第5話 流鏑馬
それから一月程経ったある日、開耶は人の賑わう鶴岡若宮の境内にいた。いつもの派手な衣装ではなく目立たぬ地味な色合いの汗衫(かざみ)姿で。
お祭りに居並ぶ人垣の後ろから、どこか欠けて覗き見出来る所はないかと首を巡らせる。でも、どこもたくさんの人波。鶴岡若宮で初めて行われるという京の風習に倣った本格的な祭りに人々は興奮していた。
鶴岡若宮の境内には綱が引かれ、流鏑馬の馬場が準備されていた。馬と射手が走る長い一本道。その脇には的も用意されている。
「今日、諏訪の大祝(おおほうり)が処刑されるんだとか」
聞こえてきた言葉に開耶は足を留める。
「大祝って諏訪大社の神官のことだろう? どうして? 寄進を受けていたはずじゃないか」
「諏訪大社には上社と下社の大きく二つがあるのさ。寄進を受けたのは上社だ。下社の大祝は木曽の義仲公にお味方した為に捕われて、梶原殿がずっと預かっていたんだとか。それが今日処刑されるんだと」
「御所様は木曽の辺りには容赦がないからな」
「だが諏訪の大祝は秀郷流の流鏑馬の名手とかで、梶原殿が御所様に何度も命乞いを掛け合ったそうな。それで処刑の前に挽回の機会が与えられて流鏑馬を試されるんだと」
「へえ、どれほどの名手か楽しみだな」
開耶は震えた。やっぱり処刑されるのか。
その時、ワッと歓声が上がり、カツカツと馬の蹄の音が近付いてくる。流鏑馬が始まったのだ。
ややして、パン! と何かが跳ね飛ぶ音。的が射抜かれたのだろう。
「お見事!」
必死に伸び上がって人垣の向こうを覗こうと駆け回るが、どこもかしこも押し出されるばかりで馬場が見えない。
「いや。これだけ風の強い中を、どなたも見事な腕前だな」
開耶は天を仰ぐ。それ程高くない木の枝が大きく風に揺らめいている。開耶は懐に忍ばせていた一片の木札をまさぐり出すと、固く握りしめた。その木札には大きな黒曜石が嵌め込まれている。
――御柱様、どうぞ守って。
人々の上へと枝を伸ばしている若い木。枝は細く弱そうだが、開耶一人が乗るくらいならば折れないだろう。開耶は幹に手をかけるとよじ登り始めた。枝から伸びる三つに大きく分かれた大きな葉を見て開耶は思い出す。これは梶の木だ。神事の際の供え物を乗せる折敷としてよく用いられ、神社には欠かせない大切な木。七夕の時にはこの葉に願いをかけた。
「残るは諏訪の大祝か」
やっと人の上に出る。葉の陰から覗き見れば、遠く一本道の向こうに一対の人馬があった。でも黒い馬はしきりに首を上下させて落ち着かない様子だ。
「また随分な悪馬を与えられたな。あれではまともに射るどころか真っ直ぐ走るかどうか」
「御所様もお人が悪い。お赦しになる気はないのさ」
その時、着物の裾を軽く引っ張られる。
「おい。何をやってるんだよ? 猿かと思ったら女の子とはな」
驚いて見下ろせば、先日に由比の小屋に現れた信濃の武士だった。
「お宮のご神木の上から見物しようなんて、大したじゃじゃ馬だな。子供と言えど、見つかったら捕まって牢に入れられるぞ」
腕を引っ張られ、下ろされそうになる。でも一本道の向こうでは、もう人馬が走り出そうとしていた。
「下からでは見えないんです!」
——じじ様の最後の姿になるかもしれないのに!
必死で抗う開耶の形相に、その青年は少し口を歪めた。
「仕方ないな」
言うと、青年は開耶の腰に手を伸ばす。枝から下ろすと自分の脇へと抱え上げた。腰をしっかりと持たれ下半身が密着し、安定した。でも上半身は均衡を崩す。開耶は慌てて青年の肩口にしがみついた。
「ちょっと、一体何を?」
青年の拘束から逃れようとする開耶に、青年は馬場に向かって顎をしゃくった。
「木よりは少し低いが、それでも馬場は見えるだろ?」
その時、ふと風が止まった。
「あれ?」
青年が開耶を見上げる。交わる目線。
「あれ、お前……?」
何かを言いかける青年。
でも、馬の蹄の音と木が砕ける小気味の良い音に開耶は目を馬場に戻した。三つの的を全て射抜いて見せた射手は、開耶の前を風のように通り過ぎて行く。
「皆中! お見事!」
会場のどよめきに開耶はホッと胸を撫で下ろす。遠く、馬上のその姿に手を合わせた。的を全て無事に射抜いたのだ。
でも人々は動かない。それで開耶は知る。まだ終わっていないことを。
「なんだ? 次は土器が的か? 随分と的が狭まったな」
「さっきのは小手調べってことか」
馬場を振り返れば、三つの的立には今までの木の的より随分小さくなった円形のものが挟まれている。
「あのかわらけを割ってみろって? 外せば即刻首を落とされるんだろ」
馬場を戻っていく黒い馬と一人の武士。その横顔に開耶は唇を噛み締めた。
——じじ様。
でも声をあげることは出来ずに、ただ手の中の木片を握りしめる。
「重隆」
かけられた声に開耶を抱き上げていた青年がそちらを振り返る。一人の少年が人ごみをかきわけて近付いて来ていた。
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