第17話 赤の闇

 そこは闇の世界だった。紅い花を煮詰めて染め上げたような昏く深い赤を潜ませた漆黒の世界。そこにポツリと赤い染みが宿る。小さな炎の気配。その炎がポゥッと周りの何かを吸い取って明かりを広げ、鳥の翼のようにはためくと、やがて人の形を取った。


「恨めしや。魅寧様を虜にし、閉じ込めたは何の力ぞ」


密やかな声と共に闇の中で目がギョロギョロと動く気配。




「戸は何処、閉めたは誰ぞ」


——探されている。


逃げねばと思うけれど身体が竦んで足が動かない。


ギョロギョロと辺りを探っていた目の動きが止まった。


「魅寧様?」


窺うような声の直後、絶叫が聞こえ、火の粉がパアッと爆ぜた。その一瞬、照らされて映し出されたのは、母の顔だった。


「おたあ様!」


幼い頃別れたきりの母。開耶は母に駆け寄ろうとして、だが風に吹き飛ばされた。



「寄るでない。穢らわしい」


熱風に巻き込まれたと思った刹那、薄桃色の羽根が開耶を包んだ。


「魅寧様はお気が短い。目覚めには特にな」


そう口にして開耶を見下ろしたのは、人と言うにはあまりに整った、美し過ぎる面をした男、のようだった。


「この娘を殺めてしまっては、珠もまた消えてしまいましょう。ここは何卒お鎮まりを」


その声に対し、母はチッと舌打ちをすると忌々しげに眉を顰めて右の腕を高く掲げた。


「我が君。何故に吾を呼んで下さらなかった」


その腕が朱に染まっていく。熱を帯びていく。鉄が溶けるようにドロリと揺らぐ影。紅い焔が開耶を掴もうと喉元に伸びてくる。


「おたあ様、止めて!」


叫んだ途端に闇は消え、開耶は目を覚ました。







「随分うなされてたねぇ、何を見たんだい?」


 目を開けば、白猫の禰禰が顔を覗き込んでいた。


「夢を」


そう答えて胸を押さえる。ドクドクと忙しなく跳ねる音に、戻ってきた感覚を掴み、ホッと大きく息を吐く。


「おたあ様が火の中に居たの」


それだけ答えたら、白猫は薄く笑った。


「そりゃあ、胡蝶姫は夢の姫だからね。あっちでは時空の狭間に呼び出され、自分が蝶になったのか、蝶が自分になったのかと思い惑った人間もいたそうだよ」


「あっち?」


「遠い西の大陸のことさ」


ふぅん、と返してから開耶はふと違和感を覚えて左目を擦った。


「おや」


寧寧様が開耶を見下ろして口をパカリと開ける。


「その目は久方ぶりだねぇ」


ペロリと舌を長く伸ばして口周りから鼻先まで舐め回すと禰禰様は腕を丸めて顔を擦った。


「こりゃ、解かれちまったね」


「解かれた?何を?」



それに答えはなく、白猫は開耶の肩口にその重みを乗せると、開耶の眉間に爪先を軽く当て、ウーと低く唸った。


左目の奥に何かがある。得体の知れない何かが。でも、それの正体を探ろうとする前に禰禰様の肉球が開耶の額を小突いて、開耶は後ろに仰け反った。ゴンと床に後頭部を打ち付けて、あいたたと起き上がる。


「禰禰様?」


 白猫は長い尻尾をピンと立て、しゃなりしゃなりと歩いていく。


「やれやれ、腹が減ったよ。早く飯にしとくれ」


そう言って禰禰様は気に入りの敷布の上で丸くなり、腕の上に顎を乗せて目を閉じてしまった。


——ミネ様って誰?禰禰様は知ってる?


その問いはやがて薄く消えていった。





それからしばらく経ったある日、一人の客がまじないを依頼しにやってきた。


「姫の前さま?」


 流鏑馬の時に重隆と親しく話をしていた姫だ。


「あら。今、鎌倉で評判の木花咲耶媛ってあなたのことだったのね」


 姫の前は小屋の中を珍しげに眺めた後、昼寝をしていた禰禰さまの元に駆け寄った。


「まぁ、猫ちゃん! 可愛い」


 言うなり、ガシガシと禰禰さまの頭や背中を撫で擦でまくる。寝ぼけていて対応の遅れた禰禰さまは目を白黒させて跳ね起きると、毛を逆立て怒って走り去った。


「あら? 猫って撫でられるのが好きなんじゃないの?」


 美しく整った、華やかな面立ちの姫だが、きょとん、と首を傾げる様は幼子のよう。美人で性質も強そうだが、案外惚けた人なのかもしれない。


「あ。今日は恋のまじないをして貰いに来たの」


 サラッと告げられた姫の前の言葉に、開耶は硬直する。そんな開耶を見た途端、姫の前はきゃらきゃらと笑い出した。


「やだ、大丈夫よ。相手は望月殿じゃないから安心して」


「私は別に何も……。ご依頼主さまとそのお相手のことは他言いたしませんからご安心ください」


 普段ならまじないが始まると同時に相手の気を呑みに行くのだが、今日はそれが出来ない。この人の気は強すぎる。下手に巻き込まれないようにしないと。開耶はモゴモゴと口ごもりながら答えると目を逸らした。


「うん、他言しないで欲しいの。これは密命だから」


 至極真面目な顔をしてそんなことを言い出す姫の前に、開耶は目を瞬かせた。


「密命?」




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