがあること。

 ZF公理系に選択公理を加えたZFC公理系が一般的に採用されていること。

 そんな、ちょっとだけ難しい話も惜しまずにしてくれる。


「へー。じゃあ、ZFC公理系の上でド・モルガンの法則も証明出来るってこと?」

「そうね。より正確にはド・モルガンの定理と言うべきかしら」

「いやー、すっごい納得!春音さんが居なかったら暗記して終わってた!」


 少し興奮気味に言う。

 ふと、何やら視線を感じると、春音さんがじーっと見ていた。

 こういう優しげな視線で見つめられていることがよくある。


「えと。何?」

「ううん。樹君がちょっと可愛いなって」


 からかわれている。それをわかりながらも、頭がかあっとなる。


「可愛いって……」

「だって。目をキラキラさせてるんだもん。教師としては可愛いよ」

「からかわないでくれよ。もう」


 昔から春音さんはこうだった。


「いやー、樹君。いい子、いい子」


 しまいには頭を撫で撫でされてしまう。

 子ども扱い、あるいは弟扱いか。

 それがわかっているのに、少し嬉しいと思ってしまっている。


「あー、もう。いい子とかいいから。さっきの続きなんだけど」

「もう。誤魔化しちゃって。照れなくてもいいんだよ?」

「照れてないから」

「じゃあ、そういう事にしておいてあげる」


 山吹春音やまぶきはるねさん。

 一階上に住む近所のお姉さんで三つ歳上。

 俺、山上樹やまがみたつきの姉貴分。

 そして―俺の初恋で憧れの人だ。


 春音さんはスタイルもいいし、優しい人だ。

 きっと大学では引く手数多で俺なんか眼中にないだろう。

 叶わないだろう初恋を抱えてよく俺は葛藤する。


◇◇◇◇


「じゃあ、今日はこれで終わりにしよっか」

「お茶入れて来るよ」

「そういうところ、いつも気が利くね」

「先生に対してはこれくらい当然」

「もう、言うようになったじゃない?」


 春音さんの授業が終わった後の一時はとても楽しみだ。

 自宅通学の春音さんは引き続き一階上のご近所さん。

 授業が終われば少しゆっくりしていってくれる。


 少しいい気分になりつつ、お茶菓子と紅茶を用意して戻る。


「そういえば、春音さん。二回生だけど、学生生活はどう?」


 春音さんのことをもっと知りたくて、時々こんな事を聞く。


「そうねー。夏休みもあと少しと思うと、少し憂鬱かしら」

「あ、そっか。大学生だと8,9月が夏休みなんだっけ」


 高校生の身だと7,8月が休みなので忘れそうになる。


「そうなのよー。もうちょっとだらだらしてたいんだけどね」


 正直、意外だ。俺の前での春音さんは、いつでもお姉さんだったから。


「友達とか……彼氏さんとは遊びに行ったりしないの?」


 一瞬、言うのに躊躇したけど、この流れなら聞いてみてもいいだろう。

 きっと、俺の望まぬ答えが返ってくるだろうけど、仕方がない。


「んん?彼氏?そっか、そっかー」


 と思ったら何やらニヤニヤし出した。


「樹君。私に彼氏が居るかどうか気になる?」


 ああ、まずい。図星をつかれてしまった。

 なんとか誤魔化さないと。


「春音さんなら、彼氏さんいるだろ?なんとなくだって」


 顔は赤くなっていないだろうか。

 鏡で自分の顔が見られないのが恨めしい。


「誤魔化さなくてもいいのよ?」

「誤魔化してないから!」


 演技で不機嫌そうな様を装ってみる。


「冗談、冗談。からかってごめんね。でも、別に彼氏はいないよ?」


 意外にもかえってきたのは至極あっさりした答えだった。


「え、えーと。そう、なんだ?」


 ほっとしたのと驚きで受け答えがぎこちない。


「なんか、意外だ。工学部とか男の園だろ?言い寄られてそうだけど」


 ちょっと偏見入ってるけど。


「否定はしないけどね。でも、意外に言い寄って来る男子は少ないよ?」

「それはそれで納得いかないな」


 言い寄られている様を想像すると嫌なくせに。

 春音さんみたいないい女性を……なんて思う俺も大概だな。


「たぶんね。私、樹君が想像してる程凄いわけじゃないよ」

「俺はそう思わないけど」

「ううん。私はいつだって樹君に甘え……」


 どこか遠い目をして言う春音さんはいつもと少し違う様子で。


「あのさ!」


 咄嗟に何かを言わないと。そう思ってのことだった。


「春音さんはすっごいいい女性だと思う。家庭教師も熱心にやってくれてるし。共働きのうちの両親に代わって小さい頃は面倒みてくれてたし。時々、からかってくるのは恥ずかしいけど。とにかく、自信持って欲しい!」


 一息に言ってから、はっとした。

 俺は今何を?

 まずい。これ、絶対にからかわれる。

 そう思ったのだけど返事は無言。

 視線をあわせてみると、何故か逸らされる。

 さらに視線を追いかけてみるとやっぱり逸らされる。

 んん?


「春音さん。急にどうしたの?」


 これまで春音さんと接して来て初めての経験だ。


「えっとね。樹君。これって告白……だったり?」


 何やら頬を赤らめて、恥ずかしがっている春音さん。

 ひょっとしてこれは照れてる?

