第5話 美術部の部長なのに野球部のエースを目指す?

2003年9月15日

 週刊のクルマ情報雑誌は、もちろん書店やコンビニ店で毎週販売されるので、その編集部というのかなり忙しい。主に一点ものとされる中古車の販売情報そのものが宣伝広告になるため正確であることは言うまでもなく、特に販売価格の誤掲載は広告料が回収できないばかりか販売店や読者から信頼性を大きく損ない、収益を大きく落としてしまうことになる。

 週刊発行の形態としては金曜日に印刷して販売仲介業者によって日曜日の店頭に並ぶことになっていたので、毎週多忙ながらも土曜日は取材交渉がなければ休めたし、近い将来の完全週休2日制を見据えて祝日が重なればなるべく仕事は入れないようにしていた。この週刊雑誌の九州地区を任されている立場としては若い人材の可能性を試しながら売り上げを上積みさせようと図りたいのだが、東京の本社社長から「山鹿君、土日に働かせ過ぎよ、ちゃんと休ませて」と電話が入るのが超ストレスだった。


 日が傾いてきて涼しい風が吹くようになってきた祝日の夕方、近くの駐車場の通路スペースでいつもの麻矢とのキャッチボール。肩慣らしが終わるとキャッチャースタイルになってグローブを低く構えた。麻矢が軽く振りかぶって力を込めて投げ始めた。構えた所に球が来ることはほぼなく、立ち上がってジャンプしても届かないことやショートバウンドして後ろにそらすことも多く、球拾いに走るのが茶飯事だったが、たまにストライクに来る球の速さといったら最近は怖くなるほどで、それが夕暮れの薄暗くなった時には球が見にくくなって更に怖いので、父・史矢はそうなる前に切り上げることにしていた。

 「イッタタ~」と手を洗いながらグローブをしていた左手の中指を引っ張る父・史矢。芯を食ったようにバチーンとグローブで受けた麻矢の速球で痛めてしまったのだ。「凄くいい球きたよ~」腕がちゃんと振れてまっすぐ来た速い球だった。これを続けて狙った所へ投げられる人だけがピッチャーになれるのだ。

 「そうね。今日は調子良かったほうね」と投球の話しの時に引き合いを出されるのが、時々練習が休みの日に遊びに来る山上君。彼は中学の野球部のエースピッチャーなのに麻矢はその彼より球が速いらしい。その彼がエースになれるほどの野球部のレベルに嫌気がさして野球部には入らなかったと言うが、中学に入った頃は野球をすることにそれほど興味はなかったようだ。

 「そりゃピッチャーはコントロール第一よ、ストライク入れるために力を加減するから」「そう?(山上くんは)全力で投げても今のオトさんと変わらない感じよ」


 そんな山上君たちも含めて夏休み期間から進学塾に通い始めたクラスメートたちが増えてきたので、従姉の祐紀に事情を確認してみると~今の時点で実力テストの志望校判定がAやBの場合、塾生が気を抜かないでしっかり受験対策すればそれを2月3月まで保てるけど、自宅学習だけでそれを保つのは難しいかも。周囲の子たちが塾に行っちゃうと自分に自信がないと不安になるよね~という回答。その祐紀は塾通いせずに進学校へ合格したのだが。

 山上君が通い始めた塾で「来週に3日間、中3直前体験塾があるよ」と誘われた麻矢、「試しに行ってみたい」と言う。

 山上君らは運動部なので、すでに2年生にレギュラーを譲って部活としては引退状態だったが、麻矢は入学時から美術部で今年は部長。最近は油画をやっているらしく、オイルのにおいが通学バッグからも漂っていた。

 美術部顧問の野上先生に相談すると、とりあえず3日間は部活を休んで体験塾に行くことを拒まれる理由もなく、父・史矢としても10月からは入塾して通うんだろうと思って備えていたのだが、体験塾3日間終了後に意外な決意があった。

 麻矢は好きになってきた部活と高校受験の勉強を両立させて「ぜったい合格して高校生活は野球部でエンジョイするーそれを目指して頑張る」と宣言したのだ。


 放課後の塾通いの予定がなくなったので、いつも通り部活の美術準備室へ向かった麻矢。イーゼルに作画中のキャンバスを置いたところで顧問の野上先生が入って来て声をかけられた。

 「今週から塾だったんじゃないの」

 「山上君に誘われた塾がイメージと違いすぎて、もっと苦手な部分をガンガン教えてくれるのかと」

 「それなら家庭教師を頼まないと」

 「でっすよね。塾でも学校の授業の延長みたいだったし、そんな乗りで親に言われて塾に来ているだけって感じのヤツもいたから、それなら自分で毎日勉強する時間に当てれば良いかと」

 「ご両親からそう言われた?」

 「親からは好きにしていいから、と言われましたよ」

 「オマエ受験生よ、毎日勉強してなかったんか」 

 「してませんよ、テストの前日からっすよ」

 「部活としては卒業記念の油画を完成させれば終わりだから、受験勉強の時間は増やせるだろうけど、な…」

 野上先生は2年の時に麻矢のクラス担任だったので、ざっくりと成績は把握していたはず。ケースから絵筆を取り出す麻矢に進路について口を出しかけた野上だったが~次のテスト結果の後でもギリギリ間に合うか~と息を呑み込んだ。


 これまでテスト前日からしかしていなかった自宅での自主学習の日々が始まり、てっきり兄・郁矢の学習机もそのまま残る部屋にこもると思っていたら、食卓で勉強するのは小学生の時から変わらないスタイル。両親が見ていた巨人戦や韓流ドラマのテレビも気にせず、父・史矢はテレビを見ながら読書することが多かったから、そんな感じで教科書を開いていたのだ。それでも午後11時を過ぎるとテレビも消えるので、そこからの1時間、集中できるか睡魔に襲われるかであったが、勉強をしている時間は確実に増えていった。

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