仕方のない人

 新暦3067年冬二月


 ローレシア魔法王国の辺境クルクマ村には雪が降っていた。

 暖炉がパチパチと薪で音をかなでるかたわたで、安楽椅子に揺られる妻の、その膨らんできたお腹を撫でる。


 温かに揺れる火に照らされるゲンゼの顔は、穏やかで満たされている。

 きっと俺も同じような顔をしている。幸せだ。気分が高まり、雰囲気があれば、俺も普段の調子を乗り越えて臭いセリフのひとつも言えるようになる。


「愛してるよ、ゲンゼ」

「また出先でアンナとえっちなことしましたね」


 前言撤回。ゲンゼは生まれてくる子どもとの家庭を想像して幸せを噛みしめているのではなく、不義理な夫の裏切りに憤慨していたようだ。


「妊娠した妻をおいて世界を救うために忙しくすることには腹をたてません。私は賢者ですし、心も成熟していますので。でも、えっちしまくりはキレそうです。私を愛しているというのなら、節度を弁えて、アーク」

「でも、出先でえっちしていいって」

「しまくれとは言ってないでしょう?」

「その通りですけど、アンナに押し倒されると抵抗が……」

「はぁ、この性欲の獣」


 ゲンゼはおでこに手をあてて深くため息をついた。

 

「私は不安なんです。アーク」

「俺の心はゲンゼのものです。誓います」

「いえ、不安なのはそのことじゃなくて」

「え? 俺がアンナとえっちしまくること気にしてないの?」


 えっちしても怒られないのですか。なら遠慮なくしてもいいか。


「気にしてるに決まってるでしょう。調子に乗らないで、浮気者」


 俺は弱々しく「ごめんなさい」と言って、口を閉ざす。


「その言葉が嘘になった時は、こっちで考えがあるので心配はしてないです」

「それは、その、どういう意味ですか」

「アーカムを殺して私も死にます」


 ゲンゼは薄く笑みをうかべ、目元に影を落とす。

 ま、まずい、妻をないがしろにしすぎてメンヘラ化している……。


「アンナとはもうえっちしない。誓うよ、ゲンゼ」

「その言葉を信じるほど、私はアーカムの下半身を信用してないです」

「あう」


 最近はゲンゼともようやく打ち解けた話し方をできるようになってきた。お腹に子供ができるというのは、俺たち夫婦の一体感を増させてくれた。

 だというのに、ほかの女と出張先で浮ついたことをする。これほどに酷い夫がいるだろうか。いや、俺も己を制しようとは思ってるんだけどさ。いざアンナを前にするとね、その「ほう、いいですねえ!」と、普段は浮気反対派でモラルを気取っている全俺32議席が満場一致しちゃって、抵抗できなくなっちゃうんだ。


「英雄、色を好むというやつなんでしょうね、はぁ」

「ゲンゼのことがもちろん一番好きだから、その」

「こっちに来てくれます、ケダモノさん」


 俺は絨毯に膝をつき、ゲンゼの太もものうえに頭を乗せる。

 彼女が俺の頭を抱えるようにしてきた。耳元に囁くように彼女は声をもらす。


「私が不安に思っているのは戦争のことですよ、アーク」

「あぁ……そっち」

「当然でしょう。絶滅指導者が指揮する吸血鬼の群れと戦うなど」

「初めてじゃないですよ、ゲンゼ。それに今回は味方もたくさんいます」

「だとしてもです。もしアークを失ったらと思うと……子どもも産まれるのに」


 ゲンゼの俺の頭を抱える手に力がこめられる。


「本心で言えば、人の世のことなど、あなたの命に比べればどうでもいいです。ひっそり暮らしたい。あなたと私、それと生まれてくる子と」

「それは魅力的な提案ですね」

「でしょう? ……でも、どうせ、あなたはそんなんじゃ納得しない」

「納得するかもしれないですよ」

「その言動でわかります。納得しません。あなたは責任感が強い。名誉も好きです。お金も好きですし、女の子はもっと好きです。平穏な暮らしに興味がない」

「いやいや、俺だって愛する妻と平穏に暮らすだけでいいのなら、もちろん、その道を選びますって」

「それじゃあ──」


 ゲンゼが顔をあげたのを感じて、俺も顔をあげる。

 漆黒の前髪の隙間から、夏の空を切り取ったような蒼穹の瞳が俺を見つめている。俺はそのまなざしと、しばしの沈黙を共有した。


「いま選んでくれますか、アーク」


 問いはシンプルだ。

 家庭か仕事か。愛か使命か。

 

 俺が子どもの頃はこんな選択に自分がたたされるなんて想像していなかった。

 大人になれば、人間はこうした選択をせまられる。いつか必ず。


 俺はゲンゼの膝のうえで、彼女の細く白い指を絡ませるように握る。

 返答のために慎重に言葉を選んでいると、彼女は納得したようにうなづく。


「だから言ったでしょう、あなたは責任感が強いって」

「……そんなつもりはないですよ。救えるから手を伸ばすってだけの話です」

「多くのひとはそんな理由で恐ろしい怪物には挑みませんよ」


 ゲンゼは俺の手に手を重ねてくる。

 

 大事なものを守る。その名は世界。その名はゲンゼ。ほかにもいろいろ。

 俺のような人間が勝手に背負うには重すぎるが、だとしても敵の邪悪さと無慈悲さ、望まない結末をまえにすればやるしかないという気持ちが湧いてくる。


「ごめん、ゲンゼ、やっぱり行かないと。俺が行かないとダメなんです」

「謝らないでください、アーク。あなたが仕方のない人なのはわかってますから。そこも含めて自慢の夫です。私が愛したあなたは正しいと思ったことをやる人です」


 ゲンゼは嘆息すると、顔をずいっと近づけてきた。


「それじゃあ、世界を救ってきてください。そして必ず生きて帰って」

「ええ、もちろん、どっちもこなしてみせますよ」

 

 俺は迷いなく、はっきりと返事をした。

 数日後、俺は故郷を旅立ち、遠い北の地へと馬を走らせた。

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