 どうしようどうしよう。

 誤魔化すべき?それとも、正直に言うべき?

 

「告白……みたいなものだと思う」


 日和った。日和ってしまった。

 きちんと言えば良かったのに。

 俺はアホだ。


「ああ、いや。みたいなものっていうのは、実質告白ってことで……」


 しかも、さらに恥の上塗りまで。


「そっか。うん。ありがとう、樹君」

「いえ。どういたしまして?」


 もう顔を見ることが出来ない。

 断られるだろうか。断られるだろうな。

 だって、ずっと俺は春音さんの弟分だったし。

 勢いでとんでもないことを言ってしまった。

 明日からどんな顔して会えばいいんだか。

 

「なんで、急に暗い顔?」

「だって。どういうお断りの言葉がくるかと思うと……」


 どうにもこうにもうまくない。


「別に、私はお断りする気、ないけど?」


 まさか、まさか。


「ほんとに、いいの?春音さんは大学生で、俺は高校生だけど」

「それはこっちの台詞。私もね、時々葛藤することがあったんだ」

「それはとても意外だ」


 いつだって春音さんは俺にとってお姉さんで。

 遊びに誘ってもらうこともあったけど、デートとは程遠いものだった。

 大体、支払い全額春音さん持ちだったし。


「別に気になってもいない男の子とデート行かないよ?私は」

「でも。全然それっぽい素振りがなかったし」

「正直ね。私もストッパーかけてたの。ただのお姉さんなのかもって」


 まさかそんな真相だったなんて。


「ただのなんて事はないよ。俺にとってはその。ずっと大切だったし」

「うん。今はわかってる。それでね、一つだけ覚悟して欲しいの」


 俺に向きなおったかと思えば、やけに照れ照れしている。


「覚悟、ですか?」

「私。たぶん、かなり彼氏に甘えるタイプ」


 甘える?俺が甘えるのじゃなくて、春音さんに甘えられる?


「ん、と。それは全然構わないんだけど。想像出来ない……」


 春音さんが甘えてくる。

 今まで未経験だけど甘美な響きだ。


「樹君の前だとお姉ちゃんで居なくちゃって思ってたからね」


 そんな台詞で微笑まれるのは反則だ。


「その。これからはいっぱい甘えて欲しい」


 ああ、俺は何を言ってるんだろう。


「じゃあ、早速、お願いしていい?」

「なんでも」

「膝枕、いい?」


 とても意外なリクエストが飛んできた。


「樹君に頭撫でられるの。いいかも……」


 何やら先程とはまるで違う可愛い生き物がそこに居た。

 俺の膝を枕にしてだらーんとしていて。

 お姉さんな彼女はどこにも居ない。


「俺は嬉しいんだけど」

「だけど?」

「春音さんが甘えるとこんなになるなんて……」


 髪をなでつつなんだか微笑ましい気持ちになってくる。


「実はね。私に告白してくる男の子なんだけどね」

「ああ、それが?」

「私に母性的なもの求めてるらしくて。そういう子が多いの」

「母性的……少しわかるような」


 俺にとってはお姉さんだけど。

 人によっては普段の包容力の高さはそう映るのかもしれない。


「でも、逆に甘えられそうな人はいなくて。そんな気になれなかったの」

「俺もその意味では同類だけど?」


 なんで春音さんは俺を選んでくれたんだろう。

 その瞬間、ふと、彼女と電話している光景がフラッシュバックする。

 高校受験の時。大学受験の時。ちょっと落ち込んだ時。

 

「ちょっと話に付き合ってくれない?」


 そう言って、春音さんは時々俺に電話をかけて来たのだった。


「樹君は自覚なかったと思うけど。結構、電話で愚痴もらしてたんだよ?」

「あ。言われてみると。でも、俺は春音さんと話せて楽しかっただけだし」


 別に話に付き合おうなんて考えはこれっぽっちもなかった。


「そういう積み重ねが私に効いたの。だから、私は樹君に密かに甘えてたんだ」

「えーと。なんか、色々反則なんだけど」


 つまり、今まで夜になんとなく電話して来てたのは。

 単なる暇つぶしではなくて俺を信頼してくれているからだったと。

 そう聞くと、凄く嬉しい気持ちが湧き上がってくる。


「樹君、なんでか顔赤くなってない?」


 見上げる春音さんはなぜだか不思議そうで。


「それは……男心をくすぐられるというか」

「じゃあ、もっと男心くすぐっちゃおうか?」

「え?」


 何を、という間もなく顔を引き寄せられて唇を奪われていた。

 クチュ、っと少しの水音が何やら艶めかしい。


「えーと……」


 これはキスという奴だよな。


「私の初キス」

「お、俺もそうだよ」

「そっか。樹君、案外彼女いたことあるのかなって思ってたけど」

「ないよ。ずっと春音さん一筋」

「そっかー。そんなに愛されてたんだ。私」


 こうして、俺と春音さんは恋人になったのだった。

 ちなみに、両親がかえってくるまでイチャイチャしていて。


「息子をよろしく頼みます」

「よろしくね。春音さん」


 などと、お願いされてしまった春音さんは。


「は、はい。清く正しいお付き合いをばばば」


 何やら噛んでいたのだった。

 どうやら、俺の知っていた春音さんはほんの一面で。

 これからはもっと色々な顔を見せてくれそうだ。

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