第6話 諏訪の神詞
何をやってる? その子は誰だ? 随分目立ってるぞ」
眉をひそめる少年に、開耶を抱え上げる青年は片側の口の端を上げて短く答える。
「妹だ」
「おまえの妹? 望月から来たのか?」
「まぁね」
答えながら開耶に目配せをする男。仕方なく話を合わせることにする。ペコリと頭を下げて顔を上げたら、こちらを見上げたその少年の顔は明らかに驚きの色を有していた。
「姫、こんな所で何を!」
ギクリ、と身が強張る。思わず顔を背けて重隆と呼ばれた青年の肩口に隠れようとした時、重隆が笑った。
「こいつが姫様なもんか。よく見ろよ、別人だろ。姫はほら、御所様と御台様の隣で大人しく見物されてるさ」
からかうような重隆の口調に、少年は鶴岡若宮の正面の高殿、御簾の掛かった辺りに目を飛ばした。その中には鎌倉の主・源頼朝やその妻・北条政子らが並んで見物しているようだった。
少年は開耶に向き直ると頭を下げた。
「申し訳ない。人違いをしました」
開耶は無言で首を横に振ると、素知らぬ振りをして馬場に目を戻した。並ぶ三つの小さな的。その向こうに、今にも駆け出そうとしている人馬。
「でもま、確かに似てるよな」
じろじろと無遠慮に開耶の顔を見上げて来る重隆の視線は感じながらも、開耶はそれを無視して流鏑馬に集中した。手綱が下ろされ馬が走り出す。
一つ目の的。パリン! とかわらけが砕け飛ぶのが見えた。二つ目、三つ目。冷静に射落とされていくかわらけ。
「大祝は? やったのか?」
背が低い為に馬場が見えないのだろう。少年の問いに重隆が答える。
「ああ、皆中だ」
「では大祝は赦されるのか?」
「ああ、多分な」
嬉しそうなその顔に開耶の緊張も解ける。馬場の先のその人を目で追う。
でもその人は一度馬から下りたのに、また馬に乗った。
「いや、まだだ。まだやるようだぞ」
付近にいた男が首を横に振っている。
「だが、的には何も挟まれていないが?」
「あの串さ。御所様はあの串を射抜けと言ってるんだ」
開耶は目を見張って、馬場の脇に備えられた小さなそれを見た。
「串? 馬鹿な。ありゃあ五寸程の細い箸みたいなもんじゃないか。あんなの射抜けるはずがない。流鏑馬の腕を見せよと言いながら、御所はどうあっても赦すつもりはないのだろうな」
「諏訪の下社の大祝は木曽との繋がりが強かったしな。それに鎌倉への参上も随分遅れた。諏訪内でも上社は下社を狙っていると聞くし、御所様の腹づもりでは、下社は滅ぼして上社に纏めさせるんだろ」
開耶の胸に絶望が広がる。源頼朝は初めから赦すつもりなどなかったのだ。生を期待させて、それをこんな形で裏切るなんて。京の朝廷のやり口と同じだ。口ばかり調子を合わせ、人をいいように操って、裏ではその敵と通じ、もう用済みと思えば容赦なく使い捨てる。でも頼朝は武士なのに。武士のくせに平気で武士を裏切るのか。
馬場の先、諏訪の大祝は馬から下り、神に祈りを捧げるように頭を下げていた。
そうだ。じじ様は武士であると同時に諏訪の神に仕える身。その身は人を殺める為にあるのではなく、神事を行う為にある。恐らく今その胸にあるのは神への祈りだけ。ならば——。
開耶も目を閉じて神詞を口にしようとした時だった。
「みなかたの神の御力さずかれば 祈らん事の叶わぬはなし」
耳に届く諏訪の神詞。驚いて目を落とせば、呟いていたのは重隆だった。
そうか、と思う。彼は信濃の武士。おそらく諏訪とも深い繋がりを持つ氏族の出なんだろう。
開耶は遠い青い空を見上げた。白い一筋の長い雲が見える。龍だ。龍神様が見てらっしゃる。その雲の下を黒馬が駆け出した。
あれだけ暴れていた黒馬が、今は騎上の人と一体となって真っすぐこちらに向かって走ってくる。
「いつか、俺もあそこで流鏑馬を披露するからな」
聞こえた声に開耶は大きく頷いた。
続いて、大歓声が鶴岡若宮の境内を大きく揺るがした。
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