第四章 火伏せり、風封じ

第16話 毒

 翌四月、鶴岡若宮の花祭り。恒例の流鏑馬が行われ、また、いつも通り海野幸氏や祖父が射手として選ばれて神事を行った。


「よぉ、相変わらず小せぇな」


 ドン、と頭の上に乗る腕に、開耶は勢い良く振り返った。


「何だよ? 今日は反応がいいな」


 重隆だ。面食らったような顔をしている。


「望月様」


 一年以上会えなかった。なのに久しぶりという感じがまるでしない。会えたら言いたいことや聞きたいこと、色々な想いがあったはずなのに、顔を見たら何も出て来なくなってしまった。ただ黙って重隆の顔を見上げる開耶に、重隆はポンポンと開耶の頭を叩くと馬場に目を向けた。


「おまえは本当に流鏑馬が好きだな。ここでくらいしか会わないもんな」


 そう。重隆と会うには流鏑馬に来るしかない。他の時に彼がどこにいるのか、何をしているのか開耶は知らなかった。

 その時、女達の黄色い歓声が上がった。見れば海野幸氏が馬に跨がった所だった。開耶は眉をひそめた。あれから彼は開耶の元を訪れなくなった。幸氏は鶴岡若宮の中央、御簾のおろされた辺りに目を送る。きっとあの中に大姫がいるのだろう。幸氏は馬上から軽く目礼のように瞼を降ろすと、一声上げて馬を駆けさせた。


「お見事! 皆中!」


 結果を知らせる係の声に、女達の歓声と熱い吐息が応える。男らはあからさまに嫌な顔をしてみせるが、海野幸氏の弓の腕は確かに感嘆に足る見事なもので、馬を駆ける姿も凛々しく文句のつけようがない。でも、開耶はどうにもやるせない気持ちでそれを見ていた。兄、義高に命を渡そうとしている幸氏。でも、そんなこと出来るわけがない。彼は今もまだ大姫の前で兄を演じ続けているのだろうか。


 その時、品の良いお香が漂い、甘やかな声が後ろからかかった。


「望月殿ったら、何を腐ったような顔をしてるのかしら?」


 驚いて振り返れば、美女が重隆の横に立って笑っていた。


「別に。何でもねぇよ」


「流鏑馬の射手に選ばれなかったから拗ねてるの?」


「拗ねてなんかいねぇって」


「じゃあ、そうね。海野殿に嫉妬してるんだ」


「してねぇよ」


 クスクスと笑う美女。雪のように白く透けるような肌、ふっくらとした頬、赤く美しい弧を描いて上がる形の良い唇、濡れたように潤む大きくて真っ黒な瞳。長い黒髪は豊かに畝って肩から腰へと落ちている。とても女らしい人だった。


「せっかく可愛い女の子連れてるのに、その子が海野殿に夢中なんだものね。そりゃあ怒るわよね」


 そう言って、その美女は重隆にしなだれかかる。開耶は慌てて二人に背を向けた。


「姫の前、よせって」


 恋人なのだろうか。とても親しげな雰囲気。開耶は必死で前を見た。でも全身の感覚が後ろを、二人を向いてることが自分でわかる。嫌だ。開耶は胸に湧く感情を扱いかねて目を泳がせた。ここから逃げたい。離れたい。どこか二人が見えない所へ行ってしまいたい。


 その時、ドン! 背中を押され、開耶は前へと飛び出した。


「あ!」


 空気が鋭く尖っている。目の前には大きな茶色の固まりがあった。それがこちらに向かって駆けて来た馬だとわかったのは、馬上の人物と目が合った瞬間。


――じじ様!


 馬は強く手綱を引かれ、首を大きく逸らした。同時に開耶は身体を横抱きに浚われ、その場より救い出される。そこに均衡を崩した馬が崩れ落ちてきた。大きく砂埃が舞う。祖父は馬が落ちるより早くその背より飛び降り、そしてすぐに手綱を引っ張り上げて馬の体勢を戻す。馬は崩折れた二本の前足を慌てて戻し、すぐに何事もなかったかのように立ち上がって、ガツガツと蹄を鳴らした。


「おお、さすがは金刺殿。馬の扱いに長じていらっしゃる」


 感嘆の声がする。馬の脚は折れなかったようだ。開耶もホッとした。でもその瞬間、低い声が響いた。


「娘を避け損なって馬から落ちるとは、武士とは思えぬ醜態ぞ」


 それ程大きいわけでもないのに空気を奮わせよく響く声。場がしんと静まり返る。直後、御簾がサラサラと上げられ、その人が姿を現した。


 源頼朝。


「神事を何と心得る。馬の前に飛び出したその娘は牢へ繋いでおけ。今後、このようなことがないよう見せしめだ」


 感情をまるで感じられない無機質な声に、開耶はぞっと身を奮わせる。噂に聞いていた通りの人物だ。この男は目的のためなら手段を選ばない。頼朝は自分の意のままにならぬものを攻め滅ぼしていく。

 その時、まだ年若い少女の声が響いた。


「いいえ、父上。それはなりません。それこそ神事を穢すこと」


 頼朝が自らの後ろを振り返る。すると別の声が続いた。


「そうですよ。事故などよくあること。それよりも神事を血で穢さなかった金刺殿を褒めてこそでしょう」


 大姫と御台所、北条政子だ。殿上で始められた鎌倉の主家一家のやり取りを、観客達が息をのんで見守っている。


――あれが大姫。


 遠くてよくは見えないが、姫君然とした堂々たる佇まい。義高の許嫁だった人、そして幸氏の想い人。


「神事の途中で縁起が悪いとおっしゃるなら、もう一度開始から行えばいいこと」


 大姫はさらりと立ち上がり、端近まで出て行って声を上げる。


「幸氏」


 前庭に控えていた幸氏が腰を上げ、数歩前に出る。


「あなた、あの娘の為にもう一度皆中の腕前を見せてはくれない?」


「御意のままに」


 幸氏は頭を下げ、弓を手に立ち上がる。


「ほら、父上。これで何も問題はありませんわ」


 にっこりと微笑んだ大姫に頼朝は苦笑して言った。


「姫がそう言うならば仕方ない。だが、皆中しなかったらどうするつもりだ? あの娘を牢に入れるぞ?」


「ええ、どうぞ。でもそれはありえませんわ。幸氏は外しませんから」


 その言葉の通り、幸氏は皆中の技を見せ、神事は恙無く終わりを迎えた。


「大丈夫か?」


 声がする。重隆の声だ。でも開耶は返事が出来なかった。あの時、馬場へと押し出された背中が毒でも塗られたかのように痺れていた。

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