第二章 諏訪の神神子姫

第4話 まじない

 その頃、幕の内では少女がそっと微笑んでいた。

「お諏訪さんに詳しい、信心深い信濃の武士が初めのお客さんなんて幸先がいいわ」

 右手の指を二本立てて手刀にし、九字の呪文を小さく唱えて四縦五横に空を切る。


「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・前・行!」


 それから胸に手を当て、声なく祈った。

――諏訪の建御名方様、龍神様、どうぞご加護を。


「開耶媛、次のお客さんだよ」

 幕の外からの声に少女は「あい」と一つ返事をし、木花咲耶媛と呼ばれるにふさわしい清廉なる顔を作って新たな客を迎えた。


 次なる客はまだ年若い女。上質とはとても言えない着物に擦れた草履。それでも何とか宋銭を工面して来たところに、抱える悩みの重さが表れる。


「よぉいらしゃおった」

 にっこりと微笑んで開耶媛は女と対峙した。


 『まじない』は『交じ合い』。相手の気を呑み、その本心の命じる所を読んで祝を施す。北から南の様々なお国言葉で相手の気をそらし、魂の波動の声を聴くのが開耶媛の才。

「病の平癒か子授けか、助命嘆願……それとも呪詛?」


 低く響く開耶媛の声に、女が慌てて首を横に振る。

「違います。父が姿を消しました。その居所を占って欲しいのです!」

 女の必死の形相の中に開耶媛は真実を読んだ。その父は既にこの世にないことを。この女は魂の奥ではわかっているのだ。でも諦めきれずにここに来たのだろう。


 開耶媛はサラサラと筆を走らせる。

「失せ物、失せ人は縁の切れ目だっちゃ。出雲様の縁結びにあやかって、縁の糸を捩り戻すで安堵しいや」

 女はホッとした顔をして頭を垂れる。その頭に榊の葉をサラサラと滑らせる。


「急急如律令、急急如律令」

 そう言いながら、でも開耶媛が書いた護符は縁切りの呪だった。


 とうに切れてしまった縁は今生ではどうにもならない。代わりとなる新しく幸せな縁を紡ぐのが一番良い。そうでなければ、死者との強い縁は魔を呼び寄せてしまう。


 彼女が幸せな縁をこの世と結ぶことこそが、その父の願うことだろう。そう祈るのは開耶媛の勝手なのかもしれない。依頼者への裏切りは神罰に値する罪かもしれない。先程の青年の言葉を思い出しながら、それでも開耶媛は一心に女の新たな縁を祈った。


――神様ごめんなさい。私は神の為には祈らない。人の為にまじないます。

 それこそが、彼女の生きる道だった。

